17


「なにって、お昼ご飯食べてたけど」

「いや、それはわかってるんだけども」


 どん、と友里が三池の背中を小突く。三池は咳払いをして続けた。


「いや、えーと、今日は天気がいいな」

「……空、曇ってるけど」


 京子が眉を寄せる。今度は友里の足が三池のすねを蹴っ飛ばした。


「えーと……、えっと……」

「ミケ?」

「きょ、今日はこのくらいにしておいてやる!」

「何がよ!」


 三池だから、ミケ。猫みたいなあだ名をつけられた坊主頭は、困ったように頭を搔いた。ちなみにこのやりとり、今日が最初じゃない。三日前からこんな感じだ。

 私達が永見君と話していると、ミケは友里と一緒にふらふら近寄ってきて、話しかけようとする。けれど絶望的に話題がないミケは、すごすごと退散する。それを後ろから見ている友里は、しまいには大爆笑しながらミケを連れて帰っていく。

 しかしもうそろそろ何がしたいのかを言ってもらわないと、こっちだって対応に困るのだ。私と京子は二人で逃げ腰のミケの腕をつかんだ。


「ミケ、言いたいことがあるならさっさと言ってよ」

「言えたら苦労しねぇんだよ!」

「なんで逆切れするの!!」


 京子の怒鳴り声にミケが毛を逆立てた猫のように一歩下がってわめく。


「タイミングを見てるんだって!」

「なんのタイミングよ」


 そんな私たちの口喧嘩を、いたって落ち着いた声で遮ったのは大輔だった。


「……別にタイミングなんか見ないでも、普通に謝ればいいんじゃね」


 普通に謝る......?

 その言葉に、ミケは頭を抱え、友里は肩をすくめ、私達はきょとんと目を瞬かせた。


「謝るって、だれに」

「永見だろ?違うの?」

「え、おれ?」


 さらに驚いた顔をしたのは名指しにされた永見くんである。彼は明らかに不可解だという文字を顔に浮かべて、申し訳ないんだけどと前置きをして続けた。


「……おれ、三池君に何かされたっけ」


 永見君の一言に今度こそミケは教室のフローリングに崩れ落ちた。友里はとうとうげらげら笑い始める。


「あんたっ!謝るつもりで永見に謝られてんじゃんばっかみたーい!!」

「こうなるからタイミング図ってたんだよばーかばーかばーかっ!!!」


 友里が背中を叩く、その手を振り払ったミケは、叫ぶなりばたばたと足音を立てて教室から走り去っていった。それを見送って、いまだに不思議そうにしている永見君の机を、友里が指でトントンと叩く。


「忘れちゃった?立花が自分の班に永見を誘った時、真っ先に拒否の姿勢を示したのは誰だったか」

「真っ先に……」


 その瞬間、青ざめた顔で大輔の頭をひっぱたいたミケの顔が、その場にいた全員の脳裏をよぎった。


『セーフじゃねぇよアウトだろっ!』

『お前、なんでそんな勝手に決めてんの!?永見は……っ』


 永見君を拒絶した、短い悲鳴。

 それを思い浮かべたのか、永見君も穏やかな声で言う。



「三池君だったね」



 なんでもないことを思い出した、そんな言い方だった。今日の朝ごはんは卵焼きが付いていたとか、昨日の宿題のここが難しかったとか、そんななんでもない日常の一コマを告げるみたいに。

