第3話 見知らぬ自分

 気が付くと自分の顔が目の前にあった。それだけでも驚きだというのに、その自分の顔というのが全く生気を感じられない、死人の顔だったというのに驚きを隠せなかった。


 黒い髪も顔の彫が少し深いところも、見開かれたまま乾いていく瞳の色が薄い海の色のようなところまでそっくり。ただ少し相手の方がほっそりしている気がする。黒地に白のまだらな羽が彼女の頬に血で貼りついていた。


 長らく離れて互いを知らずに育った双子というのがいたなら、きっとこんな風ではないだろうかと思うぐらい似ていた。これについて、もちろんとても驚愕していたが、それを表現するだけの力がなかった。体を動かすどころか指1本動かすこともできず、彼女に触れることすらできない。


――寒い。


 体は疲れ切っていた。私とそのそっくりさんは冷たい石牢の床に倒れていていた。容赦なく床石が体温を奪っていく。だから私は死んだのだと思っていた。だから私は私の、自分の死に顔を見ているのだ、とそう考えていた。


 意識は混濁していた。ミズシマ博士に得体のしれない機械に入れられて分解されたところまではおぼろげに記憶している。次に気が付いたときには、すでに自分の死に顔が目の前にあった。


 どうすることもできず、瞼が落ちて行き、意識が深いところに落ちて行きそうになったとき、それを引っ張り上げるような足音が近づいてくるのが分かった。複数、冷たい石の床に鳴り響く足音たちはひどく慌てている様子だった。


「あの阿呆はよりによってあいつを殺そうとしたのか!」

「ペレグリ様、仮にも陛下ですぞ……」

「どうせ聞いておらん。それに聞かれたとしてもあの阿呆は、俺には逆らえん」


 一つは男の声、もう一人は老婆の声だった。

 声が、近くで止まる。


「早く開けろ、あいつが生きていないと困ったことになる……」


 キィと軽い音がして、私の上に薄明かりと人影が落ちたことを認識した。同時に息を飲む声が聞こえる。


「なぜ……カルセラが二人おるのだ……」


 慌てた足音が一つ、私の頭の方へ駆け寄った。


「カルセラ様は、手足を切られました。だから右が……カルセラ様だと存じますが、しかし左も同じお顔をしておられます……」


 何を言っているんだろうかと内心で首をかしげていたが、何よりも今は顔を確認するために触れられた老婆の手が温かくてほっとする。かろうじて私は生きているようだった。ようやく持ち上げた瞼の向こうには、声通りの老婆の顔があったが、もう一人の男の声は逆光でよく見えなかった。


「足と腕が切られて、こちらは息がありません……。こちらは、生きておられます」


 後方に控えて指示だけ出していた男が、ようやく石牢の中へ踏み込む音が聞こえた。


「少し面持ちが違いますが、しかし双子のようなお顔ですぞ」

「よい。聞こえているか、もう一人の」


 老婆の困惑した声を遮って男の声が、明確に私に向けて発せられた。返事をしようとしてのどに力を入れたが、上手く声が出るわけもなくうめき声のようなものが小さく牢に響く。それでも私が反応したことに、少し驚いたような空気がこちらへも伝わってきた。


「聞こえているな。いいか、お前がどこの誰だかは知らない、知らないがお前は今から俺の妹として生きよ。それが嫌ならここで放置されたままあの世の門をくぐるか、どちらか好きな方を選べ」


 この男はどうやら隣で死んでいる私と同じ顔をした女の兄であると、ぼやけた頭でどうにかその事実までは理解した。理解はしたものの、妹として生きるかどうか是非を問われる場面であるのに、拒否権は己が手の内には無いように思えた。せめてうめき声だけでもと思ったが、どうにもそれ以上声を出すことはできなかった。


 沈黙を是と受け取った男は一つ頷いて言葉を続けた。


「では今からそなたは、このペレグリが妹のカルセラである。カルセラ・ロクシャ、烏族の王ガルゼッタの妃だ。よいな」


 その言葉は呪文のようで、一切意味が分からなかった。


――カルセラ? 名前?


