22

 制服じゃ夜の飲食店で接客なんてできないから、いつもは服を着替える。

 でも今日は接客じゃないから服を着替えたりはしないで、エプロンだけつけて、黙々と食器を洗った。



「......バイトの子?」

「はい」


 閉店後、夕ご飯を食べる準備をしていると、厨房に入ってきた男性に声をかけられた。佐和さんが呼んだ知り合いの人なんだろうな、とはすぐにわかった。背の高い、長めの黒髪を後ろで縛った、ひょろりとした男の人。

 明日の仕込みをしていた佐和さんが、慌てたように私を見た。


「この人、高校時代の同級生で......」

「ミキです。三つの樹で、三樹」


 名字か名前か、よくわからない名乗りかただった。手が泡だらけだったから、私はぺこりと頭だけを下げた。


「浅見、小春です」

「どーも」


 三樹さんは不愛想に一言そういうと、よそったばかりのチキンのトマト煮をお盆にのせて向こうへと運んで行った。


「不愛想だけど、いい人なの」

「そう……」


 佐和さんがお手伝いで読んでいた知り合いの人が男性だとは思わなかった。少し不安げな顔をした私に、佐和さんが軽く肩を叩く。


「三樹君、いい友達だけど彼氏じゃないわ。勘違いしないでね」

「別に佐和さんが誰と付き合ってたって私気にしないよ」

「嘘つき。気にするくせに」


 けらけら笑いながら、佐和さんが振り向く。


「あ、さっき泣いてた理由。三樹君がいても話せることならご飯食べながら聞くし、話しにくいことなら後で聞くけど……どうする?」


 ほとんど反射的に永見君を振り向いた。少し困ったように微笑んだ永見君は、佐和さんに向き直って淡々と話した。



「花咲病の人が死ぬ瞬間を見てしまって……」



 佐和さんの顔色が変わった。


「研究病棟の前、通った時に。曇りだったはずなのに急に空が晴れてきて、それを浴びた患者の方が……。それを見ておれも浅海さんもパニックになってしまって」

「そうなの」


 震える手で私の頭を撫でた佐和さんは、戸惑いながらこんなことを言った。

 大丈夫?でも、大変だったわね、でもない。


「何か思い出した?」


 永見君が花咲事件の関係者だと知らせてきたときの、京子と同じ反応だった。

 私は黙って首を振った。


「なにも」


 佐和さんは安心したような、それでいて少し残念そうなよくわからない顔をした。

 私が何か思い出したらいけないんだろうか。私はあの春に、何を置き去りにしてきたんだろうか。


「……じゃ、夕ご飯食べましょ。永見君も」


 柔らかな佐和さんの手に背中を押されて、私はダイニングテーブルへと向かった。




「じゃ、佐和さん、今日は本当にすみませんでした」

「いいのよ。気にしないで。明日も来るわね?」

「はい、明日は働きに来ます」

「ぜひそうして」


 もう夜も十時近くを回る頃、佐和さんに見送られて私と永見君は店を出た。佐和さんはいつものように車で家の近くまで送っていくと言ってきかなかったけれど、永見君が自分が送っていくと言ってくれたから、結局二人で帰ることになった。

 佐和さんに持たされた、おかずの詰まったタッパーが入った紙袋を大事に抱える。佐和さんの優しさが形になったみたいに、暖かくて柔らかいなにかがそこに灯る。


「……トマト煮込み、美味しかった」

「でしょ?佐和さんのご飯は絶品だからね」


 商店街を抜けながら、永見君がほほ笑んだ。佐和さんの料理はどうやら彼のお気に召したらしい。私も笑って、飛び跳ねるように歩いた。今日見たものに、無理にふたをするみたいにして。


