第10話 兄の深淵を覗く

 一瞬にして広間での出来事は広まった。噂話には必ず尾ひれがつくもので、それが神がかりの誉れ子が関わっているからなのか、化け物退治のような話にまで発展していることもあった。侍女たちが持ってくる噂話は総じて、一番偉いはずの王よりも誉れ子たる妹姫の方が善として話されているものばかり。王妃である私が偽物だという話が、真実の顔を装って一人歩きしていた。


 これに対して、無力であった私は引きこもることしかできなかった。あのイビス相手に何も出来る気がしなかったのだ。ガルゼッタは気づかって、変わりなく接しようとしていたが、事あるごとにあの少女が介入してくる。一緒に食事をとる習慣すら、帰着の次の日に彼女の手によって潰された。彼女は徹底的に私の周囲から人を遠ざけていき、3日もすると本当に孤立無援になっていた。


 少女の帰着から4日目。朝起きると、これまでならば少なくとも5人以上の侍女が待機していたものだが、今日はノヴァエともう一人しかいなかった。無言で部屋にいる若い侍女を見やる。うつむいて私とは目を合わそうとしなかった。


「申し訳ございません。イビス様の方に人手を取られておりまして……」


 顔を洗う桶に水を持ってきたノヴァエは酷く申し訳なさそうな顔をしていた。


「大丈夫よ」


 冷たい水で顔を洗うと、少しスッキリする。着替えをして食事をして、そして早々とやることが無くなった。ほんの数日前までは新しく何を作ろうかと考えてワクワクしていたのに、一瞬でそれもできなくなってしまった。


「どうすればいいんだろう……」

「カルセラ様はカルセラ様で間違いありませんからね」


 すでに若い侍女も部屋から追い出している。今は信頼できる者以外が部屋にいることすら苦痛だった。


「イビス様も何を勘違いされておられるのやら……。もうどうしたらいいものかと」

「迷惑かけてごめんね」

「カルセラ様が気になさることなんてこれっぽっちもないんですよ、私はあなた様の乳母だったんですよ。ずっとお傍にいるのが私の役目と思っておりますよ」

「ごめんねノヴァ……」


 謝罪以外の言葉が口から出てくる気配はなかった。それ以外何を言えばいいのか、何をすればいいのか私には皆目見当がつかなかった。だが、頭の中では『これではいけない』という確信だけが右往左往している。何か行動に移さなければならないという焦る思いだけが急速に増していった。何か、誰か、行動を……。


「そうか、兄上に会う、か」


 私を庇ってくれたペレグリ背中、あの黒い背中が脳裏に甦った。初めて兄妹らしい行動をとってくれたあの日の兄を思い出した。あの彼が再度何か助けてくれるかという期待は、冷徹な双眸を思い出すにつれて小さくなっていく。だが藁にもすがる思いというのはこういうことなのだろうし、この時の私はそれ以外全く見えていなかった。


「ペレグリ様?」

「うん、兄上と話がしたいのだけれどできないかな……?」


 ノヴァエはうーんと首をひねる。来てもらうか、こちらから行くか、問題はどちらにしても私の行動がばれることだろう。ただ逆に考えれば、これ以外に方法が思いつかないのは、イビスや他の人々も同じこと。


「誰が考えても今の私は兄上に頼るしかないと考えるでしょう。そしたらばれてもこの際もう構わないのじゃ?」

「では私がペレグリ様をお呼びいたしましょうか」

「それでは来ない可能性が出てくるから、こちらから出向きましょうよ」


 言うや否や席を立つ。今もまだ心の中では『動かなければ』という思いが急いている。何か行動に移さなければ心の方がもちそうになかった。


 とはいえ、やはりなるべく人目は避けたほうがいいということで、分厚い日よけで顔をなるべく隠して裏から城を出た。ノヴァエが一緒だとどこから見てもばれているのだろうけれども、一人で行くよりも安心感がある。足早に城の裏、下男下女の住まいと蔵の間をかき分けて歩いた。


 ペレグリの家ということは、元は私も暮らしていた場所、ということになるらしい。その記憶が無いので元自宅までは彼女に案内してもらう形になる。自分が昔住んでいた場所へと他人に案内を頼むというのはとても変な感じがした。堀を超えて屋敷街を左右に何度も曲がる。あっという間に現在地が分からなくなった。


「ここは一人じゃ歩いて来られないと思う」

「帰るのは楽ですよ」


 ノヴァエは背にした城を指さしてころころと笑った。城以上に高い建物はないので、帰るだけならここから飛べばいいだけだった。


 到着したのは周囲の屋敷と特に変わらない大きな家だった。未だに家は規模の大小以外見分けがつかない。どこも同じような土づくりなのだ。


「身分の高い方のお屋敷には、門前に部族の紋章を掘りますから。これで見分ければよろしいんですよ」


 そう言って指し示されたのは、目線と同じぐらいの高さまである土の塚だった。表面は目の細かい泥で磨かれていて、そこに模様が掘ってある。


「これが部族ごとに違うのね……」

「ロクシャは小さい鷹の部族です。お向かいは雁の部族、両隣はツルとオウムです」

「雨が降るとこの家紋、消えてしまうんじゃ?」

「だから身分の高い方のお家にしかないのですよ」


 なるほどな頷いた。向かいの雁だという家紋を見たが、確かに形は違う。違う事は理解したがこんなのが何十種類もあるのだろうから、それをすべて記憶するのは難しそうだった。まずは自分のところ、小さい鷹の部族の家紋という形をしみじみと眺めた。


