第9話 妹姫の帰還

 天然酵母が作れると分かってから、私は果実酒を作った。果実酒はアルコール分が少なかったが、これもまた飲む人すべてが目を丸くする品だった。しゅわしゅわと泡立つ液体に、誰もが怪訝そうな顔をして一口だけ舐める。そして味に驚いて一口飲むとあとは止まらなかった。


 残念なことにガルゼッタはアルコールにひどく弱い様子で、一口飲むだけで顔を真っ赤にして寝てしまい、思わず胆を冷やした。起きてからその味を褒めてくれたのでそっと胸をなでおろしたのだが。


「さて次は何を作ろうかな」


 私は変革が起きた食事を食べながら過去の記憶と照らし合わせていく。以前の高度な文明の中で生活していた時のことを思い出そうとすると、頭痛がすることがあったが、あまり気にしていなかった。今もまた頭痛がしているが、今度は肉類についての記憶の引き出しを漁ろうとしていた。


「そういえばイビス様がシナバリからお戻りになるそうですよ」

「イビスさま……?」

「陛下の妹君ですよ」


 そういえば妹がいると話を聞いたばっかりだったのを思い出す。聞きなれない名前だったが、その妹はイビスというのだそうだ。やっと過去を思い出せないことを忘れるようになってきていただけに、複雑な気持ちがまた心の奥の方に湧きあがる。


「イビス様は誉れ子でいらっしゃるから、翼がしまえるようになるまではシナバリの地で修行しなければならなかったんです。それがこの間ようやくお許しが出たとかで、お戻りになると連絡が入ったのですよ」

「誉れ子? シナバリ?」

「カルセラ様は誉れ子を知りませぬか」


 会話の端々で、まだ時々分からない単語が出てくることがあった。私は常識一切を忘れてしまったのだからしょうがないといったふうに、今日は話し相手の侍女に『誉れ子』というものの説明を乞うた。


「誉れ子というのは、特に体の変化が大きくて、力が強いお方のことです。何百人に1人しか生まれないと言われていて、今の烏族クーウで誉れ子はイビス様だけです」

「力が強いというのは、羽が多いとかそういうこと?」

「それもありますが、生まれのお姿が一族の動物の形をされていることと、あとは調停者が言祝ぎに来ることでしょうか」

「調停者? 言祝ぎ?」


 また知らない単語が出てきた、とむっと顔をしかめる。すると察したように少し笑った侍女が、催促もしないのに続きを話てくれた。


「調停者というのは、旅をしている聖職者ですわ。どの種族からも稀に生まれる、というのは誉れ子と同じですが、調停者は特別な声を聞く力を持った者のことです」


 言われて考えるが、思い当たるのは霊媒師とか降霊術といった、少し胡散臭い職業の人たちの事だった。科学技術が発展していく過程で、徐々にそういった人々の行き場も少なくなっていくのだが、この文明の程度ではそういった霊的存在が信じられていても何ら不思議ではない。


 こうして誉れ子と調停者、新しい二つの言葉を頭の辞書に書き込む。話を聞く限りでは、誉れ子は身体的能力の高い者で、調停者というのは霊的な胡散臭い連中と把握しておいてもいいかもしれない。そんな人たちもいるのだなぐらいに思って、私は侍女の話の続きに耳を傾けた。


「調停者は村々を巡っているので、接する機会が一番多いのは葬送の時でしょうか。死者が出ると近くにいる調停者を呼んで、葬送をしてもらうのです。ですから不浄の者とも呼ばれておりますけど、なぜか誉れ子が生まれると、どこからともなく調停者たちが集まってきて、その子供を言祝ぐのです」

「なぜか、ね」

「ええ、彼らに言わせると天の声に導かれたということですが、真偽のほどは……。むろん聖職者に言祝ぎをいただくのですから、お礼をしなければなりません。そのお礼として、誉れ子の羽を一枚渡すのが慣例ですわ」

「そんな不思議な人たちもいるのね。知らなかった」

「あまり見かけることはありませんからね。あと烏族クーウとは特別な祭事を執り行う契約もありますけど……非常に稀なことですから、生きているうちに一回あるかないか。一番お会いするのはどなたかの葬送の儀でしょうねぇ」


