11

 会議室から出て歩く。すると、廊下の奥に正面玄関のほうから歩いてくる巨体が見えた。見覚えのある坊主頭に、思わず呼びかける。


「おーい、大輔」


 私の声に気づいた大輔は、ひらりと手を振ってこたえた。


「小春」

「なにしてたの」

「購買に、飲み物買いに」


 へえ、と大輔の手元を見下ろして、私は思わず噴き出した。


「イチゴミルク……」

「なに、不満でもあんの」

「ううん。違うの」


 くすくす笑いを飲み込んで、私は指先でピンクのパッケージをはじいて見せた。


「さっき、京子もこれ、飲んでたよ」


 大輔の顔が固まる。そして一瞬躊躇した後、私の手にイチゴミルクを押し付けた。


「……やる」

「だめ。自分で買ったんだから、自分で飲んでくださーい」


 大きな手のひらに250mlのパッケージをもう一度押し付け返す。大輔は不満げな顔をして、歩きながら上部にストローを突き刺した。

 喧嘩したところで仲のいい幼馴染だ、なんだかんだと思考は似ている。私は緩む口元を押さえながら、大輔のわき腹を突っついた。


「早く仲直りしなよ」

「あっちが謝ればな」


 ストローを口にくわえた大輔が、話題を無理やり変えようとでもするみたいに私に尋ねる。


「小春はなにしてたの」

「まっちゃんからの呼び出し―。三者面談誰が来るんだって」

「ああ……。お母さん、最近どうなの?」

「変わんないよ。夜が来るたび、貴晴貴晴貴晴貴晴って」


 お兄ちゃんだって困っちゃうよね。そう言って笑えば、いつもならそうだな、なんて笑顔が返ってくるはずだったのに、大輔は今日は真顔のままだった。真顔のまま、唐突にこんなことを言った。



「小春さ。それ、疲れないの?」



 意味が分からなかった。


「疲れないのって……なにが」

「見ないふり」

「なにそれ」


 大輔は階段を一段一段上がりながら続ける。


「知らないふり」


 一段。


「わからないふり」


 二段。


「忘れたふり」


 三段。

 少しだけ私より高い位置に立った大輔が、私を見下ろして、言う。


「京子は様子を見るべきだっていうけど、俺はこのままじゃだめだと思う」

「だめだって……」

「永見にとっても、小春にとっても、今の状況はよくない」


 私にも、永見くんにも?けれど首をかしげる私をおいて、低い声がそっとつぶやいた。



「俺は今でも、小春と永見は仲良くすればいいと思ってるから」



 大輔がイチゴミルクのストローをもう一度口に含んで、早く上がってこいと手招きをした。大輔の隣に並んで歩いてみるけれど、なにを話していいかわからなくて戸惑う。考えて、考えて、私がようやくひねり出したのは次の授業の内容についての会話だった。


「あ……、そういえば、五時間目。修学旅行の班決めだったよね」

「そうだな」

「大輔は野球部のメンバーと組むの?」

「たぶん。お前は京子だろ」

「まあね。男女混合ありで四人組でしょ。私、大輔と京子と三人で組みたかったけど、人数足りないもんね」


 残念、と笑えば、大輔は黙って私の頭をポンポンと叩いた。

 その時ふと、永見君のうつむく顔が頭をよぎった。けれど、思考を邪魔するみたいに何度も何度もチャイムが鳴る。


「はしろっか」

「うぃっす」


 私と大輔は小走りで、教室へと駆け込んだ。




 教室に入ると、チャイムなんてとっくに鳴っているのにHRだと分かっているからか、周囲はまだどこか騒がしかった。

 私と大輔も黙って自分の席に戻る。


 しばらくすると、私よりも先に教室に戻ってきていたまっちゃんが教卓に立ってぱんぱんと手を鳴らした。


「うぃーっす。始めんぞー。はい、学級委員でてこーい」


 その声に、学級委員が二人進み出た。ひとりがプリントを見ながら、勢いよく言う。


「修学旅行の行き先は京都です」


 わっと歓声が起きる。


「今から決めるのは宿泊の時の男女別の班と、自由行動の時の班です。自由行動の班に関しては、四名から五名、男女混合でも構いません。先に自由行動の班から決めるので、メンバーが決まった人からプリントを取りに来て班員を書いてください。

