18


 横井由樹。そういえばこいつ、そんな可愛らしい名前だったなとふと思い出す。

 丁寧にお礼を言いかけていた言葉を飲み込んだ。粗雑に「ありがとう」とだけ返して、イチゴミルクを受け取ろうと手を伸ばす。けれど。


「あっ!」


 ぎりぎりのところでピンクのパッケージは横井の頭上、私の伸長では手を伸ばしても届かない所へ持ち上げられてしまった。思わず剣のある声を出す。


「……なにするの」

「まだ買うんだろ。また落とすぞ」


 ......持っていてくれるとでも言うんだろうか。横井はそれ以上何も言わずにお金を入れたばかりの自販機を顎でしゃくった。私はしぶしぶ、抹茶オレのボタンを押す。

 がこん。緑のパッケージが、赤い大きな箱の奥に現れる。これで頼まれた分は全部買えた、あとは自分の分だけだ。

 抹茶オレを取り出して、お釣りをもう一度自販機の中に投入する。

 そんな私の隣。自販機の隣のベンチにどっしりと腰かけた横井は、持っていたコンビニの袋からコーラを取り出して自分の膝の上に置くと、空になった袋にイチゴミルクを放り込んだ。思わずその行為を凝視する。そんな私に、横井は何か文句でもあるのかとでも言いたげに睨みつけながら、コンビニの袋を揺らして見せた。


「それ、よこせ」

「それって」

「今持ってるパック」


 両手で袋の口を開いてこちらを見る。私は目を瞬かせながら、わざわざあけてくれたコンビニの袋に残りのジュースのパックを突っ込んだ。


「......袋、くれるの?」

「コンビニのビニール嫌いなんだよ。俺が買ったのコーラだけなのにわざわざ入れるし。厄介払い」

「ありがと」


 今度は、少し丁寧にお礼をいう。横井はばつが悪そうにそっぽを向いた。


「厄介払いだって言ってんだろ。それより、そっちは?ぱしられてんの?」

「今日はね。でも昨日は大輔が買いに行ってくれたし、一昨日は京子だったもの。きっと明日は友里が買いに来るよ」


 ジュースを買いに行くのは持ち回りみたいなもので、私も何度か買いに行ってもらっている。だからべつに、みんなの分のジュースを買いに行くのは不快ではなかった。


「抹茶オレが立花の頼んだやつ?」


 横井がぼそぼそと会話を続ける。私もカフェオレのボタンを押して、端的に答える。


「違う。大輔はイチゴミルク」


 その回答に、一瞬目を見開いた横井は勢いよく噴出した。


「あの野球部のでかい坊主頭がこんなかわいいもん飲むのかよ」


 大きな肩幅が、小刻みに揺れていた。普通に笑うと少しだけ幼いんだな、と思う。

 人を傷つけるような笑い方をしているときはただただ魔王のようにしか見えなかった彼は、今は年相応の少年だった。


「……横井は、普通にしてたら普通なのにね」

「なにそれ」


 押しつけられたコンビニの袋にカフェオレを放り込む。確かな重みが右腕にかかる。


「……抹茶オレは永見に頼まれた分?」

「そう」

「そっか」


 柔らかい風が、横井の茶髪を書き上げた。赤い石のピアスが耳にはまっていることに気が付いて、やっぱこいつ不良だよなぁと眉をひそめる。すると、そんな私の視線に気が付いたのか、横井がなんだよと凄んだ。

 さっさと教室に戻りたいんだけどな。ため息をつきながら、横井の耳を指さす。


「ピアス。校則違反」


 横井の指先が赤いピアスに触れた。


「ああ……」

「もうちょっとどうにかなんないの」

「なんねぇな。俺はこんなもんだよ」


 低くて静かな囁き声だった。

 ――――こんなもんって、なに。

 少しだけその言葉に心がざらつく。ゆるゆるとあげたままだった指先を下ろすのとほぼ同時のタイミングで、横井がつぶやいた。


「俺、もともとピアスは空けてなかったんだよ。髪もこんな明るくなかったし」

「嘘」

「なんで。生まれた時から不良だったわけじゃねぇよ俺だって」


 確かに生まれた瞬間から茶髪でピアスなんて野郎がいるわけもない。



「……彼女がこういうの好きで、気づいたら流されてただけ」



 横井の言葉に小さく首をかしげる。彼女って、永見君が殴った女生徒のことだろうか。でもそこをあえて深く掘り下げる必要も感じなくて、私は横井から目をそらしたまま話を繋げた。