 いつだったか、子供はどうやって生まれてくるのかと周囲に質問したことがあった。小さな子ほど両腕から産毛が生えたままでいるのを見て、ある疑問が生まれたのである。子供はみんな羽が生えた状態で生まれるという。ならば烏族クーウは卵から生まれるのかと質問をして周囲に笑われた。そしてへその当たりを指さされたのである。


「どの種族でも小さい子供は転化の能力をうまく抑えることができません。誉れ子は特に難しいので、転化を学ぶために竜が生まれたというシナバリの樹の元で修行されるのです」

「なんか落ちこぼれみたいに聞こえるんだけれども……」

「恐れ多いことを!」


 話をしていた侍女は勢いよく首を横に振る。


「力が強いことは天に愛されている何よりの証拠です。何よりそれは始祖の竜種に近しいということ。誉れ子は一族の誇りでございますよ」


 強い口調で言われたので肩をすくめて頷いた。だがなるほど、体の弱い兄と出来過ぎの妹とはこういうことだったかと腑に落ちた。だが今はその妹がどうであるかとか、誉れ子がどういうものであるかよりも、問題はその妹姫と私がどういう関係だったか、という方であった。


「私はイビスとは仲が良かった?」

「そりゃあもう、本物の姉妹のように仲がようございましたよ」

「じゃあ私が全部忘れているのを知ったら悲しむかな」


 不安ではあるが、どこか他人事だった。きっとその子は悲しむだろう。でもその悲しさを共有できるのは過去の私であって今の私ではない。今は全てが未知の世界。ここで一人新しい人が増えたところで、また新しく関係を築いていくしか方法がない。だからその子には『ごめんなさい』よりも『初めまして』の方が、言う側の私としてはしっくりと来るような気がした。ある意味全ての人とが、はじめまして、なのだ。


 事実、あの新しいアジムを作った日以来、ガルゼッタの態度はがらりと変わった。夕餉を一緒にとるようにと、毎日声がかりがある。公務の間にも時間があると手元に呼びよせるので、私はおいそれと城下へ向かうことができなかった。アジムを焼く窯を新しく作る時など、窯を作る職人と調理場で相談していると彼がしびれを切らして調理場まで乗り込んできたのだ。少し拗ねたような金髪美人は、相談が終わる前に私を自室へと連れて行ってしまったのである。おかげでその後小一時間、窯職人は待ちぼうけを食らうことになった。


「戻りましたよ」

「おかえりノヴァ」


 ノヴァエもまた少しずつ変わってきている。最初はあの王のお呼びがかかるだけで眉間のしわを3本ほど増やして返事をしていたが、今は1本程度。初日は部屋までついてきて一切の毒見を、自ら買って出たぐらいだった。果実の香りがする水を杯になみなみと注いで手渡してくれる彼女を頼もしく見上げた。


「イビスが帰ってくるって言う話を聞いたの」

「お耳が早いですね」


 ドスっと重みがある音がして、ノヴァエが向かいの椅子に座って繕い物を始める。私は入れてもらった水を飲み干す。スッと喉に馴染んで美味しかった、乳母で侍女というよりは、母と娘に近いような穏やかな空気が流れていた。


「シナバリからは2日程度ですから、明後日にも城に戻られると思いますよ」

「最初に、なんて挨拶するか、ちゃんと考えておかないと……」

「やはりイビス様のことも覚えてらっしゃらない?」

「うん……」


 そっと目を伏せ、所在なさげに手を机の上に置いた。暖かい外気温とは裏腹に、私の指先がひんやりとしていた。ノヴァエは繕い物を膝の上に置き、分厚い手で不安そうな私の手を包み込む。


「先にお迎えにあがる者に、カルセラ様のことをイビス様にお伝えするように命じてあります。それにイビス様は、何も覚えてらっしゃらないこと、責められるような方ではありませんよ」


 無言でうなずくしかなかった。不安が全て無くなるわけはなかったが、それでも少しだけ心に余裕が生まれる。どんな顔をして合えばいいのか、あと2日間、それを考える猶予があると自分に言い聞かせる。


 その晩、一緒に食事をとっていたガルゼッタの機嫌があまり良くなかったのは言うまでもない。初めて彼の癇癪を見ることになった。木製の食器が宙を舞い、舞い上げられた敷き布が風に引き裂かれる。だが私の方にもそれをどうにかするだけの余力はなく、さっさと見限って部屋へ辞してしまった。1人になってから夜空に輝く大きないびつな形の星を見上げる。生ぬるい夜風にのって、ガルゼッタの喚き声が聞こえてきた。