 頭の中で何度も『カルセラ』という単語が繰り返される。その名前が何なのかも知らないまま、音とリズムだけが何度も何度も繰り返される。


 そのうちに老婆に毛布を掛けられて屈強な女たちに運ばれて行ったことを、私は全く知らなかった。自分が幾度か『父さん』とうわ言を繰り返していたことも知らなかったし、目の前で死んでいた本当のカルセラが秘密裏に埋められていたことも知らなかった。


 何も知らないうちに私はカルセラにされていたのである。


 次に目が覚めたとき、冷たい石牢ではなく温かいベッドの中にいた。と言っても、自宅にあるベッドよりは固くて布団もごわごわしている。それでも石牢に転がされていたことを考えれば雲泥の差。まどろみながら私は腕と脚の感覚を確かめた。


――五体満足で生きてる……。


 うっすらと瞼を開けると、土塀のような低い天井があった。雨上がりの匂いと、乾いた草の匂いがする。ここはどこなんだろうかと、周囲へとそっと目線をやった。ミズシマ博士の部屋、石牢、そしてベッド。どれも記憶は断片的であったし、どの記憶もお互いに繋がりが見出せない。少なくとも自分の足で歩いてきたわけではないというのだけはわかった。


「目が……! カルセラ様!」


 大きな声、ともすればけたたましいぐらいの声がベッドの脇から聞こえた。


「水! 水差しは新しいものを! それより白湯の方がいいだろか!」


 女の声で、四十かもう少し上か、少なくとも牢にいたあの老婆ではなかった。軋む首の筋肉をどうにか動かして声がした方を向く。巨躯の女が後ろの若い娘たちを呼びつけて指示しているのが見えた。声をかけようとしたがのどが糊で貼りついたように乾いて、それでも無理に声を出そうと力を込めると声よりも先に咳が出た。またその咳が体の節々を痛めつける。


「私のことは分かりますか?」


 見知らぬ女だった。茶色っぽい髪をくくって同じ色をした飾り羽を付けている。暖かい気候なのか、片方の肩が出た見たことがない民族衣装を着ていた。


 体を起こそうとすると、彼女はサッと背中に腕を回してその柔らかい太い腕で抱えてくれる。そして木の椀に入った白湯を若い娘から受け取ると、私の口元に当てた。


「分からんでもいいです。わたしはカルセラ様が生きていてくれるだけでいいですよ」


 一口ずつゆっくりと飲み込み、半分ぐらい白湯を飲んだところで、長い息を吐いた。体の中にじんわりと温かさが浸透して、腹の底に小さい蝋燭がともされるようだ。ようやく生きているのだと実感できるようになる。もう一度支えられながらベッドに横になる。そうして初めて、周囲が鮮明に見えてきた。


 土塀のような天井だと思っていたが、この建物自体が本当に土と枯草を練って作られたものだった。明かりは小さな行燈のようなものが二つ。この科学の時代に、こんな時代遅れの設備の家があるとは、いったいどこのアトラクションなのかと眉をひそめた。少なくとも病人を置いておくにはあまり清潔な環境だとは思えなかった。


「あの、私は……」


 言いかけて私は何を聞いたらいいのかと次の言葉を探した。誰かの妹になれと言われたのだけは漠然と覚えていた。だが、個人の生体情報を全て政府に提出する義務がある世の中で、替え玉作戦は普通は通用しない。偽造情報を作るには相当の金がかかる。そこまでする必要がある切迫した事態が起こっているのだろうかと、眉をひそめる。


――カルセラ?


 妙に耳に着いていた単語である。この巨躯の女も私の事を『カルセラ様』と呼んでいたことから、確か『カルセラ』というのが名前であることをどうにか思い出した。


「急がんでいいですよ、ペレグリ様から記憶があやふやになっておると聞いておりますから。私はノヴァエ。ノヴァと呼んでくださいまし、あなた様の乳母で侍女ですよ」

「ノヴァさん……?」

「さんはいらないですよ、カルセラ様はお偉い方で私はただの侍女だからねぇ」


 屈託なく笑った顔に深いしわが何本も刻まれた。侍女というよりは、辺境惑星にある宿の女将さんのような人だなぁと、その顔を見る。こんなよさそうな人を騙すのは非常に気が引けた。


「いえ、私は、そのカルセラじゃないの。私は……」

「いいえ、あなたはカルセラ様で間違いありません。あなたが小さいころからお仕えしてるんだから間違うはずがない」


 でも、と言い差したが息切れがしてそれ以上先は言葉にならなかった。息を整えてもう一度口を開こうとしたとき、部屋の外の若い侍女の一人が慌てた様子で駆け込んでくる。ノヴァエに耳打ちすると、みるみるうちに彼女の眉間のしわが深くなった。丸っこい柔和な顔が、苦々しそうな表情をして私の体をもう一度起こし、さっきとは打って変わって小さな声で耳打ちをした。


「陛下がお越しです……。大丈夫、この部屋にいる限り、カルセラ様には何も手出しはさせませんから」


 薄い羽織を一枚肩にかけると、ノヴァエは控えていた若い侍女に向かって一つ頷いて席を立った。若い侍女は酷く緊張した様子で頷き返して部屋の戸を開ける。


 入ってきたのは長い金の髪の絶世の美女、と見紛うような男だった。ほっそりした顔に憂いの表情を浮かべている。それだけで大概の男は見惚れそうな、しかし喉仏が見えるので明らかに男。男はノヴァエが今まで座っていた椅子に腰かけると、白く細い指で私の頬をなぞった。寒気のするような美しさだった。