「横井って流されやすい?」

「かも。浅見は全然流されねぇのな」

「まあね」


 すると、次の瞬間だった。横井が巨大な爆弾を私に向かって投げつけた。


「でもまあ、俺のこと不良って浅海にだけは言われたくないけど」

「なんでよ」

「真夜中の街、徘徊してるだろお前」




 ――――真夜中の街、徘徊してるだろ。

 心臓がドクンとひとつ跳ねた。




「何度か見かけた。危ないなって思ってた」

「……ひとりじゃないよ。お兄ちゃんも一緒」

「そうなの?一人で川原、歩ているように見えてた」

「陰に隠れてただけじゃない?」


 袋の持ち手を持つ手に力がこもる。そんな私を見て、横井はけらけら笑った。


「なんにせよ、俺もお前に何も言えないし、お前も俺に何か言える立場じゃないよ」


 つまりうるせぇよ黙ってろってことだな。よーくわかった。

 もういい、話をする気はない。


「話、それだけならもう帰る」


 結局最初のそっけない声に戻って、くるりと踵を返す。そんな私の背中を、低い声が追いかけた。


「……それだけじゃない。最後の質問」


 私はぴたりと足を止めた。黙って振り向く。横井は思ったよりも真剣な目でこちらを見ていて、思わず息を止めた。けれど、質問された内容はといえば馬鹿らしいにもほどがある内容だった。



「浅見は永見といて、何にも思わないの」



 何かって、なに。

 質問の意図が組めなかった。意図が汲めないというよりも、怒りが先にきた。

 その質問は永見くんが花咲病だからか。暴力事件を起こしているからか。それを全部わかった上で一緒にいると決めた私に、あなたがそれを聞くのか。

 怒りのままに横井を睨み付ける。


「何を思えばいいの。気持ち悪いとか、病気が怖いだとか思えばいいの」

「そういうのじゃないよ」

「じゃあなに」


 けれど、横井から飛び出したのはもっと理解しがたい質問だった。



「永見のこと、恋愛対象としてみてるのかって聞いてんの」



 ――――永見のこと。

 ――――恋愛対象として。

 頭が一瞬真っ白になった。それは、それはつまり。


「……私が永見君を好きで、永見君と同じ班になったんだって言いたいの」

「少なくとも恋愛感情に発展するだけの好意は持ち合わせてんじゃないかと踏んでる」

「出会ってまだ一か月しかたってない。仮にそうだとしても、それ、横井に一番関係ないことじゃない?」


 けれど、横井は静かに口元を上げた。笑う。さっきまでの幼い笑顔とは違う、下卑た笑顔だ。


「お前、永見だけはやめとけよ」

「そういうのじゃないってば!」

「いいから聞けよ。お前、永見と友達でいる分にはいいかもしんないけど、恋愛をするには相手が悪い。これは忠告だ」

「なんでそんなこというの」

「俺は永見のことは嫌いだけど、浅海は別に嫌いじゃないから」



 浅海は別に、嫌いじゃない―――……。



 答えにもなっていない答えだけが頭の中で何度も反響した。その言葉を振り切るみたいに頭を大きく振って、でも、と私は続ける。


「でも、私と永見君は友達だ。京子と大輔みたいに、友里とミケみたいに……」

「男女間の友情なんてんなもんおとぎ話だよ。立花と貝坂の間には本当に何もないのか。三池は恋愛をしないか?高瀬は?」

「うるっさいな!私は永見君を好きにならない!これでいいんでしょ!」

「ああそれでいい大正解だ!」

「馬鹿!!!」


 コンビニ袋を振りかぶって、思いっきり横井のみぞおちをえぐるようにぶつけた。うめき声をあげた横井のわきをすり抜けて階段を駆け上がる。

 心臓がやけに跳ねていた。


 走る、走る、走る。


 大輔と京子の間には何もない?ミケはなっちゃんが好きだって、じゃあ私は?


 いつだったっけ、いつかもこんな話をした。好きだとか嫌いだとか恋だとか、そんな話を。

 あれは誰だった?私のとなりにたっていた、チェックのスカート。


『好きだけど、言わない』



 あの言葉を言ったのは誰だった?


 混沌とする頭を落ち着かせるため、何度も何度も頭を振って、大きく息を吸う。

 そして、ようやくついた二年四組の前のドアに手をかけた。もう一度だけ、深呼吸。


 好きも、嫌いも、いらない。私には必要ない。



 ぐっと力を込めて、引き戸をひく。


 教室の中に滑り込んだ。すると、怒ったような顔でこちらを振り向いた、永見君と目が合った。

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