第6話 歩み出す人は誰か
ずぶ濡れで岸に上がると、侍女たちが柔らかい大きな布で彼女を包み込んでくれた。そして追い付いた輿に押し込むと速やかに、今度は正面門を通して城内へと連れ去られる。その間、私は一切言葉を発さなかった。きっと恐怖に当てられているのだと思われたのだろう。一刻も早く安心できるところへ連れて行かなければと、周囲を固める侍女たちは輿の担ぎ手を急かしていた。だが、私の目線の先は斑模様の翼に釘づけされていた。
「ご無事でよかった……!」
自室の廊下前で彼女の身柄がノヴァエへと渡ると、侍女たちにも安堵の空気が流れる。
「ささ、早く中へ。湯を用意してあります」
水と泥で肌に張り付く衣ははぎ取られ、冷たくこわばった体は熱い湯を浸した手ぬぐいで丁寧に拭われていく。体を拭かれるにつれて緊張がほぐれていく。熱い血潮が逆流する感覚が薄れ、腕からが力が抜けた。力が抜けるにしたがってするすると腕の中へ翼が引っ込んでいく様子を、穴が開くほど見つめた。それは異様な光景だった。
体を拭きあげる間、ノヴァエは小言とよかったを繰り返していた。だが言われている私の方はといえば、うっすらと頷くことしかできなかった。
「ツバメの侍女が着いていったのは幸いでした。トビの侍女も兵士たちに勝るとも劣らぬ働きをしたようで。あの2人は不問に処しますよ」
「ああ……」
何を言っているのか内容を吟味している余裕はなく、ただ茫然と首を縦に振った。
その日の夕食を断り、ベッドに潜りこんだのは日が沈んですぐ。誰もが王妃さまは怖い目にあってお心を痛めているのだと噂していた。それに対して否定も肯定もしていない。
その実、私の心を占めているものは一つの疑問とそれに対する恐怖だった。
「この体は……どういうこと?」
扉が閉まる音を聞いて、頭まで被った布団の中でつぶやく。誰にも聞こえないよう、ただ自分だけには聞こえるように。
「私、人間だったはずよね……?」
そうだよ、とは誰も答えてくれない。
「何で腕が、翼になるの? どうして体が
布団の中で四肢を小さくたたむ。純粋な恐怖。未知への恐怖だったが、それが自分の身のうちから湧いてくる。目の前に恐怖がいるなら逃げればいいが、恐怖が自分自身では逃げようもない。自然と呼吸が速くなる。
これまでのことを順番に思い返した。入れ替わった時点で体に異常はなかった。目の前で本物のカルセラが死んでいたのは間違いない。あの死体が自分だということもない。
――その前は。
その前は、ミズシマ博士に全身を『分解』された。
――そう、あれがそもそもおかしい。
仕事で足を失い、補完手術を父にしてもらったため、足だけ医療用の疑似細胞に置き換わっている。だからそれ以外は生身であるはずだった。それが手足から順に分解されていく。考えないようにしていたのだろうが、どう考えてもアレがおかしいのだ。
「どうして今まで気が付かなかったの……、あの時点でもう私の体、普通じゃなかったんじゃないの?」
途端一切の思考が崩壊して、呼吸の速さが頂点へと達する。叫びにもならない声を上げて布団を蹴り上げた。
――苦しいッ!
