第8話 文明開化

 5日後の朝、材料はそろった。裾が汚れるのを見越して、この日の服装は裾が短いものが用意されていた。さらにたすき掛けまでされて、私が烏族クーウの王妃と言っても誰も信じないだろう。


 石臼の職人は、弟子と共に不眠不休で引き臼を完成させていた。歪ながらもぐるぐると回すことができる。趣旨を正確に理解して作ってくれた証拠だ。これをまず粉挽きの下女に使えるようになってもらわなければならない。と言っても簡単である。 私が手本を示した。


「この穴に麦を入れて、取っ手をもって回すだけよ」


 ゴロゴロと重く石同士が擦れる音がして、しばらくは何も起こらない。何が起こるのかと周囲の人たちは、ある者はいぶかしむ様子で、ある者は息を飲みながら様子を見ている。黄色がかった白い麦の粉が石の隙間から零れ落ちてくるのを見て、歓喜の声があがった。一番間近見ていた粉挽きの下女は口をぽっかりと開けていた。日ごろ、少量の粉を挽くのでさえ、大変な重労働である。それがあっという間に粉になってこぼれ落ちてくるのだ。


「すごいね、ちゃんと粉挽ける……」


 自分で教えたものの、半信半疑だった私も感心したように頷いた。石臼の職人とその弟子は、この様子を見て涙を浮かべていた。


「この臼の数を増やせば、一日に挽ける粉の量も増えて、焼けるアジムの個数も増やせる。そしたらもっと多くの人にアジムを食べさせられる……!」

「麦粥だと渡すのも一苦労だものね」


 城中の人が三食麦粥を食べるには、それぞれが椀を持って並ぶ必要があった。食事時に列が出来ているところに何度か遭遇したことがあって何事かと思っていたのだが、交通渋滞が解消される日もそう遠くないだろう。アジムなら焼しめておけば日持ちもする。麦粥と違って手渡しも簡単だ。


「よし、次はこれだ」


 そう言って、私ははベッドの下で大事に育てた壺を机の上に並べた。三個。全てに切ったアンシの実と湯冷ましを入れて革で封をしてある。三つともその封が、ぽんと膨れていた。恐る恐るその封を開けると二つからは、果実をさらに甘くした香りが立ち、もう一つからは酸っぱい匂いがした。


「この酸っぱいのは失敗だな……。二つ、上手くできてよかった」


 そう言って失敗の壺の中身を捨て、二つに向き直る。白い泡が立っていてオレンジ色の果実が見えなくなっていた。その液体を石鉢に注ぐ。そして新しい石臼で挽いた粉を入れて手でこね始めた。どれぐらいの堅さがいいのかわからず、いつもアジムを焼いている下女に聞きながら水を増やしていく。丸く纏まったところで濡れた布を被せた。


「これで、お昼の後まで放置します」


 周囲から、えーっと落胆の声が上がった。本来のアジムならばこのまま焼きの作業に入る。それをわざわざ寝かせてからというのだから、早く柔らかいアジムを食べてみたいと思う人からしてみると疑問なのだろう。だがこの工程は省略してはならない。


「後で見たらきっとびっくりするから。それまで休憩よ」


 私はみなにそう言い聞かせて、いったん調理場を後にした。向かった先は部屋ではなくさらにその先、土壁の城の屋上に出られる場所だった。本当は外に出る出入り口ではなかったのだが、長年の増改築で扉が取り去られて続きの部屋まで壊されて、丁度テラスのようになった場所があった。これを少し前に見つけてから、天気がいい日に転がりに来ようと決めていたのだ。あまり人が来ない場所なのか草が生えてちょっとした隠れ家のようになっていた。


 昨日と同じように崩れかけた高い敷居を超えると、今日は先客がいた。


「カルセラ?」

「あ……陛下もここに来るんですか」


 隠れ家を独り占めしていたと思っていただけに、人が転がっているのを見ると、ちょっとだけ落胆した。だがその様子を気にも留めず、ガルゼッタは長い金の髪を風にそよがせていた。


「何やら、楽しそうなことをやってるみたいだね」


 彼は城の脇を流れるリンネ川の方へ目をやった。仕方なし。その隣へ歩いていき、ストンと座る。


「見に来ますか?」

「ん、いいや」


 王はそっぽを向いた。口では興味がなさそうに言っておきながら、どことなく引き留めてほしいような後ろ姿をしている。気のせいなのかもしれないが、周囲が放っておけなくなるような雰囲気が彼にはある。構っていないと死んでしまうウサギのような。だが今、城のあらゆる場所で好奇の目は私の方へ向けられる。彼にとってはそれが我慢ならないのではないか、そんな気がして申し訳ないような、でも仕方がないような複雑な気分で彼を眺めていた。


