15

 次の日は、ひどい雨だった。

 この雨で大輔と京子の朝練はなくなったらしい。私達は普段よりも遅く集まって、学校へと向かった。

 京子も大輔も朝の通学中、何も話さなかった。私も何も話さなかった。

 口にしてしまえば決意が揺らぎそうだったから。



 ただ、ひとつだけ。心に決めていたことがあった。



 教室に入る。

 すると、同じ班を組もうといっていたなっちゃんたちが軽く私と京子に手を振った。


「おはよー!二人とも」

「小春、だいじょうぶ?昨日具合が悪くなったって聞いたけど」

「うん、平気だよ」

「よかったぁ」


 笑う二人に、少しだけ罪悪感が心の奥でうずく。


「あ、修学旅行の班。班長決めなきゃいけないんだけど、京子どう?やんない?」

「ええー、私嫌だよ」

「でも京子しっかりしてるしなー。ね、小春も京子がいいと思わない?」


 私は少しうつむいて、それで、ゆっくりと口を開いた。


「......ごめん」


 みんながぽかんと口を開ける。なんで謝るの。なにがごめんなの。そんな顔。最高潮まで達した罪悪感を胸のもっと深いところに投げ込んで、私は続けた。


「私、他に班を組みたい人がいるの。抜けてもいいかな」

「え......?」


 開いていた口が閉じる。三人の顔が強ばるのがわかった。


「でも、人数が......」

「学級委員長の友里のとこ、まだ二人しかいないから組んでくれると思う。このままだと男子と同じ班になるってぼやいてたし」


 でも、と言い募りかけたなっちゃんを制したのは意外にも京子だった。私は驚いて京子のほうを見る。なっちゃんたちは目をうろうろさせながらも、その言葉にほっとしたようにうなずいた。


