25

 HRに行こうとは言われたけれど、どうしても我慢できなくて、永見君が呼ばれていった会議室の前でずっと待っていた。なっちゃんは別室で事情聴取されているらしい。

 さすがに授業を休ませることはしないはずだから、一時間目が始まるまでには彼は出てくるはずで、やっぱり永見君を待つよと言った私に京子と大輔もあきれ顔で付き添ってくれた。


「……あんたの永見へのその絶対的な信頼はどこから来るのかしらね」

「勘じゃねぇの。こいつ猪突猛進の野生動物みたいなやつだし」

「大輔、歯ぁ食いしばれ」


 二人の軽口に答えるように、わざとこぶしを握り締めて大輔をにらむと、大輔は軽く笑って私の頭を叩いた。その手があんまり優しかったから、ぐっと胸の奥に何かが詰まる。

 そして、胸の奥のつっかえを吐き出すみたいにして、昨日の夕暮れの永見君のことを口に出していた。


「……綺麗だなって言ってたの」


 そう、24時間も経過していない。昨日の、夕方の話だ。


「おれは花咲病だけど、花に対して嫌悪感はないって言ったのは、永見君だったんだよ」

「……でも、それがほんとうかどうかを証明する手立てはないもの。たった半日で気持ちが変わってしまうことだってあるわ」

「そうかもしれないけど」


 京子の言葉に、でも、とさらに言い募りかけて、うっと言葉に詰まる。昨日の病院での光景を思い出したからだ。


 私たちが昨日見たのは何だった?


 緑に変わっていく体、ぶわりと膨らんだ指先、呆然とした、少年の小さな囁き声。

 それを見てやけに真っ白に凍り付いていた、横顔。


『おれもいつかこんな風に死ぬんだ』


 花咲病の死を見たことが、永見君の中にある花に対しての恐怖心を煽ったとしたら?

 今朝登校して、正門を抜けるときに見えて花に思わず嫌悪感を感じて、暴力に及んだとしたら?


 永見君が花壇を壊したのではという確信だけが、妙に高まっていく。それを考えたくなくて、私は何度も頭を振った。


「……でも状況はかなり悪いぞ」


 そんな私の横で大輔が静かに続ける。


「永見、公衆の面前で認めちまったから。まだ俺はやってませんって言ってくれてたほうがよっぽどましだった」

「そりゃそうよね……。ただでさえ、去年の夏に暴力事件を起こしてるし。生活指導の先生たちの反応見てたら、教室の反応なんてもっとひどくなることはすぐにわかるもの」

「でも、でも……」


 少しずつ、うつむいていく。その瞬間だった。


「うおーい、大丈夫?」

「ミケ!」


 もうHRは終わったらしい、ミケが廊下の向こうからふらふら歩いてきた。


「永見どうなん」

「だめ。でてこない」


 力なく首を振ってそう返して、そこではじめて友里の不在に気が付いた。ミケが来るなら友里も来るだろうと、私はてっきりそう思い込んでいたのだ。その疑問が口をついて飛び出す。


「……あれ?友里は?」

「なんか今日休みらしいわ。どうしたんだろうな、皆勤賞狙ってるとか言ってたのに」

「へえ……」


 友里がここにいないことになんだか妙な違和感を感じて口ごもる。すると、手を頭の上で組んだミケが足をふらふら揺らしながらこんなことを言い出した。


「って、そんなことより永見じゃね?どうなってんの?事情はもうクラスでだいたい聞いたけど、うわさがうわさを呼んで八組では永見が超能力使って花壇を粉砕したことになってたぞ」