「逆に準備なしで帰って来てくれた方が、もやもやする余裕もなかったんだけどな……」


 ところが言霊とはよく言ったもので、妹姫帰着の報は次の日の夕方に届いた。猶予が吹っ飛んでしまったのである。迎えに行った者から話を聞いた妹姫が、迎えの輿から飛び降りて、自分の翼で飛んで帰ってきてしまったというのだ。もう1日分時間を見ていた城はにわかにあわただしくなった。


 烏族クーウの主だった諸侯たち――貴族制というのが正確には無いが、それに近い者たち――が、続々と城の正門をくぐる。そのあわただしい様子に街の人々も噂を聞きつけて、目抜き通りには人垣ができ始めていた。


「すごい騒ぎ……」

「カルセラ様もお召し換えを」


 いつもの簡単な服装、と言っても平民たちから見たら大層な布の枚数なのだが、その上に、さらに染色した衣を重ねる。薄い桃色を2枚と赤を1枚。今日は腰帯も深い赤の物に取り換える。この赤という色は特別な色だった。この帯紐も通常の倍ぐらいの長さがあるので、いつもより多く回されてきつく締められた。


「着替えだけで疲れる……苦しいぃ……」

「お祝いの席ですから、これぐらい気合い入れませんとね! ほら、黒い髪に赤い色がとってもお似合いですよ」

「ちょっとどぎつい気がするけど」


 苦しそうに息を吐きながら憮然として言った。私の部屋の窓からは、街側とは反対の大きく蛇行するリンネ川が見えている。川はいつも通りの平静を保っていた。だがその向こうに大きな鳥の影を見つける。目を細めて鳥の影を目で追った。影は5つか6つ。V字に編隊を組んで飛んでくる。


「お帰りだ!」


 廊下の向こうで誰かが叫んだのが聞こえた。同時に鐘の音が聞こえる。一つずつ長く間を開けて鳴らされる。それに合わせて影が羽ばたいた。


 遠くに見つけた鳥の影はみるみる大きさを増す。羽の生やし方が分かってから、私も飛べるようにはなったものの、あれほど見事に飛ぶことは出来ない。美しい隊列が城の上空を一回りして今度は街側へと向かった。慌てて部屋を出て階段を飛び下りる。そして街側が眺められる高い窓に飛びつくと目抜き通りの沿道を見た。


 歓声が上がる道を超低空飛行で飛ぶ白い翼があった。金色の髪が地平線に近づいた太陽の光を反射して赤がね色に輝いた。


「なるほど、確かにこれは強そうだ……」


 遠くて顔は見えないが、体つきは私よりも小さそうだ。白い羽と金の髪があの気弱そうな王と同じだったが、飛び方が同じ血を分けた兄妹とは思えないほど小気味よかった。ガルゼッタは穏やかに静かに飛ぶのに対して、少女が一つ羽ばたくたびに翼が風を切る音が聞こえてきそうである。


 白く力強い翼が正門で大きく羽ばたくと、少女のなりをした人が門前に舞い降りた。そして振り向いて沿道に集まった人々に手を振る。どっと歓声が上がった。その姿ははるかに小さいのだが、どこかの王よりも王者然としていた。


「カルセラ様、王の間へお急ぎください! 諸侯がすでにお揃いですよ!」


 少女が門の中へ歩くまで見惚れていたが、侍女たちに背中を押される。


 少し急ぎ足でいくと、あの少女よりも先に王の間へ着いた。下の階が騒がしいところを見ると、少女は王の間へ入れない者たちに捕まっているのだろう。一呼吸おいて王の間の扉を開けさせる。ザッと視線が集まった。30がらみの者から上は長老と呼ばれるにふさわしい年齢の者まで、左右に十数人ずつおおよそ30人程度、一斉にカルセラに視線を向けた。私は一瞬臆して息を飲む。意識を取り戻し記憶が無いまますでに二週間以上過ごしているが、こういった政治に関わる者たちとは一切の接点がなかった。


 そのうち、一番手前にいる黒い髪の男が一歩前に出る。一瞬誰か分からずに、恭しく一礼されてそれが兄だと気が付いた。


「ご機嫌麗しゅう王妃様」


 それに倣い、並み立つ烏族クーウの者たちが頭を下げた。その圧倒的な雰囲気に気圧される。


「大義で、ある……」


 そう返事をすれば大体のことは大丈夫だとノヴァエから教わっていた。やっとのことで返事をすると、半分うわの空で中央の絨毯を踏みしめた。少しふわふわする足元が今の心持ちを映しているようだった。


