箱庭のクロニスタ
鳴海てんこ
プロローグ
何が何だか、分からない。
この祭儀場で一番天に近いところ、祭壇の上でひざまずかされた男は私の父であった。ぼろきれのような布をまとって憔悴しきった男が、まさか指折り数えるほどしかいない医学の権威だと、この場の誰も知らない。知らぬまま、彼らは父を贄として扱う。父もまた、悄然と頭を垂れてそれを受け入れているようだった。私にはそれが嘘であって欲しいと願いつつも、それ以上に何より混乱していた。
「うそ、うそ、うそでしょ……?」
ずっと父を探していたが見つからなかった。その途中で、私は自分が何者かさえ分からなくなって、自己を特定するだけの確たる物を喪失してしまった。消失した自分を無理やり補うことで、私は『カルセラ』という人格を得てようやく心の安寧を手に入れた、はずなのに。
どうして今更、無くした元々の私・オルティリアの父親がここに存在するんだろう。オルティリアという人格は幻想ではなかったのだっけ。そんなちぐはぐな考えが私の中でせめぎ合う。
私はオルティリアなのか? カルセラなのか?
父が生きていて嬉しい。
父が殺されそうで悲しい。
それ以上に自分が何者なのか、また分からなくなるのが恐ろしい。
そして同じ問いを何度も繰り返す。
私はカルセラなのか? オルティリアなのか?
オルティリアの父が今この場に存在するのだから、私は人間のオルティリアなのだろう。しかし私の体はどう考えてもオルティリアではなく
――人間だったはずの『私』はどこへ行った? 『私』は一体誰なんだ?
父はまさに今、目の前で殺されようとしていた。己の身の混乱と、父の身の危険、どちらに対しても確かな対応ができずにいる。夫と兄の二人が慣れぬ動作でもたついている間に、当惑しつつも目の前の目隠し布に手を伸ばした。薄い布を掴む手に力が入る。
「何やってるの!?」
隣から責める口調で金の髪の少女が声を上げた。そんなことにはもう構っていられない。周囲などもうどうでもいい。
「父さん……?」
口に出して父の存在を確認してしまえば、もう後戻りはできない。オルティリアという人間は確かに存在したのだ。だが同時にカルセラという私も今この場で存在し続ける。私は自分が何者か分からない。分からないままに布を裂き、黒い髪に黒い服という不吉極まりない姿で座から転がり出た。
駆け出そうとする私が檀上を臨んだその瞬間、
「いやああああああああああああああああああああ」
自分の物とは思えない悲鳴が晴れた空に響き渡る。溢れ飛ぶ赤い液体が、綺麗に塗装された土の床にきれいな弧を描く。転がる頭を見て、私は認識した。
父はたった今死んだのだ。
心臓がいやに早く脈打つ。息が上がる。混乱の絶頂で、
「何……これ?」
金の髪の少女が驚きとも恐れともつかない声を上げた。腕に翼、体に鱗、足は獣、背には殻、そして蜥蜴のしっぽ。それが自分の姿であると認識すると同時に、周囲が異形の存在に凍りついていることにも気が付く。
ああ、本当に、いったいこれは誰なんだ?
だからやっぱり私には自分のことも何もかも、何が何だか分からない。
だから私は己の心を信じるしか他にやり方が無かったのだ。
これは私、オルティリア/カルセラが、世界と自分の本当を見つけるための物語。
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