第14話 新しい試み

 昨日の事はさっぱり忘れることにした。立場上、私はガルゼッタの妻ではあったが、気持ちは全くその気配はない。元々のカルセラとガルゼッタは何かしら思うところがあったのかもしれないが、政治力が全く働かない結婚だったわけはない。あの腹黒そうなペレグリが、どうにかして王妃の座に妹をねじ込んだと言ったところか。


 さらに突き詰めれば、現王よりも妹姫の方がふさわしい人材ということも知れ渡っている。今の王が倒れたところで、むしろその方が良いとさえ陰口をたたく者がいるらしい。素直に薄情なことを言わせてもらえば、私もそんな他人のために貴重な時間を今は使いたくはなかった。彼をどうにかしようとするなら、おそらく人生の大半の時間をささげる必要があるだろう。不用意に近づいて巻き込まれることだけは、この際避けたかった。だから忘れることにしたのだ。


 私にとってはそれよりも新作を作る方が遥かに重要任務だった。壺が完全の冷えてもまだ、あの大男の下男は壺の前に陣取って辛抱強く待っていてくれた。私の姿を認めるなり、大手を振って出迎えてくれた。


「大丈夫です、誰も触っちゃおりません」

「ありがと。腹ごしらえでもしてから、これを上から着て」


 日が昇って間もないというのに、すでに気温がじわじわと上がってきている。遮るものが無い河原で作業を行うのはなるべく早めがいいと昨日学んだ。ただ暑いからと言って防護を怠るわけにはいかない。私は今日も汚れてもいい長い衣を着せられていた。


「使うのはこの上澄みだけよ。でも絶対に触らないこと、跳ねないように気を付けて。もし跳ねたりしてしまったらすぐに大量の水で洗い流すようにね」

「はい」


 蓋をあけた壺の中は、底の方に灰が沈殿して上澄みは茶色の透明な水になっていた。混ぜないよう、跳ねないよう静かに上澄みだけを石の鍋へと移し、今度は鍋をかまどにかけた。温まってきたところで調理場でもらったオレア油を投入する。そこからは沸騰するまで根気よく、沸騰してからも白くて粘性が高くなり、混ぜづらくなっても、絶えず木杓子でかき混ぜ続けた。


「どれぐらい混ぜればいいか分からないけど、とりあえずこんなもんで」


 小一時間も混ぜ続けて、疲れ切ったところで諦める。木枠に白い液体を流し込んだ。


「ここからはあなたにお任せするわ。もう触っても大丈夫。これを天日で乾かして、固まったら使いやすい大きさに切り分けて完成よ」


 白いもったりとした液体が入った木枠を下男に渡す。彼は嬰児でも渡されたように慎重に受け取った。左右に少し傾けながら一緒になって首を傾げる。


「カルセラ様、これは一体何になるんですか?」

「石鹸」

「せっけん……」

「これが固まったら手を洗う時とかに使うと、水だけで洗うより汚れが落ちるのよ」


 へぇーと、分かったような分からないような声を上げていた。空には雲一つない天気がずっと続いている。そういう季節のようなので、長くとも数日のうちには固まるだろう。もちろんちゃんと作れていればだが。石鹸についてはあとは下男に任せることにする。次なる目標を探すべく私は城へ戻った。


 だが私の記憶と、今の彼らに可能な技術で折り合いがつくものというのはなかなか見つからない。イビスに頼まれたのは商売に使えるが戦争にはならない技術革新だ。単純に、例えば効率のいい製鉄技術を伝えればいいというわけでもない。私はこの後2日間にわたり城と城下を駆けずり回った。その間に下男から石鹸が固まったという連絡を受ける。見に行くと蝋ぐらいの堅さになった薄黄色い石鹸が出来ていた。


「これでいいのですか」

「手の中に納まるぐらいの大きさに切り分けよう」


 水辺へ行き、軽く水につけて手を擦る。泡が出てきたのを見て彼は驚いていた。一方で私は多少なりとも泡立つことを見てとって、不格好な形ではあったが石鹸ができたとほっと胸をなでおろした。


「これを皆が使うようになれば、病気も減るわ」


 今の段階では「なぜ」や「どうして」は必要ない。説明しても理解できないものを無理に説明する必要はないと感じていた。これが普及すればおのずと仕組みを解明する者が出てくるだろう。それが何年先、何十年先になるかは分からないが、イビスから私が頼まれたのは種を撒くことなのだ。


