21

 永見君の手はいつまでたっても冷たいままで、そんな彼の手を握りしめた、私の手は無様なくらいに震えていた。それでも振り返らなかった。呼吸を止めて、ただただ足を動かした。



 私達はたった今、人の死ぬ瞬間を見た。



 彼の最後の言葉も、落ちていく姿も、空中でほどけた体も、全部覚えている。あれが彼の最期。そしてあれが永見君の未来。


「……どこへ向かってるの」


 がむしゃらに歩き続けて、駅の近くを抜けて、商店街まで来た。普段こちらのほうまで来ないらしい永見君は、ようやく自分の状況を察したのかあたりを見回しながら私に尋ねる。彼が私の手をぎゅっと引っ張って、初めて私は足を止めた。

 そして呆然と呟く。


「無意識だった」


 ほんとに、無意識。私は知らないうちに、バイト先のカフェの裏口まで来ていた。


「……永見君連れてきちゃった」

「ここがバイト先?」

「そう」


 永見君は少しためらった後、私の手を軽く握り返して言った。


「じゃあおれ、帰るよ」


 一秒、二秒、三秒。

 帰るよというわりには永見君は手を放さない。おかしいな、と思っていたら、永見君の空いたままの左手が、つながった私たちの手の上に重ねられた。


「……息、吸って」


 言われたままに息を吸う。続けて吐いてと指示が飛び、それにもおとなしく従う。吸って、吐いて、吸って、吐いて。それを繰り返す私に、今度は低い声がこう告げた。


「肩の力を抜いて」


 そこで初めて、私は自分の体ががちがちに固まっていることに気が付いた。


「……あ」

「大丈夫だから。ゆっくり、放して」


 放さないんじゃなくて、放せなかったみたいだ。

 手を放さないのは、永見君の手を支えているつもりで彼の手に縋っていたのは、私だった。


 永見君の左手が、私の凍り付いた指先を一本ずつほぐしていく。まず小指、薬指、中指……。

 そうして全部の指が放れて、私の手が彼の手から滑り落ちた瞬間だった。


「……小春ちゃん?」


 私が立ち尽くしていた店の従業員用のドアがゆっくりと開いて、柔らかな声が響いた。振り向く。


「佐和さん」


 店長兼、ずっと私を見てくれていた大好きなお姉さんが心配そうな顔でそこに立っていた。


 彼女の顔を見た瞬間、体中の力がどっと抜けた。自分の唇が震えるのが分かる。そして、次に口を開いた時には。


「佐和さぁぁぁぁぁん……」


 自分でも驚くほどに子供っぽく、泣きじゃくっていた。佐和さんは何が起きたのか全く分からないといった顔のまま、恐る恐る私の頭を撫でた。その手に安心した私は、馬鹿みたいにさらに大きな泣き声を上げる。

 その時、ただただ自分のことしか見えていなかった私は気が付いていなかった。佐和さんが少し驚いたように永見君を見ていたこと。その手が小さく震えていたこと。




 私の隣に立つ永見君も、実は泣いていたこと。





「最終手段を使います」


 泣きじゃくる私と未だ白い顔をしている永見君。そんな私たちを事情も聴かずにカフェの二階にある自分の部屋に放り込んだ佐和さんは、きりっとした顔でスマートフォンを取り出した。そして唐突にどこかに電話をかけ始める。