 永見くんの中で、あんな拒絶はなんでもないことのうちのひとつなんだと思い知らされるような声だった。


 そんな永見くんに軽く舌打ちをして、友里の細い指が永見君の机を外れる。


「いじめの加害者はしたことをすぐに忘れて、被害者ばかりが傷ついたままでいるってよく言うわよね。でも、私は本当にそうなのかなって思うの」

「どういうこと?」

「少なくともミケは気にしてたわ。永見を傷つけたんじゃないかって」

「今までおれが嫌がらせを受けても散々無視してたのにね」


 別に責める気ではなかったんだと思う。鋭利な言葉とは裏腹に、口調はただ単に疑問を口に出したような響きだった。


「……誰もが小春みたいじゃないからな」


 それに返答をしたのは大輔だ。


「俺だって小春が永見と話してるのを見なければ、お前がいじめられていようが放置したままだっただろうし。それがこのクラスの普通だったからだ。

 小春がその普通は普通じゃないんだと気が付いて声を上げて、ようやくミケは自分がしたことがひどいことだったって気づいた。お前を無視してきたことも含めてだ」

「そ。それで謝ろうにも、関わりがない。大輔に取り次いでもらうには、こいつ、こんなんだし」

「あー。思ったことすぐ口に出すもんね。自分で言う前に永見に『ミケが謝りたいらしいから話を聞いてやれ。ほら謝れ』とか小学校の先生みたいなことやりそう」

「うっわ、謝りづらいな」

「それで困り果てた挙句に付き添いに友里を選んだと」


 だいたいの流れが読めた。


「そこからこの三日間の奇行につながるわけだ」


 謝ろうとする。けれど話しかけようとして永見君と目が会うたびに自分が彼の眼中に全く入っていないことに気が付いて、このまま謝るのはただの自己満足なんじゃないかと悩んで、結局何も言えないまま帰る。その繰り返しだ。


「今度来たら、素直に謝らせてやってよ」


 友里の言葉に、永見君は静かにうなずいた。

 その一連の流れを見送って、私はすっと席から立ち上がる。


「小春?」

「自販機。飲み物買ってくる」


 ポケットから財布を出して軽く振れば、大輔がすっと手を上げた。


「イチゴミルク」

「私もそれ」

「じゃあ、私はフルーツオレ」

「ちょっと待った」


 それは私に買って来いってことか。しかし、聞かなくたってそれ以上の意味があるわけもない。

 私が空けた椅子に何の違和感もなく着席した友里は、ポケットから小銭入れを取り出してぴったり90円を私に握らせた。大輔と京子も100円を渡してくる。私はため息をついて小銭を預かった。


「ああ、もう仕方ないなぁ……。永見君は?」

「一緒に行くよ」

「いいよ、別に。飲みたいものだけ言ってくれたら一緒に買ってくる。でも三秒以内にリクエストしなきゃブラックコーヒーね。さーん、にーい」

「うわっ、えーと、抹茶オレ」

「オッケー、いってきまーす」


 永見君の手が私の右手に100円を押し付ける。私は小銭を握っていない左手をひらりと降って教室を出た。


 階段を下りる。赤いスリッパがぱたんぱたんと自分の足元で跳ねるのを眺めながら、私はふとさっきの友里の言葉を反芻した。



『加害者はしたことをすぐに忘れて、被害者ばかりが傷ついたままでいるってよく言うわよね。でも、私は本当にそうなのかなって思うの』



 兄は、私を階段から突き落としたあの日の話をしない。

 あの日のことを思い出せば、私たちは兄妹ではなくなるからだ。暴力事件の日に話を戻せば、私達は血縁関係よりもっと希薄でもっとどす黒い『加害者と被害者』という関係に収まってしまう。

 加害者の兄があの日の話を私にできないのは、私以上に兄が傷ついているからだろうか。


 じゃあ、永見君は?


『女生徒三人を殴って怪我をさせ、そのうちの一人は転校。転校したその女生徒が、横井の彼女だった』


 永見君は横井の彼女を殴ったことをもう忘れてしまったのだろうか。

 加害者と被害者、加害者と被害者、どうしてこの言葉はこんなにも冷えた響きを持っているんだろう。


 二つの言葉で妙に冷えてしまった頭とは反対に、昼休みの中庭は温かい日差しで満ちていた。

 その日差しを背負って、自販機でイチゴミルクを二つ、フルーツオレをひとつ買った。続いて、抹茶ミルクに手を伸ばす。その瞬間だった。


「あ……」


 腕に抱いていたピンク色のパッケージがするりと滑り落ちた。慌てて拾おうと手を伸ばす。すると、その横から大きな手が一拍早くパッケージをつかんだ。


 ありがとうございます。


 そう言おうとして、顔を上げて……。思わず、目を見開いた。



「横井」



 初夏の日差しを受けて、色素の薄い茶髪がきらきらと光っていた。

 同じクラスの、横井由樹よこいゆきだった。

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