 けれど、お店から出て、ちょうど商店街を抜ける曲がり角に差し掛かった時だった。


「小春ちゃん」


 後ろから、男性の声に呼び止められた。振り向く。そして、驚きで目を瞬かせた。


「……三樹さん」


 さっき少し話しただけの、三樹さんがそこに立っていた。夜の暗闇に溶け込むようにして、ぬっと。

 思わず身じろぎをした私に、永見君は何かを察したらしかった。私を背中にかばうようにして三樹さんとの間に立ち、自分よりいくらか身長の高い彼を仰ぎ見た。


「……なにか」


 三樹さんは黙って、私の手首をつかむと、私の手のひらに無理やり硬くて冷たい何かを握りこませた。恐る恐る、手を開いて中を見る。


「……あ」

「家の鍵でしょ。忘れてったから、佐和が追いかけようとして。でもさすがに女一人で夜道歩かせるわけにもいかないから、俺が追いかけてきただけ。以後気を付けて」

「はい。すみません……」


 今日は本当に、何をやっても迷惑しかかけていない。思わず身を縮こまらせると、三樹さんは切れ長の目で私を見下ろしたまま、ぼそりといった。


「あのさ。やっぱり、一言言わないと気が収まらないから、言うけど」


 ひどく冷たい声音だった。


「小春ちゃんってさ、佐和に飯食わせてもらう代わりに働いてんだよね。でも代わりって言ったってバイト代もちゃんともらってるんでしょ」

「......はい」

「今日忙しいってこと、わかってたよね」

「はい」

「来るなり泣きわめいて仕事にならないってなにそれ。小学生?しかもバイト先に全く関係ない男連れてきて、そいつも飯食わせるって?さすがに図々しいと自分で思わない?今日俺が手助けに来れなかったら、佐和、どうなってたと思うの?」


 三樹さんの言葉がひとつひとつが、痛い。


「働くって責任がいることなんだよ。あんた、ただの佐和の幼馴染ってだけでここまで来たから自覚ないかもしれないけど、自覚して。その無神経さは迷惑だ。

 ――――佐和は、あんたの家族じゃない」


 それが、とどめの一言だった。



「家族でもない人間が、甘えや好意であいつを振り回すな」



 つかまれていた手首を、乱暴に振りほどかれた。そして、もう一度だけ私を一瞥したその人は、黙って踵を返してまた夜の闇に溶け込んでいった。


「……浅海さん」


 黙ったままの私の背中を、永見君が軽くたたいた。


「帰ろ」


 その手に押されるまま、私はまた暗いアスファルトの上を滑るようにして歩いた。


 桜はもう、散ってしまった。青々とした木々だけが、沿道をぐるりと縁取っている。その脇をすり抜けて二人で歩きながら、私はいつしか口を開いていた。



「……私、佐和さんはお兄ちゃんと結婚するんだと思っていたの」



 ずっと、昔の話だけれど。


「佐和さんはお兄ちゃんより二つ年上でね、おんなじ高校でね……。

 佐和さんのおじさんとおばさんも、花咲病だったの。花咲病ってだいたい小学生から発症することが多いんだけど、珍しい、成人後の発症でね。

 佐和さんが高校卒業したあたりから急に症状が悪化して、その次の年だったかなぁ。亡くなったの。それで、親戚の援助を受けながら、あの店、一人でやってくことにしたんだよ。その時も、お兄ちゃんは必死に佐和さんを支えてた。付き合ってたんだよ。ふたりは恋人だった」

「……そうなの」

「お兄ちゃんが暴力事件を起こしたあとから、いろんなことが変わってしまった」


 兄は暴力事件の後、更に家に引きこもるようになった。佐和さんにも会うことはなくなった。佐和さんは、私を心配して、家に呼んでくれるようになったけれど、兄の話題は執拗に避ける。