 ――京子と、大輔と、私と。思いがけず、珍しく三人の返答が綺麗なタイミングでそろった。


「ねぇよ」

「ないわ」

「ふざけんな」


 ミケが苦笑いして、「そうですよねー」と頭をかいた。ちょうどその時、ガチャンと背後で物音が鳴った。振り向く。

 会議室のドアが開いて、出てきたのは永見君とまっちゃんだった。


「永見君!」


 思わず駆け寄ろうとした私の頭を、長い腕でまっちゃんが抑えた。それ以上進めずに手足をバタバタと動かす。

 まっちゃんはあきれ顔で私を見下ろしながら、こう言った。


「……おまえら、HRは出たんだろうな」


 ……しばしの、無言。そののち、私たちは声をそろえて返答した。


「ミケは出ました」

「ミケが出てます」

「ミケが出てたからいいでしょ」

「俺出たんですよ偉いでしょ!」

「三池しか出てねえ!貝坂、立花、浅海はさぼってんじゃねぇか!」


 まっちゃんがへなへなと廊下にしゃがみこむ。


「あー、もう。俺の代理でクラスにHRやりに行ったの、生活指導の葉山なんだよ……」

「先生、葉山先生を呼び捨てにしてたらまたなんか言われるよ」

「いいの、今は聞かれてないから。ちっくしょ、三人もHRサボってたら、まーた『先生のクラスの教育指導はどうなってるんですか!』って騒がれるじゃねぇか」

「それは素直に悪いと思ってるから怒られてきて」

「素直に悪いと思ってるやつの発言じゃねぇな」


 ぎゃーぎゃー騒いでいると、廊下の向こうからしわがれた金切り声が響いた。


「松山先生!!あんたのクラス、三人もHRさぼりよって、これはどういうことですか!!」


 まっちゃんが顔をしかめる。噂をすればの葉山だった。


「あーあーお仕事の速いことで。じゃ、俺もう行くから。授業はサボるなよ。花壇の修理は明日以降になる。今日の放課後どのくらいの被害かを見て判断するから、もう近寄るな。永見はあとで親御さんに連絡入れるからそのつもりで、放課後また会議室。いいか」

「はい」


 葉山先生の金切り声が何度もまっちゃんを呼ぶ。あきれ顔のまっちゃんは、だるそうにポケットに手を突っ込んで、ふらふらと廊下の曲がり角の向こうに消えた。そして周囲に人が誰もいなくなって、ようやく私は永見君を振り向くことができた。


「永見君……!」


 半分縋りつくみたいにして彼に飛びつく。


 永見君、なんでこんなことになってるの。どうして。どんなつもりで。


 けれど聞こうとした言葉を口に出すより早く、永見君が私の腕をつかんで勢いよく前髪をかきあげた。さっきの横井がしたみたいに。

 そしていつになく低い、冷えた声で尋ねる。


「……この怪我どうしたの」


 思わず、目を瞬かせた。私の怪我?


「いや、それは今問題じゃないよ」


 確かに頬にも額にもべたべたガーゼを貼りつけていたら見苦しいだろうけれど、それを今このタイミングで指摘する理由がわからなかった。思わずその手をはねのけて、永見君にもう一度向き合う。