 班員のプリントは来週までに提出です」


 学級委員のアナウンスが終われば、すぐに教室は班員を募る声であふれた。

 男女混合でもいいとはいうものの、ほとんどの班は男子と女子で分かれ始めている。

 私も早く声をかけないと。慌てて京子を目だけで探すと、案の定後ろから軽い衝撃があった。


「小春!プリントとってきた」

「ありがとー」

「あと女子二人誰か捕まえなきゃ......。なっちゃんたちとかどうかな」

「いいね。声かけよっか」

「おーいなっちゃーん!」


 京子がなっちゃんたちのほうへ勢いよく走っていく。私はそれを見送って、ふと教室の後ろのほうに目をやった。

 永見君は、座っている。ただ座ったまま、本を読んでいる。

 永見君はどうするんだろう。このまま、ずっとひとりなんだろうか。一度抱えた不安は、留まるところを知らずどんどん膨れ上がった。

 永見くんだって修学旅行は行くだろう。声をかけようか、でも私が声をかけてもただ困らせるだけじゃないのかな。


 ぐるぐる悩んでいた、その矢先の出来事だ。永見君のひとつ前の席に座っていた大輔が、ぐるりとうしろを振り返った。そして低い声で、ぼそりとこう言った。



「……永見、お前どうすんの」



 教室のざわめきが、少しだけ、ひいた。永見くんが小さく口を動かす。


「どうするって……」

「行くだろ、修学旅行。最後なんだし。班決め参加しねぇとおいてかれるぞ」

「おれは、でも」


 一つ一つ自分に向けられる言葉に、永見君が大きく目を見開く。大輔はそんな永見くんから目をそらさず、まっすぐに尋ねた。


「修学旅行、いかないの」


 静かな問い。固まってしまった永見君の代わりに、返事をしたのはまっちゃんだった。


「永見は参加するぞ。積立金だってきちんとあるし、参加で確認取れてる。ちゃんと永見頭に入れて班組めよ」


 それを機に、教室にざわざわとした声がまた戻ってきた。けれど、さっきのざわめきとは比較もできない、体にまとわりつくような嫌な声だ。


 ざわざわ。ざわざわざわ。


「永見、修学旅行行くって……」

「どこの班に入るの?」

「どこに入ったって迷惑なだけだよな」

「てっきり休むと思ってたわ」


 その声に、ぎゅっと目を閉じる。ひどく嫌悪感がした。両腕で自分の体を抱きしめながら見つめた、永見君の手はいつもより、ずっと白くて。


 うるさいよ。全部、全部全部全部聞こえてる。

 永見君はここにいる、透明人間なんかじゃない、人形でもない、あんたたちの言葉にいつだって傷ついている。だからそんな小さなざわめきで、永見君を刺さないでくれ。


 でもそれを口にしようとしても出てくるのは吐息ばかりだ。情けないにもほどがある。けれど、大輔はそんな私なんかとは全然違っていた。

 クラスを一瞥した大輔は、ざわめきよりもさらに大きく声を張り上げた。




「……じゃあ俺んとこ入るか」




 ざわめいた空気が、また静まる。

 けれどその言葉に一番驚いた顔をしたのは、永見くんだった。


「俺んとこって……」

「俺と、三池と、山崎と、浜田。五人まで行けるんだからお前が入ってちょうど五人。ぎりぎりセーフ」

「……セーフじゃねぇよアウトだろっ!!」


 大輔の頭を、一瞬動きが止まっていた三池君が思い切りよくはたいた。


「お前、なんでそんな勝手に決めてんの!?永見は……っ」

「永見の何がダメなんだよ」

「ちょっと大輔!」


 今度は京子が大輔の肩を勢いよく引く。


「あんたどうしたの。冷静じゃない。頭冷やしなさい」

「頭なんかずっと冷えてる」


 がたんと大きく音が鳴って、椅子が引かれた。そして立ち上がった大輔は、抑えた声でもう一度繰り返した。




「永見のなにがいけない」




 ひどい沈黙だった。教室の底にこびりつくような沈黙。だれも声を発さないし、だれも何も言わない。

 声のない空間。そこに、誰かが椅子を引く音が響いた。その音の先に目を向ける。

 誰にも破れないように思えた沈黙を破り捨てたのは、大輔よりもずっとずっと低い声だった。



「おまえら、そろいもそろって馬鹿ばっかかよ」



 横井だった。

 横井はいつものようなバカみたいな笑い声は上げず、淡々と言葉を紡いだ。