 ガルゼッタは中央奥、三段上にある玉座を埋めていた。烏族クーウの玉座は椅子の形をしていない、赤い天蓋付の座が祠のように壁に埋め込まれているものだった。中もまた赤い敷物とクッションが敷かれていて、彼はその中で胡坐をかいて片膝を崩していた。頬杖を突いている手をぱっと外し、ほほ笑んで私に手を振る。男には見えない。形容するなら『女神のよう』に見えた。


 彼の右側、横向きに天蓋は付いていないものの同じ作りで一回り小さい座があった。私の座はそこであった。裾をさっと払って横座りする。これが本来の女性の正式な座り方だという。ただ、横でほほ笑む彼の方がよほど美人で、場所を替わった方が絵になると誰もが思っているに違いない。


 座して見回すとよくわかるのが、ここに集まった者たちが何を見に来たのか、ということであった。一族に1人しかいない誉れ子が戻ってくるという祝いの場に参上したというのが理由であろうが、半分は建前だろう。


 言わないもう半分の理由は、記憶が無くなって人が変わったようだと噂される王妃を一目見に来たと考えるが妥当。妹姫の訪いが告げられるまで、各々会話を交わしているが、値踏みするような目線がちくちくと刺さる。それだけでも居心地が悪いというのに、人々の向こう側からペレグリの黒い双眸が鋭く突き刺さっていた。


「イビス様のおなりでございます」


 兵士の張り上げた声が朗々と響くと、それまでざわついていた部屋の空気が一気に張り詰めた。ガルゼッタが立ったのを見て、私もそれに倣う。木製の扉が2人の兵士の手で開けられると、金色の髪の少女が満面の笑みで立っていた。


「イビス・クーウ・クーヤ、ただ今戻りました!」


 正門で手を振る姿を遠目に見たのよりも、ずっと幼い印象。旅装のままなので分厚い皮の胸当てをして、足元も底の薄いサンダルではなく皮のブーツで固めている。外で見た白い翼は綺麗に仕舞われていて、誉れ子といっても同じ年頃の娘たちと変わらないように見えた。ガルゼッタが傾国の美人であるとしたら、妹のイビスはまだ可憐な少女の枠に収まりきる。兄のように周囲を唸らせる美女になるには、あと数年の時を要するといった感じだった。


 周囲の人々には一切臆さず、少女は歩みを進める。ガルゼッタが腰を下ろすと、少女もまた玉座の前で敷物の上に座した。そしてようやく他の人々も腰を下ろす。


「2年間よく修行にはげんだね。お帰りイビス」

「兄様もお変わりなく安心いたしました」


 兄妹はお互いを認め合い、屈託なく笑っているように見えた。だがきっとガルゼッタにとっては相当作り込んだ笑みを浮かべて頑張っているのだろう。右手の拳がグッと握られていた。あるいは帰って来なければよかったのにとどこかで思っているのかもしれない。そういう感情を押し殺して、よどみなく彼は対応している。大したものだな感服した。


 対する少女の方は快活そうという言葉がしっくりと来る。上辺で笑うぐらいなら睨み付けてきそうなまっすぐな気性を感じる話し方をする。私は少し安堵して頬を緩めた。この子となら、上手くやっていけそうだと思った。


 周囲の者たちは私のことを値踏みするような目線しかくれず、実兄に至っては脅してくる。夫のガルゼッタは今でこそ打ち解けたが、今度は少し度が過ぎぐらいにべったりしていて困惑することもあった。この少女とならいい友達になれるかもしれない、と思った。


「それで、姉様の調子がすぐれないとお伺いして急いで飛んで帰ってきたのですが、大事ありませんか?」


 問われて『大丈夫』と口を開こうとして、私は固まった。今までにこやかだったイビスが酷い顔でこちらをねめつけていた。その顔が、驚きと不安、そして徐々に怒りの表情に変わっていく。同時に怒った猫が毛を逆立てるかのように彼女の腕がざわついて、白い羽が感情に乗せて生えてくる。この様子に気が付いたのは私だけではない。集まった人々も少女の様子に驚いてざわついていた。


