23


 ずきずきと痛む頭で、目が覚めた。あのまま廊下で気絶するように眠っていたらしかった。

 白い壁には飛び散る血痕。そのまま視線をすとんと下ろして、制服のシャツにも血がついていることを確認する。ため息がでた。洗って落ちればいいけれど、これはきっと落ちない。

 カーディガンもアウト。シャツもアウト。スカートはギリギリセーフ。

 だるい体を起こして、自分の部屋にはいると、正面の鏡に血まみれの自分の姿が映った。一応確認と近づいて鏡を覗きこむ。

 顔全体に血はこびりついていたけれど、傷口は浅かった。額が少し割れた程度。腫れ上がった頬だけが怪しいけれど、この程度なら「階段から落ちた」で誤魔化せる。

 そんなことを考えながらカーディガンを脱ぎ、引きちぎるようにカッターシャツも投げ捨てた。脱いだ服は丸めてビニール袋に入れる。鉄くさい血のにおいが、ただただ不快だった。

 黙って代わりのシャツを探す。すると、背後でがさりと誰かが動く気配がした。嫌な予感がして、勢いよく振り向いて……、肩を落とす。


「......小春」

「タイミング悪いよ、お兄ちゃん」


 昨日の夜は、いる気配すらなかった兄だった。振り向いて、笑う。


「今着替え中なんですけど」


 兄はばか、と言いながら首を振った。


「着替えより治療だろ」

「へーきへーき。怪我をしたのは額だもの。額って割れやすいんだよ。傷も浅いみたいだし」

「そういう問題じゃない」


 私に向かって手を伸ばそうとして、兄はその手をさ迷わせた。少しして、宙を掴んだ手が力無く下ろされる。


「……小春は、この家にいたらだめだ」

「そうかもしれない」

「佐和のところへ逃げるんだ」

「佐和さんにはこれ以上、甘えられないよ」

「じゃあどこへでもいいから逃げろ」

「無理言わないで」


 だんだん、兄の顔が歪み始める。そしてとうとう、ぼそりとこんな言葉を落とした。




「お前、死ぬよ」




 いつもは緩やかな弧を描いている唇が、きゅっとまっすぐに引き結ばれた。私はそんな兄に、思ったよりもずっと穏やかな声でこんなことをいった。



「それならそれで、いいよ」



 兄はしばらく何か言いたげにしていたけれど、しばらくすると、脱力したように長い腕で廊下を示した。


「お前の高校指定のシャツじゃないけど、俺が高校生のときのカッターシャツなら、廊下のクローゼットの中にある」

「......ありがと」

「あの女、まだ寝てる。起きる前にさっさと着替えて出ていけ。あと父さんに連絡しろ、新しいカッターシャツ買ってもらえ」

「そんなお金だしてもらえるのかな」

「父さんはあの女と別れたわけじゃないからな。さすがに嫁が娘を虐待してて、それを見て見ぬふりをしてましたってんじゃまずいだろ。新しい制服買わないなら、母親をかばうのはもう止めるって脅しちまえ」

「鬼だね」


 けらけら笑いながら、私は廊下に出てクローゼットを開いた。冬物のコートに混じって、確かに兄のシャツがハンガーにかけてある。それを適当にはおって、部屋に引き返すと、ボタンを止めながら自分の部屋のクローゼットを開いた。中をまさぐって、中学時代の学校指定のカーディガンを引っ張り出す。濃い茶色のその服は、よく言えば無難、悪く言えば地味。でも校章もあんまり目立たないし、とりあえずはこれでいいやとボタンを止め終えたシャツの肩にひっかけた。


「ちゃんと腕とおせよ」

「ネクタイ結んでからね」


 ネクタイを丁寧に結び、カーディガンにきちんと腕を通す。兄のカッターシャツは案の定大きい。四方からはみ出た袖が、みっともなかった。


「お兄ちゃん、身長高かったんだね」

「当たり前だろ、男だぞ。ほら着替えたならさっさと出てけ」

「言われなくても出るってば、顔洗ってから。この顔で外に出たら通報されるでしょうが」

「……母さん起こすなよ」

「どうせ起きないよ。いっつもそうじゃない」


 兄を振り切って一階に降り、洗面台の蛇口をひねる。顔を洗うと、額の傷口に痛みがじわじわと浸透した。顔をしかめながら、傷口にはできるだけ触らないようにこする。固まってしまった血は落とすのが難しいから、その手にだんだん力が入って、そのうち傷口が開いて新しい血が流れ始めた。