「友里なら私たちも仲がいいから問題ないね」

「でも、誰と組むの?私たちはいいけど、京子と小春一番の仲良しでしょ。同じ班にならなくていいの?」


 二人が京子の方に目を向けた。京子は黙っている。何かを察知したみたいに、静かに凪いだ目で私を見ている。


 京子がひとつ、うなずいた。私もそんな京子にうなずいて返した。


 くるりと三人に背を向ける。ごめん、ごめん、何回も心の内で謝ってかつかつと教室の後ろまで歩いた。昨日の誰かみたいに。迷わず、ふらつかず、まっすぐに。

 歩く先には自分の世界にこもって本を読む、彼がいる。

 教室のざわめきが波のように引いていく。永見くんが顔をあげる。私はそんな永見くんの机に両手をついて、彼にぐっと顔を近づけた。そしてゆっくりと、口を開く。



「......修学旅行、私と同じ班で回ろう。永見くん」



 永見くんがバカみたいに口を開けた。その間抜け顔が小気味良くて、私は顔全部で笑ってみせた。




「やっぱり私、永見くんと仲良くしたいみたい」




 永見くんの持っていた文庫本が手から滑り落ちる。床に本の背がぶつかる音が、静まり返った教室に跳ね返る。

 その瞬間、誰かが大きく椅子を蹴飛ばす音が鳴った。


「......浅海」


 横井だった。横井はのりで顔の表情を固定でもしたみたいな無表情をしていて、一瞬肌の上を冷たいものが走った。それでも私は譲らなかった。


「お前、何いってんのか」

「わかってる」


 私も横井を睨みつける。横井が、低い声で私に警告をする。


「このクラスに居場所なくなるぞ」


 でも、そんな警告、馬鹿らしいにもほどがある。


「なくならないよ」

「......は?」

「なくならない。私が永見くんと仲良くしたら、永見くんのとなりに私の居場所が移るだけ。ただの移動で、消滅じゃない」


 息を吸う。横井の目をまっすぐに覗きこんで、問う。


「それとも今度は私もいじめる?」


 がたん、と私の前で音が鳴った。永見くんが、立ち上がっていた。


「なんだよ永見」

「……浅海さんは関係ない」

「なに?お前口あったの」

「浅海さんは関係ない」


 横井の言葉に、まるでこの言葉しか言えないオウムのように永見君が返す。そんな彼を、横井がせせら笑う。

 けれど永見君は負けていなかった。初めて、オウムが自分の意志で横井に言い返した。



「浅海さんにまで手を出したら、お前、取り返しのつかないレベルの屑になるよ」



 一瞬の、沈黙。次の瞬間、地鳴りのような横井の声が響く。


「永見……っ!」


 横井が永見君に向かって手を振り上げる。あ、やばい。そう思った時には彼のこぶしはちょうど私たち二人の前に迫っていた。よけようとするけれど、動けない。


「浅海さんっ」


 とっさに永見君が腕を伸ばして私をかばった。私はその腕に縋りつくようにして目を閉じる。けれど、いつまでたっても思っていたような衝撃は来なかった。


「……お前が言うところの『暴力事件を起こした乱暴者』に勢いで殴り掛かるのは、さっすがに計画性がねえんじゃないかと思うけど」


 大輔だった。

 大輔が、横井の腕をつかんで睨みつけていた。


「永見、お前、退散」

「え」

「お前と小春で、今思いっきり横井を煽ったことくらいわかってんだろ。横井が頭冷やすまで、ここは任せてどっかいっとけ。朝のHRさぼったくらいじゃ松山は怒らんだろ」

「でも」

「小春連れて、早く行け」


 大輔が横井の腕をつかんでいた手を強く引く。そして、そのまま床に引き倒した。床の上で大輔に押さえつけられて、身動きの取れない横井がわめく。


「なにすんだよっ!」

「お前今離したら永見に殴りかかるだろ」


 完全にマウントを取った大輔は、そのまま教室中を見渡した。そして、静かに宣言する。


「お前ら全員横井とおんなじだから。お前らはずっと、無音で永見を殴ってたんだよ」


 わかったらドアを開けろ。


 大輔の言葉にドア口に立っていた生徒が、そろそろと体を動かすのが見えた。ドアの前が完全に無人になる、その瞬間。小さな手が勢いよくドアをあけ放った。


「一時間目始まるまで戻ってこないでよ」

「……京子」


 まっすぐにドアの向こうを差す、その指先を目で追った。私はうなずいて、永見君の手を強く引く。


「いこ」


 彼はされるがままになって、抗うこともなく私とドアの向こうを目指す。一歩、二歩、三歩、四歩……、その、ドアを抜ける瞬間だった。ドアのそばに立った京子がそっと耳打ちした。


「あとは任せといて」


 私はそっと頷いて笑った。

 ――――うん。だいじょうぶ。二人を信用してる。





 逃げ先は決まっていた。図書室じゃない。第二理科室でもない。

 特別棟の三階、第一理科室。中へはいって、黒板の隣のドアを開けて、私は彼を見つめた。少しの沈黙。そのあと、先に口を開いたのは永見君だった。


「浅海さんはいっつもそうだ」

「いつも?」

「そうやって、優しくするから」


 私は優しいだろうか。首をかしげながら、彼の言葉を聞く。


「おれ、花咲病だよ」

「昨日聞いたよ」

「暴力事件も起こしてる」

「......知ってる。もう無知じゃない」


 階段がふと頭の奥に浮かぶ。黒い体。突然伸びた、白い腕。

 震えそうになった手を、もう片方の手で押さえつけた。月夜の兄よ、出てくるな。春の思い出も全部いらない。思い出さない。


 永見くんと話すのに、その記憶は今は邪魔だ。


 息を吸えば、パニックを起こす寸前だった頭がすうっと冷えた。その冷えた頭で彼に向き合う。すると、彼はたぶんずっと溜め込んでいたんだろう言葉をそっと口にした。




「――――おれ、浅海さんよりずっと早く死ぬんだよ」



 ――――花咲病の致死率は100%だ。必ず発症から十年程度で死ぬ。例外はない。



 私は軽く首を振る。


「私のお兄ちゃんもね、花咲病なの」


 永見くんは意外にも驚かずに頷いてみせた。


「大体の経緯は、昨日立花くんと貝坂さんから聞いた」


 昨日倒れた時に聞いた、低い声を思い出す。あの声は、もしかしたら私のことを話す大輔の声だったのだろうか。少し納得しながら永見君を見る。なんにせよ、知っているなら話が早い。


「私ね、大輔と話をしたの」

「話?」

「永見くんは加害者か、被害者か」


 彼は黙って私の話を聞いている。


「クラスの子にとっての永見くんは加害者。じゃあ私にとってのあなたはなんだろうって。昨日ずっと考えてた」


 あの菜の花の隣で。あの猫を埋めた日のことを思い出して。そうしてようやく答えを出した。

 私にとっての、永見くんは。



「私にとって永見くんは、仲間だった」



 永見くんが目を見開いた。


「私、優しくないよ。私はね、ずっと永見くんにシンパシーを感じてたんだ。どこかで。きっとあの朝日を睨み付ける永見くんを見た日から、あなたの奥に兄を見ていた」


 たぶん直感的だった。兄が『なんとなく気が付いてるんだろ』と言った、その言葉の通り、私は気が付いていたのかもしれない。永見君が花咲病だって。


「永見君の口から花咲病って聞いた時、パニックを起こしながら、やっぱり私はあなたと兄を重ねていた。でもそれ以上に、猫を埋めていた、永見君の横顔が浮かんで消えなくて」


 永見くんに歩み寄る。一歩、二歩、三歩。手を伸ばせば、永見くんの体が震えていることに気がついた。


「エゴだよ。これは、最強のエゴ。兄を見ているみたいで放っておけない。花咲病でいじめられた兄を思い出して、永見くんを無視なんかできない。でもなによりも、猫を埋めたあの時の永見くんの優しい手を覚えてるから、あなたが自分からひとりになっていくのを見過ごせない」