「だい……じょうぶ、です」


 私は恐怖しつつも、声を絞り出した。誰もそれが大丈夫と言っているようには見えなかっただろう。

 少女はそれを聞き流し、その場に立ちあがった。


「そなた、何者だ!」


 少女とは思えない、気迫のある声が部屋いっぱいに響き渡る。指さした先には私。唖然として少女の方を見返す。


「何者ってイビス、カルセラだよ。2年城を開けている間に忘れてしまったの?」


 ひどく慌てた様子で、王座から立ち上がったガルゼッタは妹の方に歩み寄った。


「いいえ、この者は姉様じゃありません……!」

「私、記憶が、無くなってしまって!」


 何か言わねばと無理やり口を開くと、最初に会って言おうと思っていた言葉が違う形で飛び出してきた。だがその言葉には力が無く、逆に少女の言葉に叩き落とされた。


「黙りなさい。記憶を無くそうと、形が変わろうと、あたしには分かる。この者はカルセラ姉様じゃない。匂いがちがう!」


 周囲の人々のざわつきが最高潮に達する。妹姫の糾弾は終わらない。


「何者だ!」

「やめて……!」


 思わず耳をふさいで顔をふせた。それでも耳には偽物という言葉が突きぬけて届く。


 誰もがこれまで『あなたはカルセラで間違いない』と言った。最初のころはそれを否定しようと思ったし、否定したこともあったが、どれだけ言っても『カルセラ』以外の誰とも認めてもらえなかった。そのうちに私自身、自分を『カルセラ』だと思い込むことにした。そうでなければ体が烏族クーウのそれに成り代わっている事実を説明しようがなかったのだからしょうがない。カルセラが本物でオルティリアが偽物だったのだと、そう考える以外に私が狂わずにいられる方法が無かったのだから、しょうがない。


 だが、初めてこれを否定する者が現れた。耳をふさいでも糾弾する声が頭に響いてくる。熱い涙がこぼれた。悔しいのと怖いのとで、耳をふさいで小さく震えていた。なぜ自分が震えなければならないのか理解ができなかった。ガルゼッタが挙動不審に何か言っているのは聞こえる。集まった諸侯たちは半分は驚き、もう半分は面白がるような空気が話し声が耳障りだ。


「おやめください姫様」


 孤立無援の私の前に立ちふさがったのは、黒い背中だった。片膝をついて深々と頭を下げる。


「王妃様、もとい我が妹カルセラは、心の病にて記憶の一切を無くしました。それゆえ全くの別人のようになってしまったのは事実。それを、姫様が偽物と勘違いされるのはごもっとも」

「そこをどきなさいペレグリ・ロクシャ。あたしがその偽物を城から追い出します」


 イビスは自分よりもはるかに背の高いペレグリを頭の上からねめつけた。


「これがカルセラであることはガルゼッタ陛下も認めておられます。異を唱えたものは姫様以外にはおりません」

「だからなんだと言うの!」

「姫様が陛下の妹君であっても、いかに力ある誉れ子であったとしても、陛下のお決めになったことをこのように騒ぎ立ててはご不興をこうむるだけかと思いますが、いかがでしょうか」


 一拍置いて今度はペレグリが下からイビスを、抉るように睨み付けた。さすがの少女も目を逸らす。年端もいかない少女相手にとる態度としては辛辣過ぎる。だがそれを、ただ目線を逸らせるだけで耐えてしまうイビスの方も、年にそぐわぬ精神力の持ち主のようであった。その脇には狼狽激しいガルゼッタが、なぜか一緒になって涙目になっている。


 しばしの間があって、少女の方が舌打ちをした。


「兄様に免じて今日は見逃します」

「イビスは優しい子だ、ね」


 不意に口を開いたガルゼッタを、イビスは一睨みして黙らせた。カエルをつぶしたような声をたてて、兄王の方は数歩退く。


「でもいつか絶対、その者が偽物であると暴いてみせるから覚悟なさい。その時は、ペレグリ・ロクシャ! あなたも一緒に城を追い出してやる!」


 旅装のマントを翻し、少女は人垣の中央を歩いて王の間から立ち去った。


 残されたのは頭を抱えた美人の王、耳をふさいで頭を垂れて泣く私、そしてざわめく諸侯。ペレグリは顔を伏せたまま誰にもその表情を見せなかった。

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