「……自分が」



 零れ落ちていくみたいだと、思った。


 私の中身が、感情が、思ったことが、全部血になって洗面台に流れていく。

 身体中の血が全部流れてしまえば、もう何も感じることもないだろうか。空っぽの体を抱えて、私は――、私は。


「小春」

「……心配性もいい加減にしてよ。もてないよお兄ちゃん」


 洗面台の向こうから兄の声がする。私は仕方なく、蛇口をひねって水を止めた。

 去り際、廊下を抜けるときにリビングを覗いた。母が小学生みたいにうずくまって寝息を立てているのが見えて、胸の底に苦いものが広がる。それを飲み込んで母をにらみつけて、すっと時計に目を移した。朝の六時。だいぶ早いけれど、もういいや。

 傷口に申し訳程度にばんそうこうを貼って、顔を隠せるようにマスクをして、玄関へ向かう。その私の後ろを、兄がひょこひょことついてきた。


「お兄ちゃんさ」


 ――足を突っ込んだローファーは、初夏の空気にさらされて少し冷たかった。その冷たさに足を馴染ませるように、つま先でコンクリートを叩きながら、私は兄をまっすぐに見つめた。


「昨日の夜、どこにいたの?」

「……」

「自分の部屋?」

「……」

「妹が殴られてるうめき声を聞きながら、部屋に閉じこもってたの?私ね、お兄ちゃんが助けに来てくれるかも、って、ちょっとだけ……」


 最後まで、その言葉を告げることはなかった。兄がゆるりと首を振って笑ったからだ。



「お前は、期待なんてしてなかったよ」

「……嘘」

「俺はもう、お前を助けられない」



 わかってるだろ、と、いつもの声を聞きたくなくて、全部聞こえないふりをして家を出た。もう、何を信じていいのかわからなくて、なんだか無性に、苦しかった。






 高校についたのは朝の六時半を回る頃だった。一応正門は開いていて、そのことにほっとする。大きく深呼吸。

 いっち、にい、いっち、にい、よし。

 そして、中へ入ろうと足を踏み出した、その瞬間だった。


「……おいっ」


 ぐっと後ろから手首をつかまれた。ひゅっと息が詰まる。

 昨夜の、後ろからするりと首に巻きついてきた、母親の腕を思い出して、冷たいものが背筋を伝って、無我夢中で体をひねる。


「は、なしっ!」


 て。


 最後の音を言い終わる前に、私の手首をつかんでいた人物と目が合った。驚きすぎて一切の抵抗を失う。そのすきに、彼の大きな手が私の前髪をかきあげた。目つきの悪い巨体が、私を見下ろして珍しく焦った顔をしているのがわかる。


「おまえ、これはないわ」

「なんなの……」

「なんなのじゃねぇって、これはない」

「いや、だから朝っぱらからなんなの横井!」


 目つきの悪い巨体――……横井由樹は、私の髪をかきあげたまま呆れた顔でこちらを見つめていた。朝から何でこいつに会うのか、今日はただただ不運でしかない。

 横井の手を振り払おうと首をひねるけれど、その首は、私の手首を放した横井のもう片方の手に抑え込まれた。


「頭ぶつけたやつが興奮すんな、首振んな。この傷、どうしたのか言え」

「あんたに言う義理はないよ」

「俺だって聞きたかねぇわ。クラスメイトのよしみの優しさで聞いてやってんだ、おとなしく言えって言ってんだろ」

「......階段から落ちたの。もうほっといてよ」

「お前バカか。階段から落ちてこんなとこ怪我するわけないだろうが!」


 横井の低い怒鳴り声に、思わず身がすくんだ。肩を揺らした私に、むしろ驚いたのは横井だったようで、私の頭を押さえていた手がぱっと落ちた。


「……わりぃ」

「いいよ」


 けれど、私の頭から離れた手は、ふらりともう一度私の手首を握った。


「なに」

「手当させろ」

「なんで……」

「いいから。お前、どうせ病院行く気ないんだろ。ほら、裏門に回るぞ。そっちのが保健室近いから」

「どうせ保健室あいてないよ」

「まっちゃんがいる。あいつこの時間にはもう学校来てんだ。永見が朝日が昇りきる前に学校に来なきゃいけないから、五時半には交代で校門を開ける教員がくる。水曜日はまっちゃんの日だから、ついでに保健室も開けてもらえばいい」