「……でも、どれだけ優しくしてもらっても、佐和さんは家族じゃない」


 ぼそりと呟いた。それは、自分を戒めるための言葉だった。


「私、自惚れてた。私、佐和さんの店にいることが、当たり前になってた。あそこを勝手にふたつめの家みたいに感じてた」


 道端に転がる、ひときわ大きい石を勢いよく蹴とばした。


「ばかみたい」


 立ち止まる。


 三樹さんは、きっと、佐和さんが好きなんだと思う。根拠はないけれど、あの目にこもる熱を見れば、もうそれは間違えようのない事実だった。

 佐和さんは――、佐和さんも、きっとお兄ちゃんを選ばない。今日、困ったときに真っ先に助けを求めた、三樹さんを選ぶ。


 佐和さんは、自分にお兄ちゃん以外の彼氏ができて、結婚してしまうことを私が恐れているって、見抜いていた。

 私が今佐和さんに素直に甘えられているのは、佐和さんに家族がいないからだ。好きだということ以上に、遠慮する相手がいないからだ。

 だからこそ、佐和さんが結婚して家庭をつくったら、さすがにもう佐和さんに甘えることなんてできない。私はまた、逃げ場を失ってしまう。そのことを恐れていると気が付いていたんだ。

 だから今日、佐和さんは笑った。



『三樹君、いい友達だけど彼氏じゃないわ。勘違いしないでね』

『別に佐和さんが誰と付き合ってたって私気にしないよ』

『嘘つき。気にするくせに』



 あんな会話で、私を安心させるために。


 私、今、佐和さんの幸せの邪魔をしているんじゃないだろうか。


 どんどん足は重たくなって、動かそうとはするものの、とうとう一歩も動かなくなった。鉛にでも変身してしまったような足を、ぼんやりと見下ろしていると、突然――、ほんとうに、突然だった。


 永見君が、傘を広げた。驚いて、目を瞬かせて彼を見つめる。



「……日、沈んでるよ」

「そうだね」

「雨、降ってないよ」

「うん」



 でも、と低い声が言葉を続ける。



「でもそのひどい顔、他の誰かに見られたい?」



 見られたくなんて、なかった。

 永見君の広げた大きな傘は、私を入れてもまだ十分余裕があって、私のぐしゃぐしゃに潰れた顔を、人目から隠してくれた。

 学校からの帰り道、15センチほど空いていた距離は、今はもうない。ほとんどゼロセンチ。肩がぶつかってしまうようなそんな距離で、永見君はまっすぐに道の向こうを見つめたまま話を続行した。


「……佐和さんは浅海さんの家族じゃないね」

「うん」

「でも、浅海さんは佐和さんが好きでしょう」

「……うん」

「おれ、今日話していて、佐和さんも浅海さんのこと好きなんだなって思ったよ。三樹さんが言ったみたいに、泣いてバイトに来た子を、怒りもしないで忙しいのわかってて休ませたりしない。どうでもいい子にご飯も食べさせないし、こんなに大量のタッパー、持たせたりもしない」


 決められた原稿を読むようにすらすらと、薄い唇が言葉をつなげていく。その度に、足についていた錘がひとつ、またひとつとほどけて落ちて砕けていく。そして、最後に残った錘すら、なんでもないことみたいに簡単に砕かれた。




「浅海さんは佐和さんの家族じゃないけど、お互いにとってお互いが大切な存在ってわかってて、お互いに思いやりながら共存できるなら、それでいいんじゃないの」




 ……そうだね、と。

 つぶやいた言葉は声にならなかった。胸の奥を、温かい響きが満たしていく。けれど、その響きは突然すとんと地に落ちた。



「おれも、佐和さんの気持ち少しわかるよ」

「佐和さんの気持ち……」

「大事な人は、甘やかしたくなる。それにどこまで甘えるかは、浅海さん次第だけど」



 大事な人―――……、永見君の、大事な人。

 さらに何か話そうとした永見君を、私は思わず突き飛ばした。傘から飛び出す。


「……浅海さん?」

「あっ、いや、私、ここの曲がり角、左だから……」

「家まで送るよ」

「いいよ、そんなの。もうすぐそこだし……。今日は、ありがとう」


 不安げな永見君の横顔を振り切って、私は大きく手を振った。


「また、明日ね」






 ―――その明日に、何が起こるかなんて知りもしないで。







「……お兄ちゃん」


 家の中は、真っ暗だった。お母さんはもう寝たんだろうか、足音をひそめて、二階につながる階段を上る。


「お兄ちゃん、いないの」


 今日は、いつもうっとうしいくらいに私の後ろをついてきて騒ぐ兄は、なりをひそめていた。どこへいったんだろう、もうお兄ちゃんまで寝たんだろうか、真夜中の散歩も行かないで。

