*12* 偃月に燃ゆ

 輝きも満ち欠けも中途半端な、偃月えんげつの闇夜であった。真知まちに連れられ、ほのさくと共に庭へと出づる。

 卯月の夜風は、身を震わせるほどに肌寒い。殊に仄明るい彼の場所は、なにか不思議な力でも働いているかのように、際立って冷気に満たされていた。


「穂花様、こちらを」


 知らず首を縮めていた穂花の肩を、ふわりと覆うぬくもりがある。

 桜の芳香を纏ったそれは、朔馬自身が直前まで袖を通していたスーツのジャケットに違いなかった。


「お風邪を召されては大変ですから」

「ありがとう、ございます……たか先生」

「朔馬、もしくはサクヤとお喚びください。私相手に敬語を使われる必要もございません」


 気を利かせたつもりなのだろう。なんなく告ぐが、穂花としても腑に落ちぬものがある。


「あの、でしたら先生も様付けとか堅苦しい敬語とかやめません? まちくんみたいに無遠慮なほうが話しやすいです」

「おい」

「それは……なんと恐れ多きお言葉」

「そりゃ私たち神様かもしれないですけど! 現代日本に生きる日本人にも違いないし、要は普通がいいです私!」


 実のところ、いまだ半信半疑だ。サクヤが朔馬へ変わる瞬間を目の当たりにして、信じざるを得ない状況に立たされているだけ。

 神だからと偉そうにふんぞり返るわけでも、逆に恐れおののき縮こまるわけでもない。ただ、自分を見失わずにいたいだけだ。


「……承知致しました。しかしながら、父仕込みの受け答えでありますゆえ、習慣を変えることはすぐには難しいかと……貴女様がお赦しくださるなら、お喚びします際は、ご希望に添えることと存じます」


 うんうんと相づちを打ちながら、穂花は「あ、これは本物だ」と悟った。朔馬にとって敬語は呼吸も同然なのだろう。

 となれば、無理強いはしないことが賢明ではなかろうか。


「大丈夫大丈夫、堅苦しくなかったら全然問題ないので!」

「左様でございますか」


 赦しを得たことで、朔馬にも安心がもたらされたらしい。ふわりと麗しく頬笑みながら、


「では、穂花」


 ――とのたもうた。一瞬にして、時が凍りつく。


「呼び捨てかよ」

「? 敬称は厭だと仰られたので……なにか間違えたのでしょうか?」

「イエ、ソレデ合ッテマス」

「あぁ、良かったです」

「……こいつ、こんなに天然だったか?」


 無自覚の爆撃に満身創痍の穂花、真知の心情など、朔馬が知る由もない。


「じゃあ、大体そんな感じでおねがいします。えっと……さく?」

「さく……ですか」

「〝朔馬〟で〝サクヤ〟だから〝さく〟とか、安直だな」

「いいじゃない、わかりやすくて! ……え、ダメです!?」

「いえ、感激して……嬉しいです。ありがとうございます……穂花」


 何故か感極まったように涙ぐむ朔馬だが、そんなに壮大な話をしていたか? と真知は甚だ疑問に思う。


「……まちくん」

「なんだ、引いたか。奇遇だな。俺もちょうど、」

「なにこれ、超護ってあげたいんですけど!」

「……勘弁してくれよ」

「いけません! お護りするのは、私の務めです」

「もうおまえら黙ってろ」


 収拾がつかないと早々に踏んだ真知は、ボケにボケまくる大ボケ夫婦を一刀両断する。

 穂花、朔馬としても、なにを目的として自身らがここに集っているのか理解していた為、真知の言葉に従った。

 こうして、真知は本題を持ち出す。


「穂花、さんしんのことは」

「ピンとこないかも……ごめん」

「安心しろ。漏れなく説明してやる」


 あぁ始まってしまうのかと、気になるような、それでいて怖いような気持ちで胸中がないまぜになる。


「三貴神とは、この地をつくった男神イザナギが生んだ中で、最も貴いとされる神を指す。太陽を司るアマテラス、月を司るツクヨミ、海原を司るスサノヲの三柱だ。このうち、俺はアマテラスに仕えていてな、真名をオモイカネという」

オモイカネノカミ。知恵を司る一柱であらせられます。アマテラス様があまのいわへお隠れになった際、そのえいをふるわれ、世界を暗黒から救ってくださいました。以来、オモイカネ様は天津神、いえ八百万における神々の羨望の的なのです」

「あのバカがかんしゃくさえ起こさなけりゃ……ったく、俺は高天原のなんでも相談窓口じゃないんだっての」

「あまつかみ……たかまがはら?」


 一生懸命理解しようと尽力するが、幾分聞き慣れぬ単語が多すぎた。否、厳密には忘れているのであろう。

 首をひねれば、すぐに補足がある。


「高天原は神のみが住まう天の世界。ほかに死者の世界、黄泉がある。これはイザナギと共に世界をつくった女神イザナミが支配している。そして高天原と黄泉の中ほどに位置する国という意味で、この地、あしはらのなかくには在る」

