第22話 禁足地の中で

 急に目が覚めて起きたのは明け方ぐらいだった。他の三人を起こさないよう身支度を整え、私は一人船室から上がった。まだ日の出前、薄明に穏やかな海の様相が見えてくる。船員たちは三交代で常時動いており、乗り換えた船も船員は全員人間だった。


 彼らは遠巻きに私のことをちら見しているのだが、目が合うとサッと隠れてしまう。彼らにも少し話を聞いてみたかったのだが、あまり現実的ではなさそうだった。


「人間種がそんなに珍しいかい」


 朝起きたてで珍しくまだ船酔いをしていないらしい。無精髭をごしごしと擦りながらサフィエンが出てきた。


「アベスではほとんど見なかったから」

「そりゃそうだろうな。俺たち人間は故郷追い出されるから、人里離れて集落を作るしかない。船を作ったりして時々資源調達に都市部に出ては来るが基本引きこもりだ。都市部で商売してる剛の者もいるが……まぁあんまり多くないな」


 明け方の海風はさすがにヒヤリとした。満点の星空が少しずつ消えていく中を、船は一路北へと進んでいる。昼ごろに着くという陸地は未だ見えてこなかった。私は空を見上げる。明るいが歪な星が西の彼方へ、今しも沈むところだった。


「あの明るい星はティクって言って、見るたびに形が変わる凶星だ。あんまり見ねぇ方がいいんじゃないかな」

「信じてるの?」

「さあな。無駄口叩いてないで休んどけ。陸に着いたらまたしばらく歩くからよ」

「うん」


 返事はしたものの、その星が水平線の消えるまで眺めていた。


 強い追い風が幸いして予定より少し早く、昼前に着いたのは人間種が作った小さな漁村だった。乗せてもらった船は、この周囲にある漁村とレプを往復して物資を調達していた船だったらしい。もうこの土地からはあの目玉模様のローブを着なくても大丈夫だと思ったのだが、サフィエンは目深にフードを被るようにという。


「ここは人間がいっぱい住んでるから、お前らがレグナムだってばれると逆にやりづらいんだよ。いいから調停者の振りしておけ。人間は調停者には手出ししないし、調停者も人間には手出ししない。暗黙の了解なんだ」


 一応従ったものの、年少二人は酷く機嫌が悪そうだった。アベスの北東側を流れているリンネ川より向こう東一帯は、神聖な土地であるがゆえにレグナムは特別な許しが無ければ入ってはいけない決まりになっている。東側と言えば竜が最後に消えたと言い伝えの地なのだから、竜を信仰するレグナムにとっては当たり前も当たり前の話だ。レグナムに含まれていない緑族イリュフでさえその決まりを破っていない。ここは不可侵、そして殺生が禁じられた土地なのだ。


 それを良いことに迫害された人間種は川向うへと逃げ、人間種だけの集落を作ってはひっそりと生きているらしい。仕方がないとはいえ、レグナムを代表する立場の二人としては、むっとせずにはいられないのだろう。


 だが大人しく従っているのは、サフィエンが片時も手放さないナイフが大きいと見た。これだけの技術を人間種が持っていると知っていたらうかつには手が出せない。どんなに身体機能が優れていたとしても、武器を持ったうえで人数の暴力にあえばひとたまりもないだろう。それに、他にどんな武器を持っているとも分からないのだから。


 調停者の振りをして小さな漁村を後にする。開けた土地に畑が広がり、その間を一本道が北東へと伸びていた。人間種はすでに農業を覚えて備蓄を可能にしているのだろう。迫害から逃げてきた立場でありながら、人間種というのはこの星で一番発展している種なのかもしれない。その皮肉な現実を、レグナムは知らないまま互いに平行線を辿っている。不思議な不幸もあったものだなと私は道端にはみ出た麦の穂を撫でた。黄色く色づいた穂はそろそろ刈り入れ時に差し掛かっていた。


「こんな場所で人間は何してるの」


 見渡す限りの麦畑に理解できずにイビスは目が泳いでいた。フェーも呆気にとられて周囲をきょろきょろと見回している。その様子を呆れたようにサフィエンが、さも当たり前のようにたしなめる。


「見りゃわかるだろ、麦育ててんだ」

「分かるけど、でもこんな広い畑を維持できるの……?」

「川から水路、つまり人の手で水の流れを引いてきている。いちいち水を汲みに行ったりしなくて済むようにな。この一帯で採れる麦はこっそりだけどアベスやマーメリアにも流れ込んでいるぞ」


 イビスは思わず自分の口を押えた。知らないうちに口にしていたかもしれない人間種が作った麦。麦自体が悪い訳ではないのだが、何か許せないような、複雑な表情をして黙りこくってしまった。


「アベスからシナバリに行くのに沿岸側は通らないから、こんなところで人間が暮らしているなんて知らなかっただろう。沿岸部は海風がきついし森から離れているから幸も少ない。たしかにシナバリに逃げ込んだ人間種の多くは森に隠れ里を作っているが、沿岸も土地さえちゃんとすれば暮らせるってことさ」


 遠目に見えるのは青々と茂る森、手前は黄金色の麦の海。思い返せばどれもイビスが欲しがったものだった。烏族クーウは誇り高い一族と言えば聞こえはいいが、その実態は何とやらは食わねど高楊枝状態。リンネ川の西岸にこびりついた垢のような烏族クーウの土地と、この潤沢な人間種の土地とを比べればその差は歴然。人間種の土地の方が明らかに富んでいる。