 そんなことを考えながら、ふと、花咲病の少年が死んだ瞬間のことを思い出した。あの瞬間、感じた既視感。あの原因はいったい何?


 兄の部屋の前に立って、そういえば、と思い出す。

 ずっと、たぶん中学二年生の時の兄の暴力事件以来、ずっと、私は兄の部屋に入ったことはなかった。いつも兄が私の部屋に来るばかりで……。

 週に何度か、夜が来ると、お母さんは兄の部屋の前でドアに縋りついて泣く。だから母が来る前に兄は私の部屋に避難してくるのだ。そして母がドアの前から立ち去る明け方まで、外を散歩するのが日課だった。

 私は、兄の部屋には意地でも近づかなかった。

 あのドアには母の執着心がこびりついているような気がして、あそこにいるのはためらわれたからだ。


 それでも今日は誰もいなかったから、まじまじとドアを見つめる。


 そこで初めて、兄の部屋に外から鍵がかかっていないことに気が付いた。母は、兄の病気が悪化し始めた頃から、部屋に外から鍵をつけて、兄を中に閉じ込めるようになった。暴力事件は兄を閉じ込めるようになって、半年後に起きた。ここまではしっかり覚えているのに、いつから南京錠がかかっていないのかを思い出せない。

 確かに外から鍵がかかっていたら、現在、兄が私の部屋に抜け出して来れるはずがない。当たり前のことだけれど、じゃあ鍵がかからなくなったのはいつからだった?暴力事件から?

 そもそも、暴力事件のあの日、部屋に閉じ込められていた兄はどうやって部屋から脱出した?


 心臓がドクンドクンと嫌な音を立てていた。


 兄、春の夜、振りかぶった金属バット、暗闇から伸びた緑色の手、花咲病、花咲病、花咲病。

 いろんなキーワードが頭でぐるぐる回る。その瞬間、何かが頭の奥でひらめいたような気がした。私、なにかを、忘れて―――……。





「貴晴を殺しに来たの、この悪魔め」




 ぞっとするような声が、背後から背中を撫で上げた。

 振り向こうとしたその瞬間、するりと冷たい腕が首に巻きついた。ぐっと、息が詰まる。そこでようやく、私は状況を悟る。


 ああ、やらかした。


 意識が遠ざかる。ばたつかせた足が後ろの女を蹴とばしたけれど、そのせいで思いっきり頭をつかんで壁にぶつけられた。ぬるりと嫌な感触が額を伝う。

 髪をつかんで、もう一度壁に頭が激突する。



「貴晴は、私が、守るの」



 言葉を区切る度に、繰り返し、平手が上から降ってくる。

 そうだった、あなたはずっとそうだったよね。あなたはずっと、お兄ちゃんを守っていた。でも、私のことは守ってくれなかったね。



「二度と、貴晴の、部屋に、近づくな」



 大丈夫、守るよ、大丈夫、この部屋にはもう近づかないよ。




 ――――お母さん。




 ふらりと意識が遠のきかけた、その向こうで見た母の冷たい目が、三樹さんの目に重なって見えた。

 三樹さんごめん。佐和さんに、甘えてごめん。でも佐和さんのところに逃げられなくなったら、私はきっと、死んでしまう。




 意識が遠のく最後にふと、永見君の柔らかい笑顔を思い出した。


 朔。


 その名前の通り、優しい月の光みたいな、笑顔だった。



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