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 ―――花咲病はなさきびょうが初めて日本で確認されたのは、およそ50年前のことだ。



『花咲病』は通称だ。正式名はなんだか難しい名前がついていたと思う。英文字の、長い名前。私はそれをきちんと覚えられなかったし、たぶん兄も覚えていなかった。

 花咲病という名前がしっくりきすぎていたのが原因だとなんとなく思っている。




 この病気の始まりを、少し話そう。




 100年前、アメリカのカリフォルニア州。とある少女の体から不思議な物体が検出された。緑色の細胞、それは日本の小学生でも理科の授業で目にする機会の多い物体であることが検査の結果判明する。『葉緑体』だ。

 しかしそれは、従来の葉緑体と全く似て非なるものだった。


 その細胞は、少しずつ人間の体内で繁殖し、人間の体を植物に近いものへと書き換えようとする。


 人間が植物へ進化なんて、そんな無茶なことに体が耐えられるのか。結論が出たのは細胞の発見から八年後のことだ。十歳で発症した少女は、八年後の十八歳の春に

 体細胞が瓦解。つまりは生きたまま、体の細胞がはがれるように崩れて、消えてしまったのだという。死体は残らず、散った体は最後には崩れてただの顆粒状になった。

 少女の体が崩れ落ちて、消えていく。その姿がまるで花びらが散るようだったことから、この名前が付いたらしい。


 この病気には対処法がない。新型葉緑体が出現したが最後、十年を境にしてじわじわと緑色のあざが体を覆い、最後には体がほどけて消えてしまう。



 永見君の体にあったのは間違いなく花咲病患者特有の緑色のあざだったし、思えばいくつも彼が患者だと結び付けるには十分なほどのヒントはあった。



『快晴の予感のする明け方の空の下を』

『おー、見事に傘差して歩いてったな』



 あの猫を埋めた日の明け方。



『やめろ!!』



 カーテンを開けようとした時の叫び声。あのとき永見くんは、ちょうど直射日光があたる立ち位置にいた。


 永見君はずっと、日光を避けていたのだ。


 新型葉緑体の繁殖には「日光」が一番重要なポジションにある。日光を浴びれば浴びるほど繁殖のスピードは速くなるし、避ければ避けるほど少しずつ遅くなる。繁殖が全身に達すれば死ぬ。



 花咲病は繁殖スピードで進行のレベルが決められている。



 Ⅰ度。新型葉緑体の進行が遅く、日光を浴びても繁殖のスピードはあがらない。この時期の繁殖には日光はまったく関係なく、生活の制限はほぼない。

 Ⅱ度。ある程度進行が進んだ状態。通学、就労は許可。日光を浴びるほど繁殖のスピードがあがるようになり、できるだけ日光を避けての生活が必要とされる。

 Ⅲ度。通学、就労不可。食欲不振。日光を完全に遮断しての生活が必要。

 Ⅳ度。衰弱が進んだ、末期状態。




 永見君はⅡ度。学校へは来れるけれど、できるだけ日を避けないと繁殖のスピードがどんどん上がってしまう。そして、最後には花が散るように死ぬ。





『死体のない生き物は、神様から愛されていなかったんだろうか』





 永見くんの言葉を思い出す。


 私はあの日、なにも考えずに、きっと永見くんにとてもひどいことをいった。死体の残らない永見くんに、とても、とてもひどいことをしたのだ。





 無知という言葉を免罪符にして。





 ――――夢の中で、誰かがぼそりぼそりと呟いていた。



「......小春には六歳年上のお兄さんがいる。名前は浅海貴晴」



 うつらうつらするわたしの耳元で、低い声が響く。どこかで聞き覚えのある声だ。低くて穏やかな声。その声は淡々と私の人生をなぞっていく。



「花咲病だった。でも中学、高校と楽しく通ってたんだ。問題は大学だった」



 ――――そう。


 私の兄は小学校高学年で発症するのが通常の花咲病を、中学に上がってから発症した。Ⅰ度の期間が長かった兄は、高校を卒業する頃、はじめて生活に制限が出始めるⅡ度にステージが引き上がった。

 けれど外出はできたから、兄は大学への進学を決めた。それが正しかったのかは今はもうわからない。

 低い声が静かに告げる。




「貴晴さんは大学でひどい嫌がらせを受けた」




 ――――花咲病患者へ向けられる、差別の視線は今もひどい。

 花咲病は感染性ではなく遺伝病だ。でもそれは正しく周囲に認知されてはおらず、いじめや無視、迫害が根強く続いている。

 兄はその被害者だった。血のついたカッターシャツを、誰にも見られないように洗っていた。大学で暴力を受けていることは明らかで、そのうち、兄を溺愛していた母は彼を誰にも見せないよう部屋に閉じ込めるようになった。



 そして、事件は起きる。



 とある春の真夜中のことだった。

 部屋に閉じ込められているはずの兄が、廊下に立っていた。


『お兄ちゃん』


 私は兄を呼んだのだ。兄は、こちらを振り向いた。どんな顔をしていたのか、今となってはまったくわからないけれど。

 月の光を浴びた兄の姿を覚えている。真っ黒に塗りつぶされたその体から、にゅっと手が伸びる。

 目を見開いた。いろんな言葉が頭を駆け巡った。どうして、なんで、やめて、お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん。


 お兄ちゃん。


 伸びた手はまっすぐに私の体の中心をとらえた。



『ごめん』



 兄の小さな声を耳がつかまえた。その時にはもう、私はすでに階段から転がり落ちた後だった。

 あの後の記憶は、私には、ない。



「……小春が中学二年生の時、貴晴さんは小春を階段から突き落とし、さらに母親を鈍器で殴打。ふたりとも命に別状はなかったけれど、全治数か月の大けがを負った。

 小春はその時のショックから、花咲病と暴力事件という言葉をセットで聞くと、パニックを起こすようになった」



 ――あの春の日、兄と私に何が起きたのか。

 兄は沈黙を守り、私は思い出せないまま時は過ぎた。あの日から私の家庭は少しずつ狂い始めた。狂った私たちは真夜中の街で呼吸をしている。



「ここまでが俺と京子が小春本人から聞いた、春の日の話」



 低い声が最後にそう言ってしめくくった。

 そして私の意識はまた深く沈んでいき、彼らの話す小さな声はだんだん遠ざかる。



 泣きそうな顔で服を脱いだ、永見くんの顔を思い出した。


 あの夜。

 何が起きたかを知ろうとは思わない。

 私は兄を許したし、兄の闇に踏み込もうとも、夜が来るたびに兄の部屋で泣く母を、家から出ていった父をどうにかしようとも思わない。

 私は私のまま生きて、生き抜いて、そうして高校を卒業したら家を出る。それで終わりだ。全部全部終わりでいいはずだ。それまでは大輔と京子と平穏に過ごせたらいいはずなんだ。


 それなのに。


 永見君の顔がちらついて、消えない。平穏からほど遠い、私のトラウマの鍵みたいなあなたの顔が。



 泣きそうな顔で緑色の肌をさらした、あなたの姿が忘れられない。



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