「裏へまわりましょう」


 一つ角を曲がって細い道に入り、ノヴァエは慣れた手つきで木戸を叩いた。中から老人が顔を出して、おお、と言葉にならない声を上げた。


「早く中へ、ペレグリ様に会いに来られたのですな」


 私はようやく分厚い日よけをおろし、頷いた。おそらくこの老人は私の事を知っているはずだが、私の方は当然のことながら知らない。なんと答えたらいいのか、どんなふうに振る舞えばいいのか、分からずに声を出すのがためらわれた。何度もイビスの『偽物』という罵倒が心の中に響く。


 そんな心を知ってか知らずか、老人は何も言わずに小走りに廊下を行く。はぐれまいとして必死にその背中を追った。長く暗い廊下にはほとんど人の気配がしない。一つ開かれた扉から光が漏れている。老人が止まってこちらを向いた。


「カルセラ様がお見えです」


 部屋を覗くと、黒い兄がいた。頬杖をついてふてぶてしい笑みを湛えていた。


「兄上……」

「人払いを。ノヴァエもだ」


 私の後ろから人の気配が遠ざかる。老人も元来た廊下を歩いていく、音が遠くなった。


「どうした、中へ入れ」


 一歩、二歩足を踏み入れ、木の扉を静かに閉じた。その間、彼は私から目線を外さなかった。これまでと同じように刃のような黒い双眸が深く突き刺さる。未だ、この瞳が何を求めているのか理解できずにいた。ただ眺めているだけなのか、それとも何か語りかけているのか、あるいは牽制をしているのか。分からなかったが視線に圧力があることだけは確かだった。風圧にも似たものを全身に受けながら一歩一歩慎重に近づく。彼は自分の向いのもう一つの椅子を指差した。座れということなんだろう。肉食動物と対峙するような面持ちで私は椅子に腰かけた。


「どうした」


 兄は、ひとことそう言った。


 頭の中は一発の火花が散ったようだった。この人は助けてくれるつもりはないのだ。


 様々な言葉が自分の中に浮かんでは消えた。罵倒してやりたかった。こうなったのはお前のせいだと。だがそうしたら何かが切れてしまう気がして、少し残った理性が言葉を選び始める。大きく息を吐く。


「私はどうすればいいのですか」

「考えあぐねて出てきた言葉が結局ソレか」 


 彼は鼻で笑って目線を外へとやった。庭があった。城では窓の外は空だったので、まじまじと地面、そして生えている草木に注意を払ったのは初めてだった。だがそれも次の言葉で、一瞬にして注意が兄の方へ引き戻される。


「もともと、カルセラは俺とは血がつながってはおらん」

「え?」

「アベスの近くに住みついた人間種どもを追い払う際に、拉致されていた鳥族クーウの娘を父上が保護したのだ。元の親も分からず、不憫に思った父上がその娘を養女として育てた、それが俺の妹カルセラだった。このことはノヴァエすら知らん」


 二の句が継げず、唖然とした。そんな様子を気にも留めず、彼は言葉をつづけた。


「血がつながってはおらずとも、カルセラは俺にとっては大事な、かわいい妹だった。従順で、賢く、しとやかで、俺の意を組んで、王の妃を務めるに十分な器量の妹だった」


 窓の外では乾いた風が木々を揺らす。遠くで人の声がした。様々な音がしているはずなのに、隔絶されたこの薄暗い部屋には独白する兄の声だけが響き渡る。


「だがお前が二度目に王に会うとき、あの廊下で、俺はお前が本当に妹ではないと確信した。それまではどこかでお前のことを妹だと思っている部分もあった。でもあの時、俺のことを睨むお前を見て、ああこれは俺の妹ではないと」


 久しぶりにこめかみに痛みが走った。同時に違う、と首を振る。


「私がカルセラです」

「だが妹ではない」


 この世で2人目の否定。ただ罵倒するような否定ではない。事実を淡々と突きつけるだけの否定だ。


「妹は、ガルゼッタに殺された」


 え、と声を出したつもりだったが、それは息を飲む音にしかならなかった。見開いた目が停止して乾いていく。空気がのどに詰まったまま息が止まった。彼は続ける。


「あの気狂いの王から逃げようとして、妹は翼と足を切られて死んだ。俺がこの手で庭に埋めたのだ。妹にはかわいそうなことをした……。ちゃんと調停者を呼んで火葬することもできず、天に昇れず土の中で朽ちていくのだからな」

「違います、私が生きている!」

「お前は王妃の代役に過ぎない。確かに見た目も声も、翼までそっくりだが、お前が『王妃 』で『カルセラ』であっても私の妹ではない」


 理解不能、と言うのが正直な感想だった。


 私は目覚めてから違和感を覚えつづけていた。それは全て記憶が無くなったからであって、以前が全て夢だったのだと言い聞かせると、違和感は解けて消えた。だとしたら代役、偽物、そんな言葉は私には適合しえない。してはいけない、のだ。もしそれを認めたら、私はまた不安定な存在に戻ってしまう。


――違う違う違う違う違う違う違う違う!