「私の怪我なんてどうでもいいよ、こんなの大げさなだけ。それより永見君、なんで花壇の……」

「どうでもいいことないだろ!」


 その怒鳴り声に、思わず身をすくめた。

 ――永見君が、怒鳴った。

 それはあの理科室の時以来、初めて聞く怒鳴り声だった。

 京子が慌てたように、私の肩を抱く。大輔は永見君の肩に手をのせて、反対の手で落ち着かせるように何度も背を叩いた。


「永見落ち着きなよ。たしかに小春の怪我も心配だけど、あんたの起こした事件だって十分大変なことになってるの、わかるでしょ?」


 けれど、そんな京子の言葉にももう永見君は耳を貸さなかった。


「おれのことはいいって」

「よくないよ、よくないから私たち、永見が出てくるのをこんなとこで待ってたんでしょ!」

「いいんだよ!おれはもう、こんな感じだから。いまさらひとつやふたつ起こした事件が増えたところで何にも変わらない、また永見かで終わりだ、放っておいてくれよ!」


 その言葉に、横井の顔をふと思い出した。


『俺はこんなもんだよ』


 そう言って笑った、日を浴びた彼の顔。その諦めたような言葉に、無性に腹が立ったこと。

 今も、無性に腹が立っていること。




「……すきだからっ!!」




 思いがけず、大きな声が出た。その言葉に永見君が目を見開く。


「永見君が好きだから、私も、大輔も、京子も、ミケもっ!」


 悲鳴みたいにして出した声に、ミケが「俺もかよ」とつぶやくのが見えた。でもミケだって永見君を心配しているから、こんなところまで来たんだろう。

 気にせず叫び続ける。


「好きだから心配してるんでしょう!俺はこんなもんだ、こんなふうに人を傷つける奴だって、私たちは永見君がそんな人じゃないって信じたからここにいるんでしょ!」

「……でも俺が本当に、やったんだ」


 永見君がぼそりぼそりと呟く。


「おれがやったから、それ以上の信頼をもらっても苦しいだけだ!放っておいてくれ!おれのことは、もういいから!」


 その言葉に、息をのんだ。けれど私の言葉を引き継いだのは、思いがけない人物だった。





「どっちにしろほっとけねーんだろ」





 私でも、京子でも、大輔でも、ミケですらなかった。

 廊下の曲がり角からだるそうに出てきた男が、その言葉を引き継いでいた。


「……横井」


 横井、だった。大輔は少しだけ眉を上げて、京子とミケは何でお前なんだという顔をして、永見君は――、永見君は、今までにないほど怖い顔で横井をにらみつけていた。

 けれど、横井は気にした様子もなくさらりという。


「通りがかったら大声で騒いでるのが聞こえたから。永見、だからお前嫌われんだよ」

「……なんだよ」

「浅海達はお前を無条件に信じるって言ってんの、わかんねぇのか。おまえがやってないっていうならこいつらはやってないって信じるよ。やってたなら、その時はたぶんお前に間違ったことをしてるって全力で教える気でいるんだよ。

 こいつらの中にお前を捨てていく選択肢がないから、HRさぼってこんな廊下で待ちぼうけ食らってたんだろ」


 珍しく、横井がまともなことを言っていた。しかし、横井は私たちが茫然として黙っているのをいいことに、つらつらと言葉を続けていく。


「修学旅行の班決めの時、お前が捨てた『永見』を、浅海が拾った」


 あの班決めの日、きっと彼を追いかけていかなければ、永見君は修学旅行へ行く選択はしなかっただろう。諦めて、諦めて、今もいじめられてひとりぼっちのままだったのかもしれない。

 それをいじめていた本人に言われるのも不思議ではあったけれど、確かに、その通りだった。


「そんで自分を拾ってくれた相手を前にして、お前はまた自分をないがしろにするようなことばっかり言ってる。だから嫌われるんだ。

 自分を大事にしないお前を、俺はこんなもんだって卑屈になってるお前を、誰が好きになるんだよ。それでも好きだって言ってくれる浅海に、お前、放っておけってそれはねえよ」


 最低だな、と吐き捨てるようにつぶやいて、横井は去っていった。

 少しの沈黙。その間を、廊下の向こうからやってきた初夏の風が吹きぬけていく。京子と大輔がそろそろ授業が始まると騒いで歩きだして、ミケもそれに続いて、私と永見もようやくのろのろと歩き出した。

 階段をのぼりながら、永見君がつぶやく。


「……ごめん」

「私、謝ってもらおうなんて……!」

「あのさ。今朝、横井といたよね」


 その言葉に、驚く。


「浅海さんが怪我してたの、見えてたんだ。曇りだから傘は差してなかったし、正門の陰になってたし、浅海さんはぼーっとしてたから、俺には気づいてなかったけど、俺、正門の内側にいた」


 マスクはしてたけど、風が吹いた瞬間に血がにじんで腫れあがった額が見えたんだと、永見君は言った。


「声、かけようとしたら横井が手を取って連れてった。そのガーゼ、横井に手当てしてもらったの?俺が知らないだけで、横井と結構仲良かったりする?その怪我は、何が起きたの?誰にされたの?転んだ傷じゃないよね?」

「そんなの」

「どうでもいいって」


 思うよね、と永見君がほほ笑んで、その言葉に息が詰まる。


「でも、浅海さんが花壇の事件をどうでもよくないって思うみたいに、俺も、浅海さんが怪我をしていたことはどうでもいいことじゃなかったんだよ」


 先に行く、と短く告げて、永見君が前にいた三人を追い越して早足で階段を駆け上がっていった。



 その背中を見て、鼻っ面が思わず痛くなった。

 目じりに熱いものがたまっていく。



「もう、ぜんぜんわかんないよ」



 そうつぶやいた瞬間、大輔がこちらを振り向いた。そして京子と、ミケの腕をつかんで、唐突にこう言った。



「小春。落ち込む前にひとつ、提案がある」



 やけに落ち着いた声だった。



「俺、さっきからずっと気になってることがあるんだ」

「気になってること……?」

「そ。今日は一日花壇に近寄るなってまっちゃん言ってたよな?どのくらいの被害になるのか、先生たちが調べるのは放課後。だからその前の昼休みに花壇に行くぞ」




 現場検証だ、と、大輔はにやりと笑った。







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