「ねぇカルセラ」


 彼は川とその対岸を見ていたが、悲しいような、恐ろしいような、思いつめた顔をしていた。絞り出すように言葉を選ぶように慎重に口を開く。


「君は私が恐ろしくないの?」

「恐ろしい?」


 彼はコクリとする。手が小刻みに震えて膝を抱え込んでいた。その肩に触れようとして、しかし躊躇して手を引っ込める。触れれば壊れそうなガラス細工のように見えた。怖がっているのは恐らく私の側ではない。


「私には、陛下の方が私を怖がっているように……見えますが」


 言われて彼は顔を伏せてしまった。図星だったようで、彼の手に力が入る。ざあっと風が草を揺らして音を立てた。


「君は、前の君じゃないみたいだ。でも思い出したら君は私のことを恨むだろう。だから私は、君が怖い。とても、怖い。いつまた嫌われるのかと思うと、怖くてしょうがない」

「私はやっぱり以前の私とは違いますか」

「うん、全然違うよ」


 ガルゼッタは目に涙を浮かべて、私の顔を見る。困惑した表情で彼を見返すしかない。


「私は体も弱くて、力も弱い。生まれの姿も鳥だったのは手の先だけだった……。五つも歳が離れている妹にすら負けるんだ。幼い頃から男じゃないみたいだってずっと言われ続けて、出来のいい妹と比較されて、これでも努力してきたつもりだよ」


――妹がいたんだ……。


 城内で妹に会ったことはなかった。亡くなったか、あるいは今いないのか、嫁ぎでもしたのか、判断は付かない。ただ、今後もし会う機会があるならば彼と、彼のコンプレックスの元凶の間に挟まれる予感がして、頭が痛いなと思う次第だ。

 

「でも出来ないものは出来ないし、止めどなく感情があふれてくることもあるし、そうなると周囲に当たりちらすしかできなくて、どうしようも無くなる。父上や母上、妹も私のことを責めたけど、でもなぜかカルセラだけは、君だけは私のことを責めなかった」 


 鼻をぐずぐず言わせながら彼は言葉を紡ぐ。何も聞いていないのに話し続けるところをみると、どうやら相当うっぷんがたまっているようだ。話を聞くにつれて、彼の背景には酷く歪曲して鬱屈したものがあるように思えた。それを今すぐ発掘して正すことはどだい無理というもの。周囲の期待と現実と出来のいい妹に挟まれて、ただ可哀そうだなという感想しか、申し訳ないが出てこなかった。もしかしたら元のカルセラは彼をどうにかしようと考えていたのかもしれない。ただ、今の私には淡々と話を聞くことぐらいしかできなかった。


「いつも私の味方をしてくれてたんだ。……でもある時から私のことをひどく怖がって、嫌って、逃げるようになった」

「心当たりは?」

「あるけど……私のせいじゃない。あれはペレグリが言ってるだけで、私は関係ない」


 関係ないもん、と子供のように彼はもう一度唱えた。外見がより幼く見えてくる。小さな子が体育座りで、部屋の隅で丸くなっていじけているような感じだった。いっそ可愛らしいほどである。小さな意地っ張り。だが、世間がこれを許してくれるとは思わなかった。例えば愛妾なら可愛らしいとでも思えるのかもしれないが、彼は自分が王ということを忘れてしまったのだろうか。


――問題は自分にある、けどそれを認めたくない、見たくないんだ。誰でも同じことを考えるのかな。


 私もそうだ。理解が出来ない事態に追い込まれて、都合のいい解釈をして今に至る。その自覚は確かにあった。それでも、どんなに考えれても訳が分からずに気が狂いそうな現実に、今を以てなお向き合おうとは思えない。と、考えるとズキリとこめかみが痛む。必死に忘れようとして、ようやく記憶に蓋が出来たと思っていたのに、まだ私を苦しめるそれ。少しならば彼に話をしてもかまわないのではと、私は唐突に口を開いた。


「ここだけの話、私は生まれ変わったんだと思うんですよ」


 ガルゼッタは、目を丸くして顔を上げた。


「誰にも言ってないんですけどね」

「どういうこと?」

「確信があるわけじゃないんですけど……」


 そう前置きをしたうえで、私はとつとつと語り始めた。元々もっと高度な文明のある世界で別の人間として生きていた記憶があること、その時の記憶をもとに今アジムを焼いているのだということも。