 そういいながら、横井は、昨日私と永見君が歩いていたグラウンド側に面した正門ではなく、校舎側にある裏門に向けて歩き始めた。それに引っ張られるようにして、私もとつとつと歩く。

 ぐるりと学校沿いの道路を歩いていると、学校を囲んだブロック塀の向こうに体育館の赤い屋根が見え隠れする。それを見ながら、昨日、体育館の側の花壇に咲いていた紫陽花を、綺麗だねと言って笑った永見君の横顔を思いだしていた。




 それから、永見君を傷つけた――、憎んでいた、あの横井が、私にやさしくしてくれるその真意を、探していた。




 横井の宣言通り職員室でコーヒーをあおっていたまっちゃんは、私たちを見るなり、「なんだこの変な組み合わせは」とでも言いたげに横井と私の顔をじろじろ見比べて、次に私の額の傷に目を止めて、さらに顔を歪めた。


「なに?浅海、とうとう横井と殴りあいの喧嘩でもやらかしたわけ?」

「やってません」

「俺もさすがに女は殴りません」


 ふたりで同時に首を振る。まっちゃんはため息をつきながら保健室を開けてくれた。


「俺ろくに怪我なんてしないから手当てとかできんよ」

「俺がやるからいいです」

「だそうです」

「先生は浅海は病院にいくべきだと思う」

「それは嫌です」

「……だそうです」


 まっちゃんは三度めのためいきをついて、保健室を出ていった。それを見送った横井が、消毒液やらガーゼやらを取り出しながら私に尋ねる。


「気分悪かったり、吐き気がしたりとかはしない?」

「しない」

「じゃあとりあえずは大丈夫か。少しでも体に異常が出たら問答無用で病院行きな」

「なんにせよ来週病院に行くもの、私」


 横井は細いまゆを片方だけ器用に上げた。私は横井が手当てをしやすいように前髪をピンでとめながら続ける。



「私の兄も花咲病なの。花咲病は遺伝病だから、私も毎月検査を受けて、発症の兆候がないか調べてる」



 どーせそのときに少しは傷は診てもらえるから、適当でいいよと言えば、はっ、と横井が鼻で笑った。


「だからおまえ永見に執着してんの?兄貴に似てて放っておけないってか」

「そうだよ」

「……」

「横井は、今から、あんたが嫌いな花咲病の遺伝子を持つ女に手当てするんだよ」


 わかってる?と、いやな聞き方をした。自分でも、手当てをしてくれようとしている横井の優しさに、意地だけで嫌味を言う自分自身に吐き気がした。けれど、横井は気にした様子もなく、きゅっと消毒液のキャップを外すと、私の目にタオルを押し当てて、



「話はそれだけか、じゃあもう黙れ」

「いだだだだだっ!」



 勢いよく額に向かって消毒液を噴射した。


「痛い!しみる!」

「あーあーもうこれ傷つくってから時間たってんだろうが。消毒もどーせしてないんだろ」

「してないけど、もうちょっと優しくしてよ馬鹿!」

「馬鹿に対する優しさは持ち合わせてねぇよ馬鹿」


 冷たい手がするりと私の耳に降りて、あ、と声を出す前に頬を隠していたマスクもひっぺがされた。


「マスクのふちから色変わってる肌が見えてんの」

「……」

「おまえの言うとおり、俺は不良だから、まあ喧嘩もするし。階段から落ちたこともあるけど、普通に階段から落ちたら、人間はまず顔面をかばう。怖いからな。階段から落ちて頭をぶつけるとしたら、額よりも後頭部」