 何度も唱える。唱えればそれが正しい気がした。


烏族クーウは弱い」


 ペレグリがポツリと呟いた。


「爪や牙を持つ四肢族オグには力では到底及ばない。水の中に勢力圏を拡大した鱗族ホヌや、北の大森林を住処にする甲族オフスには資源面も劣る。日さえ当たればどこでも生きて行ける緑族イリュフなど問題外だ。烏族クーウには、何もない乾いた大地と空しか与えられていない」


 彼の瞳に初めて怒り以外の感情が浮かんでいた。それは多分哀しみだったのだと思う。どれだけ彼が力があるといっても所詮は烏族クーウ の内部だけの話であり、他のレグナムと比較すれば『鳥』というのは非力なのだろう。


「だから古の竜種の威光があれば、あるいは人間の地を奪えると思ったのだ。他のレグナムを黙らせ、我が一族、我が種族が序列一位となる時代が来るのだ。そのために俺の妹である『カルセラ』が必要だった」

「私が、『カルセラ』です……もういい加減にして」


 ここで退いてしまったら、全てを認めて負けてしまう気がした。歯噛みする。熱い涙が頬を伝う。認めるわけにはいかなかった。こめかみを這う痛みが増していく。


「誉れ子は特別な感覚を持っていると言われている。きっとそれがお前のことを偽物だと見抜いたのだろう」

「ではあの場で私を庇ったのは嘘だったと?」

「嘘、ではない」


 眉をひそめて彼を睨み付けた。


「お前はそのままカルセラを演じておればよい。それであの阿呆の王が抑えられるなら上々だ」

「偽りなど言ってません!」


 バンと机を叩いて立ち上がった。土で作った机、上に厚手の布が掛けられていたが、ぱらぱらと土が足元に落ちた。だが目の前の男は微動だにしなかった。


「私は私。誰にもこれは否定させない!」

「それでいい。お前はそのまま思うとおりに振る舞っていればいい。俺はその間に本物の『カルセラ』の代わりを見つける。見つけねばならん」


 苦々しい横顔だった。単純な使命感だけで動いているのとは違う、何か強大なものに立ち向かっているような悲壮感があった。高くなった日は部屋の中に暗い影を落とす。彼の顔をますます黒く染めた。


「どういうこと……?」

「別に王の妃など誰でもいいのだ。そして本物の妹が死んだ以上、誰が俺の妹をやっていても構わない。もはや誰がカルセラを演じていても俺は咎めない。これまではたまたま妹と王妃とカルセラが一致していただけであって、俺が本当に欲しているのは、本当の妹が持っていた力だけだ。だから妹が死んだ以上新しくその力を持つ者を探さねばならん」


 頭の中は混乱を極めた。兄が何を言っているのか理解できない。私は勢いで立ったまま、立ち尽くした。兄弟というものを知らない私にとって、これが異常なのか正常なのか判断がつかない。ただどう考えても兄ペレグリは、兄妹の縁やしがらみを捨て去って、もっと大きいものへ手を伸ばそうとしている。そんな気がしてならなかった。


「話はこれで終わりだ。早く城へ……」


 言いかけた時、鐘が鳴った。


 毎日、朝と夕だけに鳴らされるはずだが、今はお昼前。明らかに様子が違っていた。ほとんどが石器で作られている中で、貴重なものや重要なものだけが鉄器で作られている。当然のことながら鐘は非常に重要なもので、城の最上部に掲げられていた。専任の鐘担当がいるほど重要なシンボルになっている。それが2回ずつ鳴らされる。カンカーン、カンカーン、カンカーン、その音はアベスの街全体へと響き渡る。


「何?」


 不安を助長させるような鐘の音に身震いする。


「凶事だ」


 ペレグリの眉間のしわが増える。彼が立ち上がると同時ぐらいに、先ほどの老人が部屋の扉を開けた。


「旦那様! 姫様!」

「何があった」


 息を切らしている。老人の顔は蒼白だった。


「空からの使者です! 街に潜り込んでいたようで、先ほど調停者が街に現れて捕縛したと!」

「空返しの儀はいつだ」

「まだ城方から正式な発表はまだござません。急ぎお城へあがる準備を!」


 彼はそれを聞くと、身をひるがえして部屋から立ち去ってしまった。茫然と泣く私は取り残されたまま。老人は彼の後に続いて出て行ってしまう。慌てた様子のノヴァエが部屋に入ってきて、肩を抱き寄せて背中を撫でてくれた。いつもは頼もしい彼女の腕ですら、今の不安な空気を遮断することは出来ない。自分の中にある混乱と、城で何かが起こっている不穏な空気と、二つが心を蝕む。鳴り続ける鐘の音を聞きながら、何が起こったのかさっぱり理解できなかった。

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