私が息をのんだことに気が付いたのか、彼がもう一度こちらを見る。まず私の視線の先にある猫を見下ろして、そして自分の足元にある浅い穴に。次にその横に転がる大きな雨傘に目を向けた。


「……死んでいたんだ」

「……あなたの猫?」


 彼が、ゆるりと首を横に振る。そして続けて一言。



「でも友達だったのかなぁ……」



 小さな、小さな声だった。


「汚れた手で触りたくないくらいには、好きだったんだと思う」


 その言葉に、ぐっと胸のあたりに何かが強く押し当てられたような気がした。反射的に男から後ずさる。しかしそんな私とは反対に、兄は男の近くに歩み寄るとすとんと穴の横にしゃがみこんで見せた。


「おい、この穴じゃだめだぞ。浅すぎて、また雨が降ったら死骸が出てきちまう」

「……あ、そっか。ねえ、この穴、もう少し深く掘らなきゃだめだよ」

「そうなの?」

「そうなの!」

「わかった」


 私たちの忠告に、彼はのろのろと身をかがめると近くに投げ出されていた雨傘を使って穴を広げ始めた。あっけにとられていた私たちだったが、いやいやそんな場合じゃないと思わず彼に掴みかかる。


「まさか、お前。今まで手と雨傘でこの穴掘ってたのか!?」

「そんなの終わるわけないじゃん!スコップとかないの?」

「ない」


 黙々と雨傘の先を地面にこすりつける彼。私は呆れて、思わず立ち上がった。


「おい、小春。どこに行くんだ」

「ちょっと待ってて!」


 土手を駆け上って、近くをきょろきょろと見渡す。すると少し向こうに手ごろな太さの木の枝が投げ出されているのが見えたから、急いで拾って駆け戻った。

 兄を押し退けて彼の隣にしゃがむ。そして雨傘の先をがつがつと地面にぶつけて掘り進めている彼と一緒に、木の棒を使って地面を掘り始めた。


「え……」


 彼が、少し目を大きく見開いて私を見つめた。私はそんな彼と、その彼の後ろで立ったままこちらを見下ろしている兄を交互に睨みつけた。


「え?手伝うの?こはるってそんなにお人よしだっけ?」

「うるさい黙って」

「あ、はい……」

「あなたに言ったんじゃないよ」


 大きく目を開いたままの彼が、きょとんと首を傾ける。兄はなんだかおもしろそうなものを見つけたように、にやにやと笑った。


「へえ。事なかれ主義の小春が。行き会っただけの怪しい男を助ける。へえ」

「見てないで手伝ってよ」

「あ、はい」

「だからあなたに言ったんじゃないって……」

「俺は見てるだけでいいよ。そこ、狭くて三人もしゃがめないし、二人で頑張って。こはるが疲れたら交代してあげる」


 真夜中の河原で穴を掘る初対面の男性と私。それを見下ろして監督する兄。

 不思議な構図だとは思ったが、引き下がるタイミングもつかめないまま、私は黙々と地面を掘り続けた。


「なんだか、幼稚園の時にこんなことをした気がする」

「……砂場とかで?」

「そう。地球の裏側まで行くんだ―とか言って」


 へえ。返ってきたのは興味のなさそうなぼんやりした返事。そこから何か話題が広がるわけもなく、他の話題を見つけることもできず、私たちはただただ作業に没頭した。

 ひたすらに穴を削る。ある程度削れたら、彼が大きな両手ですくいあげる。雨で柔らかくなった地面は、思いのほか軽くすり減っていく。


「あんたは、土にはできるだけ触らないで。手を汚さずに、最後に猫を穴の中に入れてあげて」

「わかった」


 汚れた手で猫に触りたくない。そこにこだわっていた彼は、自分の手を川で洗うのはあきらめて、手の汚れていない私に最後の作業を任せることにしたようだった。私も特に異論はなく彼に従う。