 それからしばらく。電話を切って一息ついた佐和さんはこちらを見てふわりと笑った。


「知り合い。今日の夜暇だからお店手伝いに来てくれるって。今日は貸し切りでお店が終わるのも少し早いから二人ともここで待ってなさい。

 えっと、そっちの君……」

「永見です」

「永見君、君もひどい顔よ。少しここで休んで、一緒にご飯食べて行きなさい」


 永見君は少しためらったようだった。けれどちらりと私を見て、それからゆっくりと頷いた。


「お世話になります」


 頭を下げる彼に、佐和さんはひらりと手を振り返して軽やかに階段を下りて行った。


 それからも、ずっと沈黙は続いた。

 私はただただ泣き続けて、そうしてようやく泣き止む頃にはもう外も真っ暗になっていた。赤い目をこすって顔を上げた私に、永見君がゆっくりと口を開く。


「……なんで雨戸は開いたんだろう」


 花咲病研究施設病棟。

 暗闇に包まれた、死の雰囲気が漂うあの建物。あの中に、私は一階の診察までしか入ったことがなく、二階より上の部屋がどうなっているのかは全く知らない。

 どういうこと、と尋ねると、入院病棟を知っている永見君は考え込むように言葉を続けた。


「さっきの患者はどう見ても進行ステージⅣだった。そんな末期患者が陽にあたれば、一分足らずで死に至る。だから患者が勝手に開けないように、病院の雨戸には鍵がかかっていて、ナースステーションで管理しているはずなんだ。閉め忘れなんてありえない。鍵をその辺に放置していたなんてことも絶対に、ない」


 確かにそう聞けば、あの状況はおかしいように思えた。さらに彼は話し続ける。


「しかも、タイミングが変だ」

「……タイミング?」

「そう。タイミング。外の様子が全く分からない病棟の中にいた彼が、曇り空から日の差した瞬間を狙ってなんで窓を開けられた?

 例えば全部偶然だとしよう。たまたまあの部屋の鍵が開いていて、たまたま末期症状の少年が窓を開けて、その瞬間たまたま空が晴れて日差しが出て……。それで死んだって?

 そのたった数分の出来事にいったいどれだけの偶然が重なると思う」


 永見君と目が合う。さっきまで茫然としていた眼は、今は鋭い光をもって私を見ていた。




「……あの男の子は、どうして死んだ」




 まだどこか考え込んだままの永見君。彼を見つめながら、私はふっと少年が落ちる瞬間の窓の奥の映像を思い出した。


 白くて細い手。


 あの手は少年を——……。


「永見君。偶然じゃない」

「え?」

「私、見た。あの窓の奥で、男の子の背中あたりに手が見えた」


 あの手は確かに少年の薄いブルーのパジャマに触れていた。


「あの子が窓を開けた時、誰かがそばにいたんだ。それでもあの子を止めなかった。それどころか、窓の外にわざと突き落としたみたいに見えた。

 それって事故で片付く?」



 あれは事故?それとも、それとも……。




 のどもとからおなかの底まで、冷たいものがすっと走るような感覚が襲った。

 嫌な予感だとか、悪寒だとか、そんなものに置き換えられるかもしれないその感覚をまといながら、直観的に私はこんなことを思った。



 今日、何かが動き出した。



『なにか』を具体的に言葉になんてできない。

 それがどこへ向かって進んでいくのか、行きつく先がいいものか悪いものかもわからない。けれど、確かに今日、あの病棟の窓から何かが始まったのだ。


 さっきよりもずっと重い沈黙が部屋に降りた。それを振り切るみたいにして、無理やり口を開く。


「ホールはこんな顔じゃ手伝えないけど、厨房だけでも手伝ってくる、私」

「……おれも手伝うよ。その前に家族に今日は遅くなるって連絡だけしてくる」

「わかった。じゃ、先に降りてるね」


 永見君を置いて、私は階段を下りてそっと厨房に入った。


「……佐和さん、今日忙しいのにごめんなさい」

「小春ちゃん。もう大丈夫なの?」

「うん。お手伝いする」


 そういうと、佐和さんはありがとうと微笑むと、私の目元をそっとぬぐった。


「……でもその泣きはらした顔じゃ、ホールは任せられないかな」

「やっぱりそう思う?」

「思う。ホールは今日はいいから、お皿洗いお願いしていい?」

「わかった。あ、永見君……、あの男の子、永見朔君っていうんだけど、あの子も手伝ってくれるって」

「あら。じゃあ、いつものかごに洗濯したエプロン入れてあるから、それ貸してあげて。あと二枚くらい残ってたと思うわ」


 厨房のすぐ横の廊下。その脇。佐和さんの言うとおり、二つ並んで置いてあるかごのピンク色のほうに、黒色のエプロンが二枚入っていた。カーディガンを脱いで、もう片方のブルーのかごに放り込む。つづいてネクタイもほどいてブルーのかごへ。そして黒色のエプロンを身に着けて、髪の毛を結んだ頃、永見君も二階から降りてきた。


「カーディガンとネクタイとってこっちのかごにいれて。これ、エプロンね」


 永見君が頷いたのを確認して、私も厨房へ戻った。

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