「陛下やイビスにあげる分、もらうね。それ以外は特に調理場で働く者たちに、調理をする前に必ずこれで手を洗うように渡しましょう」

「まずは全て陛下に献上された方がよろしいのでは?」

「いいえ、これが本当に必要なのは食べ物を扱っている場所よ」


 納得したようなしていないような、下男は不思議そうに私を見ていた。


 調理場へ石鹸と使い方を教えに行き、その足でガルゼッタのプライベートな方の部屋へ向かう。あれから一度も顔を合わせていなかった。気まずかったわけではない。単純に用事が無かっただけの話だ。部屋の前で取次の侍女を捕まえる。奥から何かが倒れる音と奇声が聞こえた。


「陛下、荒れてる……?」

「はい……あれ以来、気分がすぐれないと……」


 答える侍女の頬にはあざが出来ていた。憔悴しきった侍女には同情する。ただし代わろうとは思えなかった。


「じゃあ落ち着いたらこれをお渡しして」

「これは一体なんでしょうか?」

「汚れを落とすために使う石鹸というものよ。くれぐれも食べないようにね」


 布にくるんで渡すと、巻き添えを食う前にそそくさとその場を離れた。私にとって大事なのは次に向かうイビスの方だ。彼女の方はすんなりと奥へ通された。窓べりに椅子と机を動かして、粘土板をいくつも手に取って読んでいる少女がいた。しどけない恰好がまだかわいらしいと思えるのだが、あと数年もすれば色香が漂ってくるのだろう。長いまつげがピクリと動いて、顔をあげた。


「何かできたの?」

「石鹸。体を洗うときに使ってみて」


 乳白色の不思議な固形物を、彼女はしばらく愛おしそうに指で撫でていた。


「作り方は下男の一人に教えたわ」

「うん。作り方を知っているのはほんの一握りでいいわ。まずはこれを他の王たちへの手土産にしてみましょ」

「売り込むってこと?」


 席を進められて座ると、彼女は積んであった粘土板の一つをこちらへ押し出した。草の茎を斜めに切ったもので文字を書いた粘土板を乾かしたものだ。重用なものであれば十分に乾かした後に焼いてとっておく。重用でないものは再利用できるという、かさばる書類だ。


「これは空からの使者に関する情報ね。烏族クーウが代々地下で管理しているものをちょっと拝借してきたんだけど、読める?」


 ぺっと赤いかわいい舌を出して彼女は笑った。本来は拝借してはいけないものなのだろう。一枚を手渡されたが、書かれている文字は知っているものと知らないものとが混ざっている。文の構造としては一般的に使われている標準的なラチナ語と同じだが、文字として理解できない部分が3割ほども混ざっていた。


「何となくは読めるけど……訛りというか古語というか、正確に意味を理解するのはちょっと難しそう」


 何でも知っているわけではないのだが、イビスはとても意外そうな顔をして粘土板を引っ込めた。粘土板のある部分をコンコンと指でつついていたが、恐らくそれは固有名詞。文節や文構造とは別で、もとより知らなければ理解しえない部分だった。


「オルティリアのお父さんはちょっと厄介な場所に隠れていたみたいなの。その場所を調べさせてもらうには、四肢族オグの獣王に許可をもらわないといけない」

「許可をもらうのは難しいことなの?」


 大仰に彼女は首を捻った。


「んー……。この石鹸を貢物にすれば何とか行けると思う。ちょどいい時に作ってくれたって感じ」


 貢物にするならばもう少し量と種類を増やした方がいいかもしれない。油に香りをつけたりして工夫をしたものを作る算段を立てなければならなさそうだ。


「南が四肢族オグの領地になるわけなんだけど、その中に特殊な緑族イリュフが住む洞窟があるんだ」

「レグナムは住む場所が指定されているじゃなかったっけ?」

緑族イリュフと人間種は別。そもそも竜から土地をもらっていないから彼らはレグナムじゃないの。だから住む場所だって誰かに決められているわけじゃないんだよね」


 私はこちらの星へ来てからアベスの外へは出たことが無かったので、他の地域がどのような風土であるかを知らない。市が立てば様々なレグナムの者たちが集まってきたので、初めのころはレグナムごとに住める土地が決まっていることすら知らなかった。その中に緑族イリュフの人が混ざっていることがよくあったが、烏族クーウが特別多いだけで他のどのレグナム出身者も市には来る。彼らが他の種族と一線を画す存在であると感じたことはなかった。


 緑色の肌と普通の髪の毛ではない枝葉の頭髪で、確かに見た目は一番大きくヒトからかけ離れてはいる。だが柔和そうな表情の人が多く、あまりしゃべらずいつもほほ笑んでいる印象が強い。ノヴァエから聞いた昔話の中で、確か古く五氏族と呼ばれていたのは、鳥、動物、虫、魚、爬虫類だったなと思い出す。確かに緑族イリュフ五氏族レグナムには含まれないのだ。なぜなのかは聞かなかったが、そういうことになっているらしい。


