19
永見君の怒ったような顔に、一瞬、一瞬だけ呼吸が止まった。けれど。
「ちょっ……、永見お前マジでやばい、それはやばいぞ」
「ごめん私もこれは予想外だった」
「小春!緊急招集!緊急招集!」
周囲にいる大輔たちのほうが騒がしくて、私は慌ててみんなのほうに走り寄る。
「なにがあったの?」
「なんにもないから!」
「いや、お前、それは十分なんかあるって」
尋ねる私に、永見君は頭を抱えて机に突っ伏した。私はきょとんとしつつも周囲を見渡して説明を求める。すると、京子はばつが悪そうに頭をかいた。
「あー……、あんたがジュース買いに行った直後ね。まっちゃんが廊下に永見を呼び出したのよ」
「え」
なんだか嫌な響きの言葉だった。
呼び出したって、なんの話?
それって、病気のこと?修学旅行のこと?もしかして永見君、修学旅行に行けないなんてこと……。一瞬で悪いほうに考えが傾いた私に、京子は静かに首を振って見せる。しかしそこからは、無言。
なんだなんだと眉を寄せると、永見君はおずおずと顔を上げ、決心したように強く目を閉じて言い切った。
「おれの成績で二年に上がれたのって奇跡なの!」
……成績?
え?呼び出されたのって成績の話?
「なんだびっくりした......」
しかし成績で担任に呼び出されると言うのもなかなかな出来事だと思う。
「永見君そんな成績悪いの?」
「自慢じゃないけど学年順位下から数えて五本の指に入る」
「うっわぁなんの自慢にもなんないね」
どこか自慢げな永見くんと、呆れる私。『下から数えて』という言葉さえなけえればかっこいいのに、と苦笑いをこぼす。けれどそんな永見君の横で、巨神兵がさらにふんぞり返った。
「ま、学年順位が下から数えて三本指の俺とミケには負けてるな」
「
――――そうでした。
私たちのなかで一番大人びた性格をしている大輔も、実は学年屈指の成績なんでした。もちろん下から数えて。
恥ずかしいことを自慢げに言うな!と、京子の振りかぶった腕が、見事に大輔のおなかにめりこむ。私はどうしていいかわからないながらも、話の軌道修正に入った。
「えー……、それで永見君の成績が何?」
永見くんの指先が、黒板のとなりにある学校行事カレンダーを指差す。
「これ以上下がると三年生進級が本気で危ういから中間頑張れって」
「......あ。再来週中間テストか」
私はその行事カレンダーを目をすがめながら確認して、ぽんっと手を打った。完全に忘れていたけどもうすぐ中間テストだ。
その五文字を永見くんは長年の敵でも見るような目で睨み付けたあと、その目をじろりと周囲に向けた。
「それで落ち込んでたのに、この人たち、おれのことバカバカって馬鹿にするから」
「馬鹿にしてねぇよ仲間だなって言ってたんだよ」
「それがすでに屈辱だよね」
「永見、誇っていいわよ。大輔の口から屈辱なんて難しい言葉は出てこない」
「誇る気が失せた」
どうしよう、と永見君が机に突っ伏す。それをくすくす笑いながら見ていると、笑われた永見君は腕の隙間から目だけをこちらに向けた。
「浅海さんは余裕?」
「どうして?」
「中間テストって聞いても反応が薄かったから」
私は小さく首をかしげた。反応も何も、テストなんてものは決まった時期に何度もやってくるものである。
「別に特別勉強をする必要もないし。だってあれ、ふつうに一か月分の習った内容を覚えてればいい話でしょう」
その瞬間、永見君と大輔が同時に同じ顔をした。宇宙人を発見した地球人はこんな顔をするんだろうな、とか、なだらかな山でハイキングしてたらツキノワグマが出てきました、とかそんな顔。そして、永見君が小さな小さな声で尋ねる。
「……浅海さんって頭いい?もしかして」
その問いに返答したのは、私ではなく京子と友里だった。
「学年順位、上から数えて五本指」
「上から数えてよ。上から」
三秒間の、間。その直後鳴り響く昼休み終了のチャイム。そしてチャイムと同時にもう一度机に突っ伏した永見君は一言こういった。
「この世は不条理だ……」
「そんな言葉が出てきてる分にはあんた大輔より頭いいから安心しなさいよ」
そっけなく返答する京子。そこで、私はようやく自分が買ってきたジュースを配り忘れていることに気がついた。
「あっ、ジュース配り忘れた」
「今ちょうだい、次の授業間休憩で飲むから」
「りょーかい。これ大輔、友里、京子……、永見君」
永見君にジュースを差し出す。するとそれを受け取った、少しすねたような顔の永見君と目が合った。
たった一ヶ月で、いろんなことを話せるようになった。いろんな表情が、滲むようになった。それがなんだか、ひどく嬉しかった。
「……放課後、教えてあげようか。勉強」
「いいの?」
「今日はバイト早めに呼ばれてるから、いつもより一時間早く……、五時半には帰るけど、いい?」
「それでいいよ。ありがと」
細められた目に、ビニール袋を持つ手にこもる力が少しだけ強くなる。
私は照れ隠しでもするみたいに、勢いよく自分の席に向けて足を踏み出した。
まあ、軽々しく『教える』なんて言ったことを私はすぐに後悔することになるんだけど。
「永見君、その訳違う。『彼女が割り箸を持ち歩くよう心がけてる』んだよ。『割り箸が彼女を持ち歩きたがってる』ってなに。アメリカでは割り箸に意思が宿るの?」
「そもそもこの問題がおかしい。アメリカの食事はフォークとナイフでしょ、なんでアメリカにいるマリーが割り箸使うの」
「マリーじゃなくてメアリーだよ」
