14


 目を開ける。


「……起きたんだ」


 頭上から聞こえた声に、ゆっくりとそちらに顔を向けた。どうやら保健室のベッドらしい。白いカーテンにもたれるようにして、永見君がパイプ椅子に腰かけているのが見える。


「永見君」


 私、なんでこんなところにいるの?

 聞こうとして、はっと思い出す。カッターシャツを開いた白い指、服の下の緑の皮膚、永見君の歪んだ顔……。

 思わず、私は永見君につかみかかるように叫んだ。


「永見君、ごめん、ちがうの」

「……浅海さん」

「ちがう、あなたが怖かったんじゃない。あなたを傷つけたかったんじゃない、ごめん、ごめん」

「浅海さん」


 体を起こしかけたその肩を、思いがけない強さで永見君が押した。もう一度ベッドに倒れこんで、彼を見上げる。覗き込んだ瞳は、私が思っていたよりもずっと優し気に光っていた。彼が小さな声で言う。


「わかってるから、いいよ」


 ――――なにをわかってるの。


 思わず詰め寄ろうとして、けれどそれをうまく言葉にはできなくて。永見君の顔を見ていられなくなって、私は思わず片腕で目元を覆った。


「……怖がらせてやろうと思ったんだ」


 永見君の静かな声が、暗い中に響く。


「おれが、浅海さんを。怖がらせて、傷つけてやろうとして脱いだ。八つ当たりみたいにして。浅海さんは何にも悪くないのに、いつだってあんたはまっすぐだから、曲げてやりたくて。もう二度と追いかけてこれないくらい」


 ガキでごめん、……それだけ。


 それきり声は聞こえなくなった。その代わりに何かごそごそと物音がして、少しするとそれすらやんで、部屋が完全な無音に包まれる。

 そっと片腕をのけて、彼の座っていたパイプ椅子のあった場所に目を向ける。白いカーテンは開いて保健室の中が見渡せるようになっていて、仰ぎ見た先のドアも開いていた。部屋の中には誰もいない。

 ああ、帰っちゃったんだ。

 ぼんやりとそんなことを思いながら、自分の頬を軽く撫でる。冷たい何かが指を伝って、そこではじめて自分が泣いていることに気が付いた。

 何度も何度も指先で目元をぬぐうけれど、指先を滴が超えていくから、最後には手の甲でめちゃくちゃにこする。


 怖がらせたかった。傷つけたかった。その言葉が痛かった。永見君が私を傷つけようとしたことが辛かったんじゃない。私を曲げても、永見君のゆがみが正されることはなく、私が傷ついても永見君の傷が癒されるわけじゃない。わかっていながら私に当たるしかなかった、永見君が悲しかった。


 廊下の向こうからがやがやと声がする。涙がこれ以上こぼれないように、天井を仰いだ。ようやく目元をこするのをやめる。すると、ちょうど同じタイミングで京子と大輔が保健室の中に入ってきた。


「小春」

「京子。大輔」

「そこ、永見が歩いてったから、もう起きたんだなって。俺と京子が小春の荷物取りに行ってる間、ここで様子見ててくれって頼んでたんだ」

「そうなの……」

「小春、泣いてるの?