「アルカエ・ルスバデ。肌が白い緑族イリュフで、竜よりも古くからルスデバ洞窟に住んでいるって言い伝えがある。確かにあそこは隠れていたら、まず見つかることはないわ」

「そこを出てどこかへ行こうとして、父は見つかったってことか……」


 確認するまでもなく、この世界には地図というものが存在していなかった。人々は距離を大体の日数で言う。移動速度が種族ごとに異なるので、誰がそれを言っているのかが重要なのだが、要は目的地の位置関係や距離が非常にあいまいなのだ。ともかくその洞窟がここより南に位置する四肢族オグの領地内にあるということだけは確かなようだ。


「次に作るべきは地図、より先に紙かしら」

「紙?! それはなに!」

「木から作る布のような……粘土板の代わりになる物かな。それより何と言ってそこへ向かうかが問題では」


 言い訳に関しては、彼女の方が一枚も二枚も上手であるのは先日の一件で重々承知している。案の定、彼女は何でもなさそうな顔をしていた。


「それは考えてあるから大丈夫でしょ。行くのはあたしとオルティリア、あと四肢族オグを刺激したくないから兵士はほんの数人にするよ」

「お任せするわ。私の方は持って行く石鹸を改良してみる」

「なるべく早く出かけられるように支度しよう! あたし、昔からルスバデ洞窟って行ってみたかったんだよね」


 彼女は椅子から飛び降りて部屋の中でくるくると小躍りした。かわいいものや綺麗なものをもらったとか、そういった理由でなら喜ぶのは分かる。だが今彼女が喜んでいるのは洞窟行きに対してだ。少し普通の女の子とは違うのかもしれない。ただこういうのは嫌いじゃない。


「その洞窟って何があるの?」

「塩の洞窟なの!」


 ああ、なるほどとひざを打つ。私も少しワクワクしてきた。


 『姉様についていた悪霊の欠片が使者が隠れ住んでいた洞窟に逃げたので、退治せねばまた姉様に大変なことが起こる』とイビスがガルゼッタに力説したのは数日後のことだ。よくもまぁ、こんなに嘘がすらすらと出てくるものだと感心する一方で、それを鵜呑みにする無知というのもまた恐ろしいものだなと私は聞いていた。それから獣王に内々に連絡を入れたり、準備をしたりなんだかんだと忙しく過ごしてあっという間に十日ほど経ってしまう。


 借りた兵卒は4名。全てイビスの息のかかった者たちとはいかなかったが、半数は彼女の意向をちゃんと理解する者だった。外交特使としてではなく、個人的な旅行という体でまずは獣王の居城があるマーメリアを目指す。そこで裏口からこっそりと獣王を訪ね、手土産を渡して洞窟へ向かうことを許可してもらう。調査し終わったら即座に戻ってくる。日程は5日ほどを見ているようだ。


「さあ姉様いきましょ!」


 言われて正門へは向かわない。裏門へも向かわない。向かったのは城の最上部、私がよく転がっていたあの手入れされていないテラスだ。まさかこんな風に使われる場所だったとは思いもよらなかった。というかなぜここに来たのか想像したくないのだが、一応確認をとってみる。


「何で出かけるのに城の上へあがるの?」

「なんでって、飛ぶからに決まってるでしょ」


 荷物はそんなに重たくないとはいえ、一日半の食料と水を背負っている。しかも着なれた服ではなく、なめし皮を使ったごわついた旅装だ。


「飛べる……かな……」

「地べた歩いていくなんてあたし嫌だよ?」


 おりしも強い風が吹いてくる。イビスが翼を広げたのにならって私も翼を広げる。強い向かい風を受けると、体が下から押し上げられるような力が働く。自分で飛ぼうとしなくても自然と浮く体に一瞬困惑した。元々私はこんなに体が軽かっただろうか。あまり気にしたことはなかったが、この時ばかりは自分の体が日に日に烏族クーウらしくなっているような気がした。人間だった日の自分が遠ざかっていく。不安を打ち消すように私は南を見据えた。


 向かうべき南には高くはないが山並みが連なる。あの山々が烏族クーウ四肢族オグの領地の境界線だった。目的地はそれを超えたむこう側。横から朝日に頬を叩かれ、地平線が一層遠く見えた。意を決して地面を蹴ると一瞬で城が遠のいていく。私たちは南へ向かって頭を並べ、軽い翼を動かし始めた。

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