「花咲病だから、以外に何がある」




 花咲病――――。


 その言葉を聞いた瞬間、一瞬、呼吸が止まった。刹那心臓が悲鳴を上げる。どくりどくりと嫌な音がする。


 花咲病、はなさきびょうって、あの……。


 どくんどくんどくんどくん。

 鼓動の音はただただ増していく。けれどそんな私をよそに、横井はさらに続けた。



「しかもただの花咲病じゃねぇぞ。いわゆる花咲事件の関係者だ。花咲病患者による暴力事件。去年の夏にこいつに殴られた女子はどうなった?思い出せよ」



 どくどくどくどく。

 鼓動の音が自分の心臓の限界を超えてスピードを上げる。

 永見くんが、去年の夏に、殴った?女子を?

 嫌な音をたてている心臓が、誰かに握りつぶされているみたいにさらに軋み始める。


 殴った。

 あの細い手で。汚れた手で死んだ猫に触りたくないとつぶやいた、あの大きな手で、永見君が人を殴った。



『花咲病患者の暴力事件』



 その言葉ががつんと頭を殴る。


 キャパオーバー、キャパオーバー、考えるな考えるな考えるな。


 頭の中で警戒の赤いランプがぐるぐるとまわる。

 永見君の白い顔が、兄の顔にぐるりと変わった。猫の死骸を抱く手が、細い体を抱く手に変わる。

 兄の顔が頭をよぎる。血まみれのカッターシャツ、泣きながら震えた体、窓からの光を受けて立っていた黒い影。人がなにかにぶつかる鈍い音。



 キャパオーバーキャパオーバーキャパオーバー。



「小春……?」




 呼吸が急に難しくなった。近くで誰かの声がする。

 なんとか大きく呼吸をしようとするのに、息をうまく吸い込めない。まるで、この教室から酸素が全部なくなってしまったみたいだ。暗くて重い深海に、私一人だけ沈んでしまったみたい。

 けれど、教室の隅で一人溺れる私をよそに永見君と大輔と横井、三人での話は進んでいく。


「立花は偽善が好きなだけだ!だれだって永見となんかまわりたくねぇよ。行ける場所にだって制限ができる。いつ殴られるかもわかんねぇ」

「……殴られるようなことをしなきゃ殴られねぇよ」

「……じゃあ殴られた女子は永見に何をしたんだよ」

「落ちつけ横井」

「なにしたってんだよ言えよ!!!」


 横井が大輔に掴みかかる。その手首を大輔が掴んで、低い声を出した。


「永見と行動することで制限される行動の範囲なんか知れてる。俺が永見を避ける理由には足りない」

「……お前のそういういい人ぶったところが、おれは……っ!」

「永見!!」


 横井との問答を遮って、大輔が大声で永見君を呼んだ。永見君がはじかれたように顔を上げる。

 大輔は、静かに永見くんに言った。


「......お前はどうしたい。人生最後の修学旅行、どうするのかお前が決めろ」


 ――――永見くんの、薄い唇がわなわなとふるえていた。切れ長の目が、こぼれそうなほどに見開かれている。

 何度も口を開いては閉じて、開いては閉じて。でも、私は確かに見たのだ。

 永見君が両手をぎゅっと握りしめるのを。勇気を振り絞るみたいに、何かを言おうとするのを。

 けれど、それを邪魔するかのように、空気が限界まで張りつめた教室に誰かのささやき声が落ちた。





「化け物が」




 ――――あ。

 永見くんが、握りしめた両手を開いた。なにかを言おうとしたみたいに口を開けたけれど、声はでなかったらしい。

 椅子から立ち上がった永見君は、ふらつきもせずにまっすぐな足取りで歩くと、黒板の前に立つ。

 そして、周囲が注目するなか、チョークを手にした彼は黒板にとつとつと大きくこう書いた。



『欠席』



 白いチョークが、教室の床に落ちて割れた。割れると同時に、永見君は勢いよく走りだす。


「永見っ!」


 先生の制止の声すらもう永見君には届かない。永見君は、走る。走ってどこかに行ってしまう。

 その後ろ姿が、兄が真夜中の道をまっすぐに歩いていく、あの姿に被った。




 ――――永見くんを一人にしちゃいけない。




「……小春!」




 私は思わず、永見君の背中を追いかけて走り出していた。

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