目の前が黒く塗りつぶされていく。ベッドを掻き毟り、黒髪を掻き毟り、触れるもの手当たり次第に弾き飛ばす。とにかく助けを求めてもがいた。息ができない、口から空気をどれだけ入れても酸素が足りない。頭に熱い血ばかりが上って、末端から壊死していくように感覚がなくなっていく。
何かから逃げようと、もがいてもがいて、その手足を拘束されたのに気が付くと、目の前にノヴァエの顔があった。その手には布が巻かれ、私の口に押し込まれている。
「カルセラ様!」
私の頬を包んだノヴァエの手は、緊張していて少し冷たい。木戸の隙間から入ってくる夜の空気もひんやりとしていたが、それらをもってしても熱を帯びた体を冷ますことはできない。無性に水が飲みたかった。
「わたし、は、誰なの……?」
途切れる息の合間を縫って、ようやく疑問を呈した。もちろん答えてくれる相手がいるとは思えなかった。が、ノヴァエの言葉が力強く心を貫く。
「カルセラ様はどんなに生まれ変わろうともカルセラ様ですよ!」
「あ……」
呼吸が止まる一瞬。見開いた目は瞬きをするのを忘れた。
今まで暴れていた両手足は力を抜き、抑える侍女たちはその手を緩める。完全に力が抜けた体は、ベッドの上に力なくへたり込んだ。糸が切れた人形のようにがっくりと首が落ちる。
「私がついております。もう誰にも、指一本触れさせやしません、怖い思いなんぞさせません」
荒い呼吸音がむなしく部屋に響いた。それ以外が沈黙して次の私の言葉を待っている。ぼろりと眼尻から流れるものがあった。
「うん……」
言葉とともにぼろりぼろりと大粒の涙が零れ落ちる。ノヴァエは軽く手を振って他の侍女たちを下げた。下がったのを確認して、一段と声を潜めて続けた。
「ガルゼッタ陛下は確かに何度か、カルセラ様に手を上げられております。でも今回の街での出来事は陛下の指示ではございません。それでも昔を思い出そうとすれば、同時に過去の恐ろしい出来事も思い出してしまうやもしれません」
乱れた黒い髪を、分厚いノヴァエの手が撫でつける。小さい子供がしてもらうように、されるがまま撫でられていた。
「ですから、あなた様はもう何も思い出そうとしなくていいのです。何も考えずに、ただ安穏とした日々を送るのがあなたの務めです。このノヴァエが恐ろしいものから守って差し上げますから」
「……うん」
まだ眼尻からは涙が止まらなかった。決して彼女の言葉に安堵したわけではない。そうではない、全く別の理由。それは口に出さないと現実味を帯びず、言えば気が狂ったと思われるかもしれなかった。だがそれでもいいと、どこか投げやりな思いで口を開いた。
「あちらの私が、夢だったのかな」
自分の体が生身であるにもかかわらず全身が分解されてしまったことも、自分の体が人間のソレでなかったことも。記録にない惑星、連絡が付かない巨大政府、類似する民族がない亜人たち。もといた文明から切り離された惑星と考えるより、時間軸がずれたと考えるよりも、完全に別の世界にいると考えた方が楽に理解できる事象の数々。考えることを放り出しても許されるならば、私は何も考えずにこの案に飛びつく。
私が泣き笑いしそうな顔をして呟いているのを、ノヴァエは少し困惑したように見て、それから少し戸惑いながらも大きく頷く。多分彼女も理解したわけではない。ただ今は私を安堵させるためだけに頷いてくれる。だからこそこの時、私の思考に歯止めをかけるものは居なかった。
「私、他の世界に生まれ変わったと思って、いいの……? 前の事なんて全然覚えてない別人なのよ……?」
「あなたはカルセラ様ですよ、間違いありません」
父のエトレという人もいなかっただろうし、ミズシマ博士なんて人物もいなかった。そもそもオルティリア・マンジャロアという人物が架空だったという考え方。
――オルティリアなんていなかった。
オルティリアだった20年間が、どんどん遠のいていく。父を捜していたはずなのに自分の方が無くなってしまった。『オルト』とさびしそうに、愛おしそうに呼んでくれた父の姿はない。大事に育ててもらったはずなのに、今や顔がぼやけてうまく思い出せない。泣きながら私は笑った。これはきっと離別の儀式なのだ。
「私は、カルセラ」