 白い手を握りしめた。まるで死んでいるみたいに冷たいその手は、ちゃんと鼓動の音がする。彼はまだ、生きている。


「一緒にいようよ」


 ……誰かを遠ざけようとしないで。ひとりになろうとしないで。


「一緒にいてよ」


 私がただ握りしめるだけだった手に、はじめて力がこもった。

 打算かもしれない。彼に兄を重ねているだけで、それはとても失礼なことなのかもしれない。


 それでも私は永見くんといたい。



「永見くんが優しい人だってことくらい、あの猫を埋めた日の夜から、私はずっとわかってたんだ」



 永見くんの手が、すがりつくみたいに私の手を握りしめる。


「……いつか後悔して泣くのに」

「その時に思いきり泣きわめくから、今は泣かない」

「浅海さんは傲慢だね」

「傲慢だとしても、今、校内で永見君の気持ちに一番近いところにいるのは私だよ。きっとそれは永見君もそう。私の気持ちの一番近いところに立ってる」


 兄にも確か傲慢だと言われた。それでいい。私は、それでいい。



「私たちは花咲病に苦しめられながら、花咲病でつながっていくんだよ」



 なんだそれ、と初めて永見くんが笑った。私も軽く笑い返す。そんな私たちに、後ろから声がかかった。


「おーい、そろそろいいかー」

「......大輔?」

「と、私ね」


 振り向く。

 準備室の戸口に京子と大輔が立っていた。


「小春の考えなし。班員は四人から五人。二人きりでどうするつもり?」

「......どうにかなるかなぁーって」

「なるわけないでしょバカ」


 すこーんと私の頭を叩いた京子が、反対の手でプリントを掲げる。それを見て、私と永見君は目を瞬かせた。


 班長【立花大輔】班員【浅海小春・貝坂京子・永見朔】


「……え?」

「俺の班の三池、お前らが班組むかっていってた八卷奈津に片思いしてるんだよ」


 三池と言えば昨日の班決めの時に大輔の頭を叩いたあの野球部の男子で、八卷奈津はさっきまで私たちと話をしていたあのなっちゃんである。


「え!?ミケ、なっちゃんのこと好きだったの?」

「そうそう。ちなみになっちゃんも三池、気になってるんだって」

「だから、俺と京子がお互いに班から抜ける代わりに、残った班員同士で一つの班になってもらった。俺の班が俺を抜いて三人。京子の班が小春と京子を抜いて二人。足して五人で問題ないし、今ならからかわれもせずに『俺と京子が勝手に抜けたとばっちりくって班をくっつける羽目になった』って言い訳しながら美味しく修学旅行で思い出作りが可能」

「と、いうわけで。私たちが抜けたところで、なっちゃんたちも野球部のバカもまったく問題なくおさまるとこにおさまりました。学級委員の友里たちもちゃんと班作れてるし、むしろクラス全員万々歳じゃない?」


 任せとけって言ったでしょ。そう言って、二人が笑う。


「修学旅行、さぼったら許さんからね、永見」

「あ……うん」

「おまえ、日光どの程度いけんの?今は日の出てない時間帯ねらって登下校してるだろ」

「雲一つない青空とかでなければ、UVカットの日焼け止めと日傘で何とか……。でも長時間は厳しい。持って一時間」

「んー。そんならできるだけ室内で楽しめるとこにして、移動も徒歩はやめてバスかな」

「なんか食べたくなったら買い食いじゃなくて喫茶店はいれば室内だし」

「京都は抹茶パフェ美味しいよね」


 二人が勢いよく話し始めるのを、永見君が戸惑った顔で聞いている。その背中を、私が小突いた。


「花咲病でも、日光に気を付ければ十分楽しめるよ。うちのお兄ちゃんだって修学旅行は行ったもの」

「そうなんだ……」

「もう友達だって、二人は言ってるんだよ」


 丸い目が、一瞬もっと丸くなって、そしてきゅっと細くなった。優しい笑顔だ。永見くんらしい、柔らかい笑顔だ。


「永見、笑った」

「そうやって笑ってりゃいいのに。無表情で『友達なんかいらない』とか言ってるからさらに浮くんだよ」

「うるさいな」

「あ。ちょっと怒った」


 けらけらと京子が笑う。


「私、永見のことまだ完全に信用したわけじゃないよ」


 笑ったまま、さらりと怖いことを言う。けれど、その言葉はさらさらと流れ落ちた。


「でも、私の友達小春と大輔が永見を信用するから、とりあえず、一緒にいてみる」

「俺も似たようなもの」

「……そっか」


 永見君がこっちを見て、もう一度微笑んだ。そんな彼に、私はにっと笑ってVサインを返す。

 理科準備室から出れば、湿った風が鼻先をくすぐった。冷たいようでいて、その風は生ぬるく、夏が近づいていることを知らせている。


 廊下を歩きながら、私はこっそり永見君に耳打ちした。


「修学旅行、楽しみね」


 永見君はもう一度、目元をきゅっと細めて笑った。その笑顔がくすぐったくて、私もふわりと笑って見せた。





 廊下の向こう側で、兄がふわりと笑う影が見えた気がした。





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