「だから、私は確かにカルセラなんでしょうけれども、前のカルセラとは別なんです。ごめんなさい、記憶がなくって。でも怖がらなくても、私、今は陛下のこと嫌いじゃないですよ」

「カルセラぁ……」


 涙を満杯まで貯めた瞳で、彼は背丈が同じぐらいの私に縋り付いた。ただはたから見ると金髪の美女が黒髪の人に泣き付いているようにしか見えない。


「でも陛下、この話はみんなには内緒にしておいてくださいね。頭がおかしくなったと思われちゃう」


 にっこりと笑いかけると、ガルゼッタの方も大仰に頷いて見せた。


「ねえ、そしたら午後のアジムを作るところ、見に行ってもいいかな?」


 そっけない態度を取っていたのは決して興味が無いからではなかったようだ。柔らかいアジムというのに彼もまた魅かれているのだろう。


「もちろんですよ」


 答えて、彼の手を取って立ち上がった。


「一緒に作りましょうか、晩ごはんの分」


 にっこり笑うと、ゆるりと手を引いて城の内部へ戻って行った。


 濡れ布巾をかけてから数時間、私は慎重にその布巾に手を掛けた。息を飲む一瞬である。どうか、無事に膨らんでいてくれと何度も心の中で唱えた。


 さっと、布巾が外される瞬間、その場にいるだれもが、王のガルゼッタさえ、固唾をのんで石鉢の中を見た。そして次の一瞬、おーと歓声が上がる。数時間前に寝かせたときの倍ぐらいの大きさに膨れ上がっていた。少し甘い、そして香ばしいような不思議な香りが漂ってくる。


「どうしてです?! どうしてさっきのアレがこんなに大きくなるんですか!」


 信じられないといった風に料理長は叫んだ。身振り手振り、生地が倍になったことへの驚きと喜びを表していて顔が真っ赤になっている。触っていいと言うと、恐る恐る指でつついてさらに叫び声をあげた。


「なんですかこの弾力!!」


 押した跡がふわぁっと押し返されて戻った。


「この生地をもう一度こねて空気を抜いて、小分けにして……それからもう一回、今度は短時間寝かせる」


 きれいに拭いた机の上で生地を伸ばしていくつかの塊に分けていく。そして丸い形を作って石鉢の中へ戻して行った。再度布巾をかけてかまどの方へ持って行く。


「今度は倍にはならないけど、もう一回膨らんだら焼く作業ね。夕方には焼いていいと思うわ」


 そう伝えてさらに小一時間たった後、ぽんと膨らんだアジムを、ついにかまどで焼いた壺の中へ落とし込んだ。無発酵のアジムは、意外とねばねばしているので壺の壁面にくっついて一度に何枚も焼くことができる。だが発酵させると丸くなるのもあって壁面で焼くことは難しかった。


「これはかまども改良が必要ねぇ」

「かまどの職人のところにも連絡を入れませんと、ですな!」


 私と料理長は顔を見合わせて笑いあう。どこか壮大ないたずらを仕掛けているような気分だ。大変な作業であるにもかかわらず、調理場の人々は嬉々としていた。


 だんだんいい匂いがしてきて狐色になったアジムを取り出す。1つ目を手で割いて中まで火が通っているのを確認し、半分をガルゼッタに渡した。ふわふわとした感覚、確かに私はこれを知っている。彼は見知らぬ食べ物に躊躇していたが、私が無造作に一欠けら口に放り込んだのを見て、意を決したように小さな一欠けらを口に含んだ。とたん目を見張る。


「甘い!」


 口の中に香ばしい香りとほのかに甘酸っぱいオレアの香りが広がった。2個目は料理長やいつもアジムを焼いている下女、そして石臼の職人へ。次々焼けるアジムは小さく手で割かれてその場にいるものたちに一欠けらずつ分け与えられた。


 焼き立てで温かいからおいしく感じるのもあるのだろうが、これまでの堅く平たいものではなく、丸くてふわふわもちもちしている食感に誰もが目を丸くした。祭りで食べていたアジムでさえ美味しいと思っていたのに、これは一体なんなんだと誰もが驚きを隠せていなかった。


 歓声があちらこちらから上がる調理場で、私は満足そうにうなずく。まずは1つ目成功と言ったところだ。


――文明が発展するのは戦争か食べ物っていうけど、だったら私は断然、食べ物だわ。


 この土地で生きていくのならば、今あるものを発展させていくのは人の道理と言えよう。別に調査に来ているわけでも何でもない、改造も発展も思うがまま、そう思うと次から次へとやりたいことがあふれてくる。さて、と調理場を見回す。まだまだ改良すれば美味しくなる物がたくさんありそうだった。

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