 土地が肥えていれば食物は潤沢になる。食物に余裕が生まれると、次に生まれるのは技術だ。アベスにはその余裕がない。私が無理やり技術を植え付けたが、それではどうにもならないぐらいの余剰の差がここにはあった。


 どうして人間種の方が恵まれた生活をしているのか、そんなことが許されるのか、あるいはそれを許したのは自分たちではないのかと考えてしまうのは自然だ。イビスが唇を噛んで拳を握るのを後ろから見やる。サフィエンも察したのか少し申し訳なさそうに、ただ頭を垂れることなく少女に言う。


「そりゃ納得できんだろうが、しかし俺たち人間は追い立てられたら、追い立てられた先を自分の暮らしやすいように変えていける。それがたぶん俺たちの獲得した力なんだ、申し訳ないけどな」

「見くびらないで」


 強い口調でイビスは言い返す。


「あたしが今一番許せないのは自分が無知だったってことよ。別にあんたたち人間がどう暮らしていても構いやしないわ。でも、あたしには烏族クーウを豊かにするって使命がある。そのためなら何だって利用してやるわよ、たとえそれが人間種であってもね」


 つんと澄ましたようでいて、この少女は結構な熱量を持っている。それを面白そうに、そして意外そうにサフィエンは眺めて、そうか悪かったなと一言だけ付け加えた。


 だがこれに対してフェーは一歩引いたところで面白くなさそうに呟いた。


「でもオルティリアの親父の話とあの有名な昔話から整理すると、あんた達が増えたら天の竜が怒って地上を滅ぼすだろ? そしたら人間種だって一緒に死ぬじゃん。だったらあんた方は自重するべきじゃねーのかよ?」


 正論ではあると思う。ただ正論過ぎて、フェーは言い終わる前に、首根っこを掴まれた。初めて、サフィエンの怒った顔がそこにはあった。少し浮いた少年の足がばたつく。私は慌てて力む彼の手を掴んだが、がなり声が響き渡った。


「お前たちのために死ねるほど俺たちも優しくはないんだ」

「サフィエン!」


 ハッとしたように手を離す。フェーは尻餅をついてゲホゲホとむせた。しばらくの間、彼はらしくない苛烈な目つきで少年をねめつけていた。どうしても許せないことの一つや二つ、誰にだってある。ただ彼にとってそれは生き死にに関することなのだから、人の数倍厳めしいのは想像に難くない。諌める私の手を乱暴に振り払って、彼は自分から怒りを吐き出すように長く細い息を吐いてみせる。


「ああ、すまないね。おっさんついムキになっちゃったよ」


 わざとらしい作り笑顔で、ただ声色は怒りの色が消えぬままに、怯えた顔つきの少年を見下ろした。


「まぁ俺は君が言ったこと否定できない。だから俺は天の意思を受けて実行するだけさ。滅ぶなら、とっとと滅べばいい、こんな世界」


 ふいと顔をそむけて歩き出す。背中に激しい怒りと、少し陰りが見えた。これは大抵のことを緩やかに受け流す彼が、おそらく唯一受け流せないこと。この世界の仕組みと人間種の二重苦は彼に、願いや希望を全て投げ出させ、ただ天の意思の通り道として振る舞うようにさせていったのだろう。彼にはそれしかやりようが無かったのかもしれない。だから自分という存在の矛盾を指摘することだけは、彼にとって何にも耐えがたい苦痛なのだろうと察するに余りある。


 フェーは耳と尻尾を逆立てて絶句、イビスはなにがしか考えるようにうつむいていた。数日ではあるが生まれて初めて人間種と一緒に生活をしてみて、彼らがほとんど自分たちと変わらないことを知ったのだろう。忌み嫌う気持ちも、その原因も間違いはないのだが、血の通う様は自分たちと一緒。


 幸いなことに、これを無慈悲に線引き出来るほど、少年少女はまだ凝り固まった大人ではないようだ。私には、彼らの考えられる頭の柔らかさがうれしかった。考えあぐねているかわいらしい金色の頭と猫耳の頭をぽんぽんと撫でると、二人ともびくっとして、それからしょんもりとうな垂れていた。


 口数も無くなって、穏やかな街道を歩き続けること数時間、足元から道が消えた。正確にはうっすらとけもの道のようなものがあるのだが、あまりにも微かな痕跡すぎて、ここが調停者しか通らない秘密の道なのだと分かる。周囲は開墾されていない原野になり、空気が変わる。人間種からレグナムの領域に変化したのだと物語っていた。


 額に汗かきながらふと顔を上げると、遥か遠くに大きな樹の頭が見えた。特に変わった様子のない樹冠に思えたが、その遠さと大きさで相当な高さの樹であることが分かる。


「シナバリの樹かな、あれ」


 ポツリとフェーが呟く。周囲に生えている木も決して若くはないのだが、木々の合間から見えるシナバリの樹は、圧倒的な大きさを予想させるに十分だった。そこからまた小一時間かけて歩き、樹に近づくとまたその異様さがわかる。周りに小さな樹を引き連れた、親分のような大樹で、青々と茂る葉が足元に大きな影を落としている。原野の中にどんと現れる樹の小山、不思議な森の孤島、これがシナバリの全景だった。


「裏にある俺たちが使う通用門の方に回るぞ。こっちゃこい」


 すっかりとまではいかなかったが、ほとんど元の調子に戻ったサフィエンが手招きをした。足早に歩く背中についていく、崩れかけた石垣を西側へ。足元をのたくる木の根は、この土地がどれだけ古いか、そして人の手がほとんど入っていないかを分からないほどねじくれていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る