橋の下の河原。人影が川にふらふらと近寄っていくのが見えた。暗くてよく見えないが、しゃがんで水の中を覗き込んでいるようだ。


「……飛び込む気かな」

「さすがにそれは……」

「でも、あの川。浅そうに見えて実は二歩目あたりからがくんと深くなることなんて、この地域の人間なら誰だって知ってるだろ?」

「確かに。しかも昨日の雨で増水してるし……」


 人影はまだ川のそばにたたずんだまま動かない。徐々に不安が胸の奥からせりあがってくる。その不安に、兄が静かに追い打ちをかけた。



「この状況。落ちたら一発で溺死できるね、間違いない」



 黙る。


「……ここで放っておいたらどうなると思う?」

「明日の朝、川で遺体が見つかったってニュースが流れる確率50%」

「それは寝覚めが悪いなぁ」

「……声かければ?」

「でも真夜中に川原にいるのって常識的に考えて不審者だよね。殺人鬼とか、ちょっと危ない人だったらどうする?」

「真夜中に散歩してる兄妹が言えた話でもないと思うけど、もし殺人鬼だったら全力疾走で逃げればいいと思う」

「……言ったね」

「……言ったよ」


 大きくため息をついた。


「ちゃんとついてきてよね」


 あきれ顔の私に、満面の笑みの兄。渡りかけていた橋を、仕方なく逆戻りする。土手の上、少し歩けば川沿いの小道に降りる石段がある。

 いっち、にい、いっち、にい。スニーカーの靴ひもがぴしぴしと足の甲ではねた。石段は夜露に濡れて少し滑りやすい。思わず兄の腕をつかもうとして、少し前を行く背中に手を伸ばす。けれどその瞬間、なんとなく胸の奥に嫌な予感が閃いて、出した腕を引っ込めてしまった。

 

「……どうしたの」

「……なんでもない」


 いっち、にい、いっち、にい、さん。

 すとんと小道の上に着地した私は、じりじりと人影に近寄った。暗闇に慣れた目が、人影の詳細を把握し始める。

 四方八方に伸びた黒髪。赤色のパーカー。黒色のジャージ。ほっそりとはしているものの、大きな肩幅から男性であることはすぐに察しがついた。


「あの」


 小さく声を出す。川のそばにしゃがんだままの男性は気が付かない。


「あの!」


 それでもまだ、気が付かない。私はもう一度、声を大きめに張り上げた。


「あのっ!!」


 びくりと男性の肩が揺れる。そしてこっちを勢いよく振り向いた、拍子に。

ずるりと足を滑らせた。


「あ」

「あ!」


 川のほうへと体が傾いだ。驚いたような顔の男性と視線が絡まるのと、兄と私が片手を伸ばして駆け寄るのとがほぼ同時。しかし間一髪で男性の腕をつかんだのは、私の手のほうが一拍早かった。

 力任せに赤色のパーカーを引っ張りよせる。大きいと感じた身長の割には、彼の体はずっと軽くて、二人して川沿いの道に倒れこんだ。


「小春っ!平気か!」


 兄がしゃがみこんで尋ねる。その言葉にかぶせるように、倒れていた男性も体を起こして口を開いた。


「すみません、大丈夫ですか」


 私は軽く縦に首を振る。


「驚かせて、ごめんなさい。そこの川、浅く見えるけど実は結構深いの。暗くてわからなかったかもしれないけど、昨日の雨で増水もしてる。落ちたら危ないと思って……」

「あ……、そうなんですね」


 男性が眉をしかめてどす黒い川をもう一度見つめた。しかし結局よく見えなかったらしく、軽く首を振ってこちらをもう一度見た。


「……こんな夜中に、女の子が歩いていて大丈夫ですか?もう午前二時を回ってますけど」


 兄と顔を見合わせる。確かに夜中で歩くのは褒められた話ではないが、一応成人済みの兄と一緒だ。隣にいる兄がにこりと微笑んで、男性にこう返事する。


「ひとりで歩かせてるわけじゃないし、あと少し歩いたら帰るつもりだったし。大丈夫ですよ」

「うん。大丈夫」


 続けて私も頷いて見せれば、男性は首をかしげながらうなずいた。そんな男性に、私もふと好奇心がわいてこんなことを尋ねた。


「あなたは、こんな夜中に何をしていたんですか?」


 男性の視線がふと下に落ちる。


「……手、洗おうと思って。まだ洗えてないんだけど」

「手?」

「うん。土で汚れた手で、触るのもかわいそうで」


 なにに。

そう聞こうとした瞬間、そこまでぽつぽつと語っていた男性が、突然、あっと思い出したように後ろを振り返った。


「途中だった」


 赤色のパーカーが、ふらりと川に背を向けて土手のほうへと歩いていく。取り残された兄と私は思わず顔を見合わせた。

どうする?

表情だけで兄がそんなことを尋ねる。

帰っていいのか、ついてこいっていっているのか判断がつかないね。

私も表情だけでそんなことを答える。

結局男性の後ろについてどちらからともなく歩きだした。なんでも周りに合わせておこう、日本人の性である。


そうして空気を読んで歩いてきた、純日本人の私たちは、土手のふもとまで来てふと息をのむ。





 彼の足元には、新聞紙の上に横たわる猫の死骸があった。

 





 



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