 時々兄がもっと深く掘れとか、もっと勢いよくいけとか無駄な口を出してくる。大体そんなときはにらみつけるとふらりとまた後ろへ引き下がるが、兄が黙ると無言の空気が苦しい。結論、うっとうしくないくらいに何かを話し続けていてほしいなんて考えて、どんなわがままだと苦笑した。



「もう、いいかな」

「いいと思う」



 そうして、ようやく満足いく程度の深い穴を掘ることができたのは、遠くの空がほのかに白くなり始めたころだった。私も兄も男性も、満足気に自分たちが作った穴を見下ろす。

 男性がふっと足元の猫に目をやる。その視線に操られるみたいにして、私は静かに、両手を猫の体の下に差し込んだ。

思っていたよりもずっと重くて、ずっと硬くて、ずっと冷たい体だった。柔らかな毛並みの先まで、石になってしまったような。

「死」というわけのわからない強大なものが、ずしんと私の両手の上にのしかかった。



「……死ぬって、すごいことだね」




 透き通った水に、黒い絵の具を一滴落とした。そんな光景によく似た沈黙の破り方をした。「どういうこと?」とでも言いたげにこちらを見つめる彼に向けて、とつとつと言葉をつなげる。


「あんなに暖かくて柔らかい体が、こんなに硬くて、無機質になるんだね。魂ってすごく大きな、形のない電池みたい」


 私達はみんな、電池式のロボットなんじゃないかとふと思う。神様が作ったボディに、神様の作った電池がはめられていて、電池が切れたらそれをぽこんととりはずす。神様は電池とボディは別々の場所へ持って帰ってしまいこむ。

 そんなことを話すと、絶えることなく動かしていた手をふととめた彼が、こちらをまっすぐに見つめて、じゃあ、と口を開いた。




「......死体ののこらない生き物は、神様から愛されていなかったんだろうか」




 今度は私が彼に「どういうこと」と尋ねる番だった。けれど彼はもう何も答える気はないらしく、さっさとしろとでもいいたげに穴の底を指さした。しかたなく、猫の体を穴の底に横たえる。

 猫の体を完全に地面の底の底に埋めてしまうと、男性は一言、「ありがとう」とだけ言った。私に言ったのか、兄に言ったのか、はたまた地中の猫に言ったのか。わからないから、結局返事はしなかった。


 午前四時半。空はうっすらと白く、穏やかに凪いでいる。

隣にたつ男は明るみ始めた空をにらみつけて、さっきまで地面を掘り続けていた傘を広げた。それを頭上に掲げて、今度はこちらにふっと目を向ける。何か言いたげな顔をしたように見えたけれど、それもすぐに傘の向こうに隠れた。なにもいわない。なにもアクションは起こさない。ただの通りすがりの人間のように、赤いパーカーと青い雨傘は少しずつ私達から離れていく。

 私と兄は土手の向こうへと遠ざかっていく背中を見送って、思わず呟いた。


「……快晴の予感のする、雲一つない明け方の空の下を」

「おー。見事に雨傘さして歩いてったな」


 へんなやつ。

そういうと、隣の兄が楽しそうにけらけら笑った。


「俺たちも帰ろうか」

「そうだね」


私たちも猫の墓に背を向けて歩きだす。その途中、兄が突然、あ、と大きな声を上げてこちらを振り向いた。


「なに」

「いや、俺の言ったこと当たってたなって」

「だから、なにが?」

「俺、数時間前にいっただろ」





春は出逢いの季節だって。




「どっちかっていうと未知の生命体への『遭遇』って感じで、全然『出逢い』って感じじゃなかったんだけど」

「えー。でも俺、こはるとあの男は再会しそうな気がするけど」

「そりゃ同じ地域にいるんならすれ違うことくらいはありそうだけど……」

「そういうのじゃなくて!」


 もういいよ。なんてすねたみたいに顔を背ける兄にため息をついた。本当にどうしようもないんだから、なんて。




この時の私は、兄の予言が大正解するだなんてこれっぽちも予想していなかったのだ。





  

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