「高天原におわす神々を天津神、私のように、ここ葦原中津国に住まう神をくにかみといいます」

「要するに、だ。ここを基点として、高天原が天国、黄泉が地獄みたいなもんだと思ってくれればいい」

「なるほど……」


 実にわかりやすいまとめである。さすが知恵の神の名は伊達ではない。


「話を戻すぞ。三貴神の中で、いま高天原を治めているのはアマテラスだ。俺はその部下なわけだが」

「私は……?」

「結論から言う。孫」

「あっ、そっか孫ね。……孫ぉっ!?」


 うっかりうなずきそうになってしまったが、事は決して頬笑ましくなどない。


「孫……私が、なんかこうすごく偉い感じのアマテラスさんの孫……!?」

「語彙が残念ながらに事の重大さを理解したか。そうだ、つまりおまえは偉い」

「嘘でしょ~っ!?」

まことにございますよ」

「あの、さく?そんな満面の笑みで言われても困りますよ……?」


 それなりの覚悟はしていたつもりだが、物事には限度がある。いましがた告げられたことは、それを軽々と凌駕したというわけだ。


「で、なんやかんやあって、ここ葦原中津国も天津神が治めるってことで国津神と話がまとまってな。統治役におまえの父親が抜擢されかけたわけだが」

「ん、厭な予感……」

「これがボンクラでな。まぁアマテラスの息子だから当然なんだが」

「まちくんって容赦ないよね!」

「そんなこんなで、そのまた子供のおまえがやることになった、と」

「割愛すごくない!?」

「こっちだって迷惑してんだよ」


 気のせいだろうか。淡々とした言葉のところどころに、棘があるように感じるのは。


「息子そっちのけで溺愛してたおまえが旅に出るもんで、アマテラスのバカが、ついてくってほざきやがるから」

「から……?」

「〝おまえに預けるくらいなら俺は死ぬ〟っつってあのバカに引導を渡してやった」

「上司になに言ってるの!?」


 間違いない、怒りをあらわにしている。冷静沈着なあの真知が。

 彼の逆鱗にふれるほどのものとは、一体なんなのか。

 量りかねる穂花の傍で、穏やかに紡がれる言の葉がある。


「最愛のご家族でいらっしゃいますから、オモイカネ様も、貴女様の身をいたく案じておられたのですよ」

「ん……家族?」

「えぇ。貴女様の母君は、オモイカネ様の妹君、千々チヂヒメ様でいらっしゃるのです」

「……ちょっと待って。それってつまり……まちくんが私の伯父さん!?」

「失礼な。俺はまだ若いぞ。お兄さんと喚べお兄さんと」

「そういう問題じゃないよね!?」


 もうどこをどう掘り下げても、地雷を踏む気がしてならない。これほど驚愕の事実を、真知は淡々と、朔馬はにこにこと告げる。神の感覚とは恐ろしい。


「……まぁ、おまえが心配には違いなかったんだよ。ちゃんとアマテラスの許可は取って、俺を供に、統治の為おまえはここ葦原中津国へと降り立った。これを〝天孫てんそん降臨こうりん〟と、後世の人間たちは記したらしいな」


 自分が、この世界の統治者に抜擢された――

 顔も知らぬ祖先の血族だ、貴いのだと説き伏せられても、そうなのですかとしか返しようがない。

 ……そもそも、どうしてこれほど大事なことを、自分は忘れているのか?


「私が貴女様に初めてお目にかかりましたのは、降臨なされたその場所、高千穂の地にございます。……恋に落ちるとは、まさにあのことでした」

「えっと……一目惚れ?」

「そうです。一目惚れですね」


 ふわりと微笑し、朔馬はつと、菫の視線を逸らす。


「私は嬉しくて、父のもとへ貴女様をお連れしました……思い返せば、何故あのようなことをしてしまったのかと、後悔ばかりです……」

「……さく?」


 ――桜だ。また桜が散っている。背けられた朔馬の、麗しいかんばせが在るだろう方角で。

 なにか、声をかけてあげなければ。

 これといった案もなく、漠然とした使命感のままに肩へ手を添える。


「――父はたいそう喜びました。ほまれ高いアマテラス様の御孫子が、我が子と恋仲になるやもしれぬというのですから」


 粛々とした半月の夜に、唄うような声音が響いたのは、そんなときだ。


「父は両手を広げて貴女様を歓迎致しました。宴を開き、自慢の我が子をニ柱、贈りものとして差し出したのです」

「あ……」



〝――あなたに贈りものよ、穂花〟



 母の言葉が、蘇る。


「一柱は此花コノハナサクヒメ。此花が咲き誇るように、生命と繁栄を司る神にございます」


 ひらり……ひらり。

 おぼろ月夜を、桜霞の領巾が舞い踊る。


「そしてもう一柱は、彼の兄神――」


 風もなく、木々がささめく。

 まるで桜の花弁が舞い落ちるかのごとく、闇に溶ける紺青の衣を纏いし神が降り立つ。


「ひとつ、お詫び申し上げねばなりませぬ。この身が付喪神というのは、虚言であります。このような面ごときに、なんの思い容れもございませぬ」


 しゃらり、しゃらりと、鈴は転がる。

 無垢に、嘲笑う。


「ご機嫌麗しゅう。わたくしは此花開耶姫の兄、此花コノハナ知流チルヒメ――またの名を、イワナガヒメと申す者。岩のように永く在れというのが名の由来。不老長生を司る神でございます」


 闇の草笛は、奏でられるほどに、甘やかな艶を増す。


「そこな愚弟と同じく、貴女様の夫でございます。この日をどれほど待ち望んだことか……お会いしとうございました。ニニギ様……我が愛しき細君さいくん?」


 鼻にかかったような水飴の声音が、とろりと、穂花へまとわりつく。


「お迎えに上がりました。貴女様と、永久を過ごす為に――」


 狐の面から覗く朱の唇が、三日月を描く。

 おぼろな月明かりの中、美しくも危うい妖艶な影を纏った神を、静かに燃えたぎる生け垣の椿が、煌々と照らし出していた。

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