12
教室の外に出るなり、空気が急に吸いやすくなった。
永見君はどこへ行ったのか、もうわからない。ぐるぐる頭を回して、まず思い浮かんだのは永見君の抱えた小難しそうな本。もしかして、図書室だろうか。
あわてて一階の図書室まで走る。けれど、開けた室内にはだれもいない。ここじゃないなら、どこなんだろう。
息を整えながら考える。
すると、脳裏にさっきの昼休みに聞いたばかりの言葉がはっと浮かんだ。
『永見はよく第一理科準備室に……』
まっちゃんの言葉だ。
「特別棟……?」
第一理科室は特別棟にある。
ただの思いつきにも思えるそれは、私の中で限りない真実だった。
慌ててさっき下った階段を駆け上る。二階で右に折れて、渡り廊下を抜けて理科室へ。全学年HRのこの時間、第一理科準備室なんてどこのクラスも使っていない。
特別教室ばかりが並ぶ特別棟へ飛び込んで、目についた理科室の扉に手をかける。横にひく。あかない。よく見ればクラスのナンバープレートは「第二理科室」の表記になっている。
第一理科室ってどこだっけ、考えながらその階の廊下を走り抜けてもう一つ上の階へ。すると、そこでようやく目当ての部屋を見つけた。
『第一理科室』
大きく息を吸う。吐く。恐る恐る教室のドアに手をかけると、今度はあっけなくドアはあいて見せた。
中へ入る。薄暗い教室、電気はついていないけれど、誰かの吐息が聞こえる。
私は迷いのない足取りで黒板横のドア――準備室の入り口に手をかけて、思いきり前へ押した。そして教室を見渡して、安堵で息を吐き出した。
「……見つけた」
ふわふわの黒髪。紺色のカーディガン。
そこには、小さくなってうずくまる永見君がいた。
彼は顔を上げない。うずくまって丸くなったまま、ずっとうつむいたままでいる。そんな彼の前に立った。そっと、彼の柔らかい黒髪に手を伸ばす。
「……永見、くん」
撫でるように、彼の頭に私の手のひらを押し付ける。その瞬間、今まで微動だにしなかった彼が勢いよく体を起こし、思いがけない強さで私の手を振り払った。目を見開く。
「……浅海さん?」
けれど私よりもずっと、私の手を振り払った少年の方がずっと驚いた顔をした。私に驚いたのか、自分の行為に驚いたのかはわからない。
顔を上げた永見君と目が合う。私は唇をかんで、ふり払われた手を引っ込めた。
きょとんとしていた永見君の顔は、少しずつぐにゃりとゆがんでいった。
「永見君、あのね」
「......笑いに来たのか」
「違うよ。聞いて、お願い」
「浅海さんはおれがこんな体だって知らなかったよね。みんな知ってたのに、あんただけは知らなかった……。無知じゃなくなってよかったね」
「永見君!」
半分悲鳴みたいな声が出た。
「違うの、私は……!」
叫んだ瞬間、永見君は自分のカーディガンを引きちぎるように脱いで、私に勢いよく投げつけた。
「……永見君……?」
永見君のカーディガンを胸に抱いたまま、私は茫然と彼に尋ねる。永見君は服を脱ぐ手を止めない。
青いネクタイがさらりと床にこぼれる。続いて、迷うことなく襟首の第一ボタンへ白い指が伸びる。第二ボタン。第三ボタン。
――自傷行為みたいだ。
永見君の細い指がカッターに見える。ボタンがほどけてあいていくカッターシャツはできたばかりの傷口みたいだ。感情のない目で、永見君は自分が傷つくためだけに服を脱ごうとしている。
あの服の下には、永見君が周囲から嫌われる理由がある。
「やめて、永見くん!」
カッターシャツの最後のボタンが、開く。目をそらせばいいのに、それすらできずに私は永見君を凝視したまま、浅い呼吸を繰り返した。
『小春、俺はこんなところで死にたくない』
カッターシャツが、床に、落ちる。
「進行ステージⅡ度の花咲病が、これだよ」
息をのむ。
腹部から、肩口にかけて永見君の皮膚には緑色の絵の具で塗りつぶしたようなあざが走っていた。それはひどく醜く、恐ろしいものだった
がくがくと手足が震える。目がうろうろとあさっての方向を行き来する。
永見君はそんな私を見て、一瞬傷ついた顔をした。
――――違う。違うよ永見君。あなたが怖いんじゃない。私が怖いのは。私が、あなたの後ろに見ているのは。
血の付いたカッターシャツ、兄のうめき声、階段から落ちて行った細い体、場面場面が頭に行き交う。
永見くんが震えながら私を睨み付けた。
「あんただって怖いくせに、よく追いかけてこれたね」
呼吸が詰まる。
皮肉るように緑色の肌をさらしていた永見くんは、怯える私を嘲り笑っていたけれど、それも途中で不思議そうな顔に変わる。
「浅海さん......?」
考えていた。走りながらずっと、考えていた。
――私は永見くんを追いかけて何を言いたかったんだろう。なにがしたかったんだろう。わからなかったけれど、走り出た永見くんの背中を見た瞬間、彼を止めなければいけないと思った。永見くんを呼び止めないと、じゃないとお兄ちゃんみたいになってしまうって。
呼吸がどんどん浅くなる。意識が遠くなる。
白く霞んだ視界の端に、慌てたように部屋に飛び込んでくるまっちゃんと京子が見えた。兄の言葉が、頭の深い深いところで響く。
『なんとなく気が付いてるんだろ?永見くんが俺と同じなんじゃないかって』
私も、永見くんも、兄も。花咲病に世界を壊された、被害者だ。
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