第7話 準備運動

 ガルゼッタの部屋を辞して、自室に戻ることなく私は土づくりの階段を下り始めた。目標地点はすでに抑えてある。1階の1番北側、川に面した調理場だ。以前、ノヴァエを伴って城を歩き回った時、立ち入ることをいさめられた場所の一つだった。


 先に部屋を出ていった小姓がすでに伝えていたのか、調理場は蟻の巣をつついたような騒ぎになっていた。中は土で作ったかまどが大小いくつも並んでいて、すでに火が入れられている。調理場は一方の壁を取り払い、川べりに向かって大きく開けていて、大きな分厚い布が軒をつくっていた。その下で女たちは調理をしている。


 城に住んでいる者たちの食事をすべて賄うのだから、きっと大きな調理場なのだろうと思っていた。予想以上の広さと人員、逆にその設備の簡易さに思わず感嘆の声を上げた。


「このようなむさ苦しい場所にお越しで、今日はどのようなご用件でしょうか……」


 私が来たことに気が付いたその料理長が、傍へ来てサッと膝をついた。額に汗を浮かべていて、申し訳ない気持ちになってくる。慌ててその者を立たせた。


「むさ苦しいだなんてとんでもない。料理を作る場所は大事な場所よ」

「しかし、お召し物が汚れてしまいます」

「構わないわ」


 気が付くと調理場をにぎわしていた人々の声がやんで、一様にこちらの方へ頭を垂れていた。これでは夕食が間に合わない可能性がある。あわてて声を張り上げた。


「皆も私には構わないで、わざわざ手を休めなくていいから」


 夕方だけあってすでに食事の支度にかかっている。湯気が立って、おいしそうな匂いがしてきていた。


「アジムを作るところを見せて欲しいのだけど、いいかしら」

「かしこまりました。順にお見せいたしますので、まずはこちらへ」


 と言って通されたのは、まず石臼で麦を粉にしている女たちのところだった。だが、その臼の方に目がいく。


「挽き臼じゃなくってすり臼なのね……。道理で砂が混じるわけだわ」


 緩やかなカーブのかかった石の台に麦を乗せて棒状の石ですり潰す。非常に原始的な臼だった。とても力のいる作業で、これに従事している女の腕は、太さこそふくよかなノヴァエと同じぐらいだったが、筋骨隆々と言った感じだ。


「砂が! 申し訳ございません!」

「いえ、これは混ざっても仕方がない道具よ」


 恐縮する料理長にかまわず、なるほどねと頷いた。臼を挽いているのは数人。ある程度の量の粉を挽くまで、相当時間がかかりそうだった。麦の実も一応殻が剥かれているが、この調子ではきっと殻を剥くのも機械化されていない可能性が高い。


「これじゃ量もそんなに作れないのでは? アジム、全員に行きわたるの?」

「いえ、私たちは麦を茹でたものをいただいております。アジムは祭りのとき以外は私たちは口にできません」


 そう言って指差された方を見ると、大きな石の鍋の中でぐつぐつと煮えたぎるお粥のようなものが目に入った。アジム自体が高級品だというのを今更ながらに知って、忸怩たる思いが広がる。硬くて味気なくて、時々砂が入っている、美味しくないとぼやいていた昼ご飯までが急に恥ずかしくなった。


「いつもありがとう」


 言われた下女ははっと顔を上げて、深々と頭を下げた。


「これを水でこねて焼き上げるの?」

「そうですね。今度はかまどの方へ」


 促されて行くと、かまどにかけられて熱された壺があった。かまどの前では、石の鉢で先程の荒い小麦粉と水を練り上げて小さくちぎり、丸くて平たい形が作られているところだった。それを熱した壺の内側に張り付けて焼き上げる。


「練るときに何も入れないのね」

「何かと言いますと……」

「いえ、入れないのならそれはそれでいいの」


 酵母で発酵させるという過程が存在しない。だから膨らまない平たくて硬いパン、アジムが焼き上がると言うわけだ。調理の工程をみるにつけ、改良したいところがたくさん出てきて、私は思わず腕組みをして唸った。


――まずは……。どこからだ。


 やはり最初に目が行ったのは非効率な臼だった。額に汗を浮かべて麦をすり潰している下女たちを見て、早急に改革をすべきとしか思えない。改革というべきか、あるいはこの場合には開発というべきなのだろうか。


「まず石臼を作るところから変えたいんだけど、これって誰が作っているの?」

「石臼は城下の職人に作るのをお願いしております」

「それじゃ今日は無理ね……分かった。そちらは明日尋ねるとして、今日一つお願いしたいことがあるんだけど」


 そう言って用意するように指示したのは、沸騰させたお湯にくぐらせて乾かした小さ目の壺を3つ、空気が入らないように封じる皮と皮ひも、一度沸騰させて冷ました水、それから今が旬の一番甘い果物。何が始まるのかと興味津々の下女たちは、手を動かしながらも私の手元を観察している。用意されたアンシというオレンジ色の果実を半分ずつに切り分ける。切るのに使ったのは石器のナイフだ。慣れない手つきのせいで歪だったが、誰に笑われるわけでもないので切った形はあまり気にしないことにする。これを乾かした壺に大量の水と一緒に入れて羊の革で封をした。


