永見くんとのはじまりについて

 真夜中の河原はどこか浮世離れしている。黒く塗りつぶされた道をぽつぽつと照らす街灯は、どこか違う世界への道しるべのようだ。

 数年前まで、この道を街灯に沿って歩けばいつか知らない世界に行けるのではないかと馬鹿な妄想をしていた。結局、行きつく先にあるのはゴミの廃棄場だと知ったのはいつだったか。今はもう覚えていない。


「小春。上、見てみなよ」


 隣を歩く兄がふわりと笑った。その声に導かれるままにふと空を見上げる。夜の闇に覆いかぶさるようにして咲き誇る、桜が強く視界を突いた。むせかえるような桃色。なぜだかひどく吐き気がする。


「……私、春は嫌い」


 思わずそんなことをつぶやいた。兄はやっぱり穏やかに笑ったまま首をかしげて見せた。


「どうして?綺麗だとは思わない?」

「思わない。寒いし、最悪。夜も嫌い。やっぱりこんな時間に外出歩くもんじゃないよ」

「そうかな。俺は真夜中の散歩、好きだけど」



 それは真夜中にしかあなたの居場所がないからじゃないのか。

 そんな言葉が浮かんだけれど、困ったように微笑む兄の顔が頭をよぎったから、開いた口は黙って閉じた。


「春はお前の季節だよ。小春の名前の入った季節」

「なら、お兄ちゃんだってそうじゃん。貴晴、タカハル。ちゃんと『はる』がある」

「じゃあ俺の季節で、小春の季節で……。なんにせよ俺にとっては特別な季節だ。きっと、お前にとっても」


 でも、私は春は嫌い。もう一度言おうとして、すとんと別の言葉が口をついた。





「……でも、私は春が怖い」





 兄がまた、穏やかに微笑んだままこちらを見つめる。


「春に、なにがあったんだっけ」


 なにかあったの、じゃなく、なにがあったんだっけ。その問いには答えを返さず、私は無駄に大きく足を踏み出した。地面をけ飛ばすみたいにして歩く、歩く、歩く。この先にはごみの廃棄場しかないと知っていても、私は一直線に歩いていく。

 途中、首の後ろがうすら寒くなってきて、結んでいた髪をほどいた。ぶんぶんと手に持った髪留めを振り回しながら、ちらりと斜め後ろを目だけで確認する。


「春はいいものだよ」

「しつこいな。じゃあ、いいところを教えて」

「えー……」


 小走りで、兄が私の隣に並ぶ。


「過ごしやすい気温」

「秋だって涼しくて過ごしやすいよ」

「バーゲンセール」

「春夏秋冬いつでもやってる」

「桜の花が綺麗」

「私は葉桜が好き」


 ほぼ口喧嘩だ。俺の意見、聞く気あるの?なんて、兄がすねたようにつぶやく。それすら無視して、一直線に歩いていた道を左に折れる。

 土手の上の橋。そこを渡ろうとまた大きめに足を踏み出したところで、「もういっこ思いついた!」なんて楽しそうな声が聞こえた。


「なに?」


 たちどまる。視線の先にいる男は楽しそうに微笑んで、両手を大きく広げて見せた。




「春は、出逢いの季節だよ」




 ざあっと、大きく風が吹いた。その瞬間、手元でもてあそんでいた髪ゴムが、風にあおられて橋の向こうへと落下していく。


「あ!」


 叫んで、ゴムに手を伸ばした。しかし一瞬が間に合わず、ゴムは手からすり抜けて橋の下へと落下していく。それを見送って、橋の下を覗き込んで、そこでようやく私はあることに気が付いた。


「……お兄ちゃん」

「ん?どした?」




「橋の下、誰かが川に飛び込もうとしてる」





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