 確かに、横井の言うとおりだった。


「そんで頬のこれが殴られた傷だってことくらいはわかる」


 横井は手際よくガーゼを額に張り付けながら、ぽつりぽつりと語り続ける。


「そんな傷跡もってんのが遠目に見てもわかる状態で学校の前をふらふらしてたら、普通に心配になる程度の善意は持ち合わせてる。自分が喧嘩しなれてるおかげで手当てはなれたもんだし」

「いばれるとこじゃぜんぜんないけどね」

「そーですね」


今度は消毒液が、母にひっぱたかれた頬にかけられる。引っ掻き傷ができていたらしい。そしてまたガーゼを切りながら、横井はさらりとこんなことを言った。


「それにお前は俺が花咲病が嫌いなんだって思ってるかもしれないけど」

「ちがうの?」

「朗報か悲報か、俺が嫌いなのは花咲病じゃなくて永見朔本人だ」


 あまりに直接的すぎる発言だった。


「永見を傷つけるためにわざと花咲病を引き合いに出した。永見としゃべろうが花咲病が感染するもんじゃないってことくらいはわかってるし、花咲病患者が暴力事件を起こそうが、みんながみんなそうじゃないってこともわかってる」

「横井……」

「悪かった」


 今度は頬に消毒をしようとしたその手をつかんで、私は思わず横井の胸をグーでどんっと叩いた。


「浅海?」

「急に謝らないで、謝る相手だって違う」

「永見には……」

「謝れないって?じゃあ、私にも謝るべきじゃない」


堰を切った口は、もう止まるところを見つけられなかった。


「もしかしたら、永見くんも横井に嫌われるようななにかをしたのかもしれない。だれが何を言ったって、横井の彼女を永見君が殴って、その結果彼女が転校したのも事実だ。でも、あんたが永見君を傷つけたのだって事実なんだよ。私じゃない。私は、傷ついてなんかない」

「うん」

「し、死神とか。机に描いたり。花咲病だから修学旅行の班に入れなかったり、後ろから紙くずぶつけたり、殴り掛かろうとしたり、脅したり、横井がしたのはそういうことだよ」

「……うん」

「そういう、ことなんだよ」


 死神という文字をなぞった、白くて細い指。あの指が震えていたことを横井は知らない。自分の体を切り裂くようにカッターシャツを脱ぎ捨てた、あの永見君の張り裂けそうな表情も、横井は、知らない。


「永見君が嫌いならそれでいい。どうでもいい。でも、私に謝るのは違う。私に謝るなら永見君に謝ってよ、横井は……っ」


 わかってしまった。

 貸してくれたコンビニのビニール袋、思ったよりもずっと優しかった、私の額を手当てするその手のひら。それは私を思った優しさじゃない。



「私は永見君じゃないから、横井が求めてる許しはあげられないっ」



 友里を使って謝ろうとした、ミケと大差ない。横井は、永見君に許されたいのだ。


 嫌いだとか強がっていたけれど、横井は流されやすいだけのただの高校生だ。クラスが永見君に無関心になって、自分がしてきたことがいじめだと改めて突き付けられて。永見君にしたことの意味を、その罪を自覚した瞬間、迷子みたいになったのだ。自分が持っているものを抱えきれずに。

 永見君に「僕は君にいじめられたけれど君を許すよ、もう気にしないで」と、許されたい。けれどそんなことがあり得ないことはわかっている。自分のちっぽけなプライドと意地が、永見君に謝ることも邪魔をする。


 だから横井は、私に近づいた。


 永見君に近い私にやさしくすることが、横井なりの贖罪だったのだ。

 でもそんなの、お門違いにもほどがある。


「手当てしてくれたこと、感謝してる。でもそれは感謝であって許しじゃない」

「……そうだな」

「永見君へしたことを許すのは、私じゃなくて、永見君だもの」


 横井の唇が、震えた。そんな彼を見つめながら、私は思わず横井の頭に手を伸ばした。

 彼に触れて何をしようとしたのか。そこに何の意味があるのか。わからないまま彼に触れようとして、そして、あと数ミリのところまで指先が近づいた、ちょうどそのタイミングだった。




「小春……っ!永見が!」




 勢いよくドアを開けて、京子が保健室に飛び込んできた。




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