言い聞かせる。
「私がカルセラ」
何度も同じセリフを繰り返し、私は自分が誰なのかを自分に言い聞かせる。そうでなければ壊れてしまいそうだった。そうしなければ、私は自分が何者なのかわからないまま、きっと狂っていただろう。
私がカルセラを受け入れたころには、涙はようやく止まっていた。
それから何度も微睡と覚醒を繰り返す浅い眠りの中で、私は穏やかな悪夢を見た。自分と、自分ではない自分がお互いに指を指しあい確認している。それを第三者の視点で見ている、そんな感じの夢であったのを漠然と記憶している。次に目を覚ました時、すでに中天に近かった。朝日が出る前から下男下女は働いているというのに、随分悠長に寝かせられていたのだとわかって慌ててベッドから飛び降りる。
侍女たちが気付いて水と服を持ってきてくれる。着付けをされるがまま任せて、全て出来上がるころには空腹を覚えていた。用意してもらったのはアジムという硬いパン、何かの肉の香味焼き、それからスープと果物。
「なんでこんなにざらざらしてて硬いんだろう」
味気ないパンを噛み砕きながら、空腹を満たすことだけを意識して流し込む。時々砂粒が混ざっていたりもする。残念なことに、どちらが本来の自分かという問題はともかく、私にはもっとおいしいものを食べた記憶がたくさん残っていた。
食事だけではなく、道具らしい道具がないこの環境も耐え難かった。稚拙な鉄器があるものの、圧倒的に石器の方が多い。道具が未熟であるがゆえに、加工品も荒削りの使いづらいものが多かった。
「石器と鉄器がこんなに混在しているのも、なんかおかしい気が……」
つぶやいた時、ズキィとこめかみが痛んだ。思わず顔をゆがめて手を当てる。
「どうなさいました?」
「ちょっと頭痛が……。ううん、大丈夫」
既に痛みは消えていたが、一瞬引き攣れたようなこめかみをさすって首を傾げた。
「陛下が午後にお呼びとのことですけれど、どうしましょう。体調がすぐれないとお返事いたしますか?」
「いいえ、お会いします。もう一週間ほども顔を見てないから」
「かしこまりました」
体調がすぐれないと答えれば部屋まで、また彼が押しかけてくることになりかねない。しかもあの怖い兄を伴って。どう考えてもあの日、目覚めたての私を訪問した王は、自主的ではなく兄に脅されて来た様子だった。
「陛下は私のことが嫌いなのかしら?」
いまだに王と妃というものの距離感がつかめていなかったが、一般的な夫婦よりも何か隔てた関係であるように感じていた。思い出す限り夫婦というのがこんなに顔を合わせないものだという記憶はない。
「その……陛下は、まだできませぬから……」
「できないって何が?」
しきたりなのかそれとも個人的なものなのか、どっちなのだろうかと後ろに控えていた侍女たちに投げかけた。しかし誰も口ごもって答えられず、地雷を踏んだのだなと判じた。
「そういうことは、カルセラ様は考えずともよいのです」
答えられない侍女たちへの助け舟か、あるいはこれ以上は知らなくてもいいという示唆なのか、ノヴァエに一言ぴしゃりと返される。それ以上は思い出してはいけないと、通せんぼされたように感じて、それ以上の追及を素直に諦めた。
午後、と言ってもお召しの声がかかったのは夕方に近かった。一番暑い時間が過ぎて、風に乗って入ってくる熱気が少し抑えられた時分。面会へ向かう廊下には、天井から垂れ下がる白く長い目隠しの布が風に踊っていた。私が見惚れていると、柱の陰からペレグリが顔を出す。
「兄上?」
黒い双眸がこちらを睨み付けている。頭の上から爪先まで一通り睨み付けて、彼はようやく目を窓の外へと向けた。
「……大丈夫そうだな」
「何がでしょう?」
小首を傾げて見せた。服装も何も変なところはないと、ノヴァエに太鼓判を押してもらって部屋を出てきている。
「さっさと行け。くれぐれもばれるなよ」
耳元でつぶやかれた声に、なぜか頭痛が反応した。
「何を隠し立てでいるというのです。私はわたしですよ」
こめかみをさすりながら兄ペレグリの顔を下から、不満そうに見上げる。逆に彼は私の顔を、無表情で見下ろした。しばしにらみ合いが続く。先に根負けして目線を逸らしたのは彼の方だった。