「大丈夫かい、カルセラ」


 姿に負けず劣らず綺麗なその声は、しかし少し震えていた。金色がかった目もどこか挙動不審で、この男が何かに怯えながらここにいるというのが感じ取れた。


「私は」


 私はその『カルセラ』ではないのですと言おうとしたとき、男の背後に黒い影が立った。金髪の男は例えるなら白鷺、一方後ろに立った男は鷹か鷲のような雰囲気であった。黒い短い髪と鋭い眼光、全身から刃物じみた気配を漂わせて私のことを睨み付けている。自分が大動物の獲物になりかけた経験はあるが、それに似たものを感じる。彼の目にはそれぐらいの威力があった。


「ねぇペレグリ、カルセラは……カルセラが生きていたよ」

「陛下、私の妹も私と同じく隼の血を受け継いでおりますので、体は他の者よりも強うございますよ」

「そうか……それは、何よりだね」


 どうやらあの牢で、妹として生きろと言ったのは、この刃物のような男らしかった。黒い髪が確かに兄妹と言っても通じなくはない。


「陛下、どうやらカルセラもまだ病み上がりの様子。顔は見られたのですし、あまり長居をしては体に障りますゆえ、また後日お召しになればよろしいかと」

「そ、そうだね」


 来たのにすぐ帰るのかと思いつつ、こっそりと胸をなでおろす。しかし私がほっとするよりも、さらに安堵したのは目の前の金髪の優男のようだった。


 私のあいまいな記憶を繋ぎ合わせたのが正しければ、自分の前に座っている金髪の華奢な男が何とか王という名前で、『カルセラ』の夫である人物。後ろに控えているのが私が偽物だと知っているカルセラの実兄のペレグリ。この刃物のような男が、具体的に何に対して『カルセラの振りをするよう』に言ったのか不明だったが、少なくとも夫に対しても偽ることが必要なのだと、先ほど鋭い眼光ににらまれて悟った。


 今のところはばれずに済んだと思う反面、訂正する機会を次に引き伸ばした形になってしまったのはいかんともなし難い。ペレグリに脅されてまで別人の振りをする理由は、今のところ体調面のみである。体が本調子になりさえすれば別人であることを伝えて謝罪し、この地を離れようと、そう考えるしかない。


「また来るよ、カルセラ」

「あ、あの……私記憶が……」


 ようやく絞り出した言葉はたったそれだけだった。他にも言いたいことがあったが、上手く伝えるには慎重に言葉を選ぶ必要がある。それだけの余裕は、今は時間的にも精神的にも無かった。


「そういえばペレグリからそのように聞いていた。何やら記憶が混濁していると」


 二の句を慌てて探す様子の私に対して、目の前の儚げな男は曖昧にほほ笑む。そして逡巡するように目線を泳がせながら、彼もまた言葉を選ぶように口を開いた。


「我が名はガルゼッタ・クーウ・レクーヤ。烏族クーウの王だ。あなたは私の妃カルセラ・クーウ・ロクシャ」

「ガルゼッタ王?」


 意味ある文章よりも、意味を捉えきれない名詞の方が、よほど理解するのが難しい。聞きなれない単語を忘れないようにと、心の中で反芻する。


「急がなくていいよ。時間はたくさんあるんだから……。カルセラ、君は体を治すことを一番にね」


 じゃあねとガルゼッタは優雅に白い手を振って、それから慌てた様子で出て行った。それに続いて部屋を出て行こうとしたペレグリが、部屋の入口近く壁際にぴったりと身を寄せて控えていたノヴァエに耳打ちをしていた。神妙な面持ちで一礼した彼女は、閉じ切るまで木製の扉を睨み付けていた。


 出て行ったことを確認して、大きくため息を吐く。どこぞの国の王族の争いごとにどうやら巻き込まれたらしいというのは理解した。そしてその替え玉をやらされていることも。厄介以外の表現が見つからない。


――ばれたらどうなるか分からないわね。


 ノヴァエの太い腕に支えられてもう一度ベッドに横になると、途端に睡魔が重くのしかかる。


――ともかく、記録者クロニスタの支部か地方の自治組織に連絡を取らせてもらおう。個人の生体データさえ取り寄せられれば、ここの住人たちだって違う人物だというのを信じるだろうし、命までは取らないでしょう。


 そんなことをふつふつと考えながら、今は体力の回復に努めるべく瞼を閉じた。

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