「これで1日1回揺すりつつ数日間保管かな」

「これは飲み物になるのでしょうか……?」


 確かにこのままほっといたら飲み物、上手く発酵すればだが、酒になるはずだ。しかし目的は酒ではなくその手前、天然酵母の状態を使ってアジムを発酵させるのだ。と、話を今してもおそらく通じない。これは1度やって見せて食べてもらうしかないと思った。


「3,4日したらこの液体をアジムの生地に混ぜて寝かせて、膨らんでから焼くの。そしたらアジムがもっと柔らかく美味しくなる……と思う。上手くいけば、だけど」


 この言葉に、料理長も周囲の下女たちも目を輝かせている。祭りの時にしか食べられない高級品、あれがもっと美味しくなると聞いて料理人の血が騒いだのかもしれない。ぜひにも早く食べてみたいとせがむ人だかりとなってしまったのだが、期待の声が上がれば上がるほど、反比例して自信が減っていった。


 こういう方法でパンが作れるというのは、知識としては知っていた。しかしこの知識はあくまで考古学的な知識で、実際やったのは学生時代に考古学実習で一回だけ。しかもその時はちゃんと成功を保証された実験室の中でだったわけで、今回本当にうまくできるかどうかは未知数だった。


 しかも私は家にいるときは料理を全くしなかった。そんなことをせずとも食に困る環境ではなかったのだ。ではなぜ手際が悪くとも果実を切れたのかといえば、記録者クロニスタの調査隊で経験した食事当番のおかげだ。思い出すだけで頭痛に繋がるようだが、それさえ我慢すれば私の過去の記憶は非常に優秀な書庫のようなものだった。


「上手くいくかは分からないよ」


 少し自信なさそうに首を傾げながら私は小さめの壺を揺すった。この壺の中身が完成したらまた来ることを約束して、その日は壺を割れないよう大事に抱えて自室に戻った。壺は風通しのいいベッドの下へと置く。満足そうな私の顔を見て、ノヴァエは呆れ気味だったが少し嬉しそうに頷いた。


 次の日、今度はちゃんと外出許可を得て、お供を付けて訪れたのは城下で石臼を作っている職人の工場こうばである。こちらの職人は、王妃がわざわざ自分の工場まで来ることなどめっそうもないと城までの道を走って来ていた。だが城に着く前に、歩いていた私と遭遇。石臼を作っているところが見たいのだと懇願すると、大変申し訳なさそうに自宅兼工場へと案内してくれる運びとなった。


 街の中ほどにある工場には作りかけの石臼が置いてあった。材質は堅くて目の細かい石で、それを削るのもまた石であった。石に対して石を叩きつけて、徐々に滑らかに削っていく気の長くなる古めかしい工法であった。金属製のノミのような工具も多少はあるようだったが基本は大きく割るためのものであって、ほとんどの工程は石と石とを叩きつけることで形を作っていく方法で作られていると説明された。


 こんな原始的な方法で石を細工している人に、これから説明する構造の物を作ってもらうことが出来るのかどうか、非常に不安になる。だが、史実として挽き臼が発明された過去がある以上、出来ないことはないはずなのだ。多少形がいびつでもいい、どうにか趣旨を理解したものを作ってほしい。私は身振り手振り話を始める。


「あのね、石臼なんだけど、少し違う形のものを作ってほしいの。二枚の円盤状の石を合わせて、上には麦を入れる穴と取っ手が付いていて……」


 手と口で説明しようとするが、職人も、そして供をしてきた侍女、護衛の兵士も全員首を傾げた。


「分かった! 絵を描く!」


 そう言って工場の外へ飛び出すと、落ちていた棒を拾い上げて地面に絵を描き始めた。長い衣の裾が地面に落ち、それを慌てて侍女が持ち上げて後ろ手にゆるく縛る。あまり上品とは言えない格好だったが、お構いなくそして淀みなく絵を描き続ける。職人は非常に驚いて、描いている絵よりも描いている私の方ばかり見ていた。だが絵が出来上がると今度はそちらから目が離せない様子だった。


「ここから麦を入れて、二つの石の面ですり潰すの。二つの石は中心に木の軸を入れて回転するようにしておいて欲しい。上の石の下面は中央に向かって少し傾斜が付いていて、下の石の上面は筋が付いているといいかな」

「つまり、この外周から挽かれた粉がでてくるというわけですな?」

「うん、そういうこと。こういうの作れそう?」


 私は絵を一緒に吟味する職人の顔を覗き込む。面白いものを見つけた子供のように、職人の目は輝いていた。それから深々と頷く。


「何とかして見せましょう」

「ありがとう。急がなくても大丈夫だけど、お願いね」


 貴人とは思えないような恰好のまま、私は破顔した。ガルゼッタような魅惑的なほほ笑み方は少しハードルが高すぎる。ああいう風に笑えるようになれば、私ももっと人を動かせるのだろうかと考えないではなかったが、一朝一夕に気品が身に付くとも思えない。そういうことに力を割くよりは、いかに美味しいアジムを作れるかを追求する方が、私にとってはよほど有意義に思えた。

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