「図に乗るな。お前は本物が見つかるまでの代理にすぎん」
「何を言ってるんです?」
何も答えず、彼は颯爽と立ち去って行った。こめかみの頭痛が遠のいていく。むっとして兄の方から顔をそむけ、彼が去ったのとは逆の方向へ、王が待つ部屋の方へと歩を進めた。
通されたのは、正式な謁見の部屋ではない、ごくプライベートな部屋。幾重にも重なったカーテンを抜けると、布張りの長椅子に横たわったガルゼッタの姿があった。金の髪が零れ落ちて、非常に絵画的だ。
彼と初めて会ったときはまだ目覚めたてで、ただきれいな金色の人、という印象しかなかった。今まじまじと見ると、とても若いのだと分かった。下手をすれば私よりも年下。少年王に少し毛が生えた程度だろう。
その華奢な体つきは年齢いかんではなく、個人の資質のようだった。あのペレグリの体格と比べれば、かわいそうなほどひ弱で足も腕も細い。芦原に佇むサギのような外見である。王妃よりきれいな王というのもバランスが難しいな、と心の中でため息を吐いた。困り顔でその姿を見ていた私に気が付いて、彼は長椅子の上に座りなおした。
「体は、大丈夫?」
椅子をすすめられて彼の前に座った。
私も醜女というわけではなかったが、どうしてこの男はこんな黒髪碧眼の女を自分の妻に選んだのかと少し不思議には思う。もっと美しい、彼に見合うような王妃も探せばいるのではないかと控えている侍女たちを見やる。だが侍女たちの可愛らしい外見と見比べてみるが、残念ながら彼の方が数段見栄えが良かった。どんな娘を隣においても彼の方が美しく見える事実を再確認して、内心で何回目かのため息を吐いた。
「ご心配をおかけしました」
「君が、無事ならいいんだ」
彼はそれ以上何も言わなかった。
部屋に呼ばれたということは何か用事があったのかと思っていたのだが、貴人というのは用事がなくとも人を呼ぶこともあるらしい。『会う』というのがこの場合は用件であるらしかった。
彼はとても儚げで、そしておどおどしていた。王という貫禄は、むしろペレグリの方があるぐらいだ。何度か何か言いかける素振りをしているのだが、どれも上手く言葉にならず、言いようのない気まずい空気を自家発電している。その様子が少しかわいそうになって、これはこちらから何か話題を振るべきかと、私は思案した。
「そういえば」
口火を切った私を見て、少しホッとしたように彼は顔を上げた。
「調理場に入る許可をいただけませんか?」
「調理場? それはいったいなぜ?」
「パン、じゃなかったアジムを作るところが見たいのです」
ガルゼッタは大きなとび色の目をもっと丸く大きくして、かわいらしく首を傾げる。思わず私の方が頬を赤らめそうになって、慌てて咳払いを一つした。
「私、いろいろ忘れているので、たくさんの事を学びたいのです」
「それでアジム?」
「わ、わたし食べるのが好きなので!」
「そう? うん、まぁいいけど」
彼は相変わらず首を傾げたままだったが、王妃が調理場に立ち入るかもしれないと調理人たちに伝えるように小姓の1人に指示をする。まだ納得していない顔をしていたが、それでも彼にとっては大したことではないらしい。
彼は長椅子から立ち上がると脇に置いてあった水差しと杯を二つとった。侍女に果実の香りがする水を杯に半分ほど注がせる。そして片方の杯を優雅な手つきでこちらに差し出した。それを受け取ると、彼は自分の杯をあおって一気に飲み干す。そして色香が漂う唇をぺろりと舐める。私もまねて飲もうとしたが、香りは極上なのにどこか苦みを感じて一気に飲み干すことはできなかった。
「カルセラのやりたいようにしていいよ」
「やりたいように?」
「うん。何でも好きなことを、あなたのやりたいことをすればいい」
王がほほ笑むのを見ると、傾国の美女というのは本当にいるのだなと思う。
慌ててお礼を言おうとしたのだが、いま行おうとしているこれが本当にやりたいことなのか、今の私が私らしいのかどうか自信がなくなって、一瞬躊躇する。訝しげに顔を覗き込まれて慌てて取り繕う自分が、どこか自嘲気味だった。
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