「どっちでもいいよ……」
放課後の教室で騒ぐ。
永見君は理数系はそれなりに大丈夫らしいとすぐにわかった。しかし問題は文系科目。彼は究極に、英語ができなかった。
「……永見君、斎藤茂吉はなにしたひと?」
「日本史に出てくる?」
「文学史に出てくる」
「地図とか書いた?」
「文学史って言ったよね」
ついでに日本史と文学史も駄目だった。私はもう呆れることすらそっちのけで、ひたすらに永見君がためているワークを手伝っている。はたして授業が始まってこの一か月弱を彼はいったい何をして過ごしていたというのか。
ちなみに京子も頭はいいけれどいつも友里とミケと大輔を教えるので手一杯だと手伝いは断られた。大輔とミケは言わずもがな、友里は見事なまでの低空飛行だ。赤点はとらないけれど、平均点にも届かないのが我らがクラスの学級委員長様だ。
私は黙々と永見君の解いた文学史のワークを採点しながら、思わずぽつりと呟いた。
「……永見君の成績は意外だったなぁ」
永見君が首をかしげた。
「どうして?」
私はペンを持たない手の指先で、机の横にかけられた永見君のリュックサックを揺らす。
「永見君、いつも難しそうな本読んでるから」
始業式の日も、横井にいじめられていた日も―――……。思えば永見君のそばにはいつでも文庫本があって、薄いブルーのブックカバーがかけられたその本を大事そうに持っているのが印象的だった。
だから私は永見君は読書が好きで、頭もいいんだろうと勝手に思い込んでいたのだ。
でも永見君は軽く首を振ると、衝撃の事実を告げた。
「本。読んではいるけど、大半頭に内容入ってない」
……なんだって?
「嘘」
「ほんと」
永見君はシャーペンをくるくる指先で回しながら続ける。
「いつも読んでる本って2パターンあるんだ。ひとつは花咲病に関しての文庫本。こんな奇病だし、いろいろ出てるから……。患者や家族の手記だったり、都市伝説みたいなやつだったり」
「都市伝説?」
「そう。花咲病は宇宙人がばらまいたウイルスだとか、新型葉緑体こそが地球を侵略するインベーダーだとか。眉唾物だなぁって思うけど……。最近出た、花咲病特集みたいな本には『花咲病が完治した患者がいる』とか書いてて、思わず笑っちゃった」
花咲病について、自分について話すときの永見くんは、いつもより少しだけ早口だ。
決められた台詞を決められた調子で話す。そんな感じの話し方。きっと何年もそんな風に繰り返し話続けてきたんだろうと、思う。
けれど彼の口から滑り落ちた『完治』という言葉だけは、どこか生々しく尖った響きを持っていた。
――――永見くんは、きっと『治る』という言葉が嫌いなんだと思う。花咲病患者は、治らないから迫害される。治らないから、彼はただただ死に向かって歩いていくしかない。人よりもずっと速いスピードで。
永見くんは早口のまま続ける。
「そんな馬鹿なこと、誰も信じないけどね。完治する!とか書いてる時間があれば、『感染する病気じゃない』ってもっと大きく書けば迫害は減るんじゃないのって思うよ」
「……そうだね」
迫害。軽く口に出されたその言葉は、重く重く沈んでいく。けれど私より先にその重力を切り離して浮上した永見君は、気分を変えるように穏やかな口調で続けた。
「まあ、ネットでその本の書評見たら叩かれまくってたし、その程度の情報なんだと思う。おれも、こんな本読んだって役に立たないんじゃないかって思うけど、でも、家族が縋りつくみたいにして買ってくるから……。なんだか読まなきゃいけないような気がして、読んでる」
「そっか。……もう一つのパターンは?」
永見くんは2つめのぱたーんを、どう話そうか少し考えたみたいだった。少しだけの間。そのあと、永見君はぽつりぽつりとこう言った。
「……花咲病の幼馴染がいるんだ」
幼馴染。私は頷いて、その言葉を聞く。
「小学生の時に花咲病患者の会合みたいなのがあって、そこで知り合って……。その子が読書が好きなんだけど、今はもう外に出れないからよくこれを借りて来い、これを借りて来いってうるさくて」
「うん」
「図書館で借りて行ってあげて、その子が読み終わった後、返してきてって渡された本を最近読むようになった」
何を読んでいるんだろう。どんな気持ちなんだろう。そんな軽い気持ちで始めた、後追いの読書だったという。しかし。
「頭のレベルが違うから、読んではみるけど理解ができない」
「なるほど」
結論があまりに残念で、思わず苦笑する。でもそんな私を見て、永見くんはふわりと笑った。
意味の理解できない本を読むのは、無駄なことかもしれないけれど。
そう前置きして永見くんが呟く。
「でも、いつかわかればいいなって思いながら、読んでる」
わかればいいな。
それは本の内容だろうか。幼馴染みの心なんだろうか。たぶん、両方なんだろうなって思う。
永見君は穏やかで、いつだって凪いだ夏の風みたいに、一定の速度である程度の暖かさをもってそこにいるけれど、なんだかその穏やかさが彼をずっと遠いところに連れていってしまうような感覚に襲われる瞬間がある。
今もそうだった。永見くんがひどく遠く、消えてしまいそうに見えた。
……ねえ、その幼馴染って女の子?男の子?
穏やかなその笑顔に、ふとそんな質問が沸き上がったのは、昼休み、横井に面倒な絡みかたをされたからに違いなかった。
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