8
グラウンド脇をすり抜けて、校舎に入る。二年生の下駄箱に行かなければいけないのに、間違えて一年生の下駄箱に行きかけて慌てて引き返した。
早朝七時の廊下は、どこか青白い。うっすらと肌寒く、閉鎖されている世界のように感じる。グラウンドからは朝練の運動部の声がするけれど、校舎内には私の歩く音しかしない。
私はこの朝の空気が好きだ。自分だけが、この空気を独り占めできているような気がして。
今日も一日頑張ろう、なんて。廊下の窓の外を眺めて微笑めば、歩いていく先の通路の奥から男子の大きな声が沸き上がった。
なんでこんな早朝に、と疑問に思う。疑問に思うというよりかは、不快に思った。緩んでいた頬がぎゅっと引き締まって、眉間にしわが寄る。
廊下の向こうから、背の高い茶髪の集団がげらげら笑いながらこちらへ歩いてくる。
「あいつキレたらやばいんだろ、さすがにこれはまずいんじゃないの?」
「こんな幼稚なことで暴れるような奴かよ。いつもすました顔してるし、今回も平気じゃね?」
「これで殴り掛かってきたら正当防衛だよ、せいとーぼーえい」
せいとーぼーえい。
頭悪い発音だなぁ。思いながら、通り過ぎる。
よく見ればその三人は、今年同じクラスになった男子たちだということに気がつく。名前は何だっけ?横尾?横谷?
思い出せないし話したこともないから、同じクラスだとはわかっていても挨拶はしない。ただ、すれ違いざまに目に入った、男子の持っていた赤いマジックペンが何だかいやに目に付いた。
なんでだろうと首をかしげながらドアに手をかける。鍵がかかっていたら取りに行かなければと思っていたのに、案外あっさりとドアは開いた。誰かいるのかと気になって、そっと中を覗き込む。
すると。
「……永見君?」
自分の机の前で立ちすくむ、永見君がいた。不思議に思いながら、私は彼に声をかけようとする。
永見君、おはよう、早いね、どうしたの。
なんだっていいから口にしようとして、開いた言葉は茫然としたつぶやきにとって代わられた。
「なにそれ」
永見君の机には真っ赤なマジックペンでこんな言葉が記されていた。
『二年四組から出ていけ死神』
永見君がのろのろと顔を上げた。そして、ぽつりと呟く。
「嫌がらせ」
そんなものは見ればわかる。
脳内に、一瞬であの赤ペンを持っていたちゃらい男の顔が頭をよぎった。あいつだ、あいつがやったのだ。横川だったか横山だったか覚えてないけど、あいつらだ。
追いかけて怒鳴ってやろうかと思った。何幼稚なことやってるんだ、謝れ!って。でも今、ここで立ちすくんだままの永見君をほったらかしにして駆けだすことのほうがなんだか怖かった。
「これ、なにで書いてあるのかな」
「匂いからして、たぶん油性ペン」
「消しづらいやつじゃん、もー」
私は自分の机にもっていたスクールバッグを放り投げると、中から筆箱とティッシュを取り出した。その二つをもって永見君の席まで戻る。
そんなもので何をするつもりだ、とでも言いたげな彼を横目に、私は筆箱の底から水性の蛍光マーカーを引っ張り出した。
「油性ペンの文字を消す方法って結構あるんだよね」
そういいながら水性ペンで油性ペンの文字をなぞる。字が汚いせいでなぞりにくい。人の机に悪口なんか書く暇があったら、小学一年生の書写の本でも使って書き方の練習でもしてればいいのだ。
「はい、なぞったとこが乾く前にティッシュで拭いて!」
こちらをただ見ているだけだった永見君に片手でポケットティッシュを投げつける。彼は困ったような顔をしながら、ティッシュを一枚手にとると赤い文字をこすり始めた。そして、驚きの声を上げる。
「……消える」
「前に京子に教えてもらったんだ。貝坂京子。覚えてる?昨日の、表彰の」
「覚えてる」
「ならよかった」
二人で黙々と机にのたうつ赤い文字を消していく。なぞる、こする、なぞる、こする。順序良く消していけば、最後には机の上に『死神』という言葉だけが残った。それも丁寧に、なぞる。
「……こういうこと、よくあるの?」
「去年から、時々」
永見君がうつむいたまま答える。
「これっていじめなんじゃないの」
怒ったような声が出た。べつに永見君に対して怒っていたわけじゃない。しかし、私の言葉を聞いた彼は慌てたように「ごめん」と謝った。思わず顔をしかめる。
「永見君が謝ることじゃないよ」
「でも、これはおれの自業自得なんだ」
「自業自得って、なに」
「……ごめん」
「だから謝れなんて言ってないってば」
らちが明かない。私は話すのをやめて作業に没頭することにした。
指先で文字をなぞりながら、ふと、昨日の兄の言葉を思い出す。
『なんとなく気が付いてるんじゃないの。永見君が俺と同じだって』
同じ。永見君が、お兄ちゃんと、同じ―――......。
目を閉じれば、いつかの兄の背中が浮かぶ。
暑い、夏の日だった。
私はドアに寄りかかるように戸口に立ちすくんで、兄の背中を見ていた。
血のにじむカッターシャツを洗面台で黙々と洗い続けている兄の手は、血の気が引いて真っ白になっていたことを覚えている。この人は本当に生きているのだろうかと妙に不安になって、私は少し泣きそうになっていた。けれど、服を脱いだ兄の背中にはところどころ切り傷があって、血がじわじわとにじんでいて、確かにそこで兄は生きていた。
血は落ちづらくて困るなぁなんていいながら、兄がシャツを洗う背中を見ていた。
それから、私はシャツを洗い終わった兄の傷口に何度も何度も消毒をして、ガーゼを貼った。
あの日、私は兄にこう言ったのだ。
『お兄ちゃんの、体の中に手が入れられたらいいのに』
『どうして?』
『いくら体の表面の傷を消毒したって、一番柔らかいところはぐちゃぐちゃのままだもの』
――――兄の心臓の上をそっと撫でた。その自分の指先が思いのほか冷たくて、もっと暖かければよかったなんて泣きそうになりながら悔やんだのを覚えている。
『ここが一番、痛いはずなのに』
兄の体が小刻みに震えていた。その体を抱き締める、私の手はいつまでたっても暖かくならなかった。
あれからだ。あの日からだ。兄が少しずつおかしくなっていったのは――――。
机をふき終わった永見君が、静かにありがとう、と言った。そして息を吸ってこう続ける。
「でも、もう俺のことは放っておいていいから」
明確な拒絶だった。
なにか言おうと思った。けれど、声なんかでなくて私は黙ってうつむいた。
「こういうとこ見ても、もう手を貸さなくていいから。今日は思わず甘えてしまったけど。浅海さんは優しいから……、おせっかいなくらい優しいからどうしたって気になるかもしれないけど、お互いのためだから」
ねえ、永見くん。お互いのためって、なんなの。
自分に閉じてうつむいたままの永見君が、小さくなって震えた兄と被って、なぜだか無性に悲しかった。
そっと、手を握りしめる。今日も私の手はひどく冷たいままで、それが、なぜだか泣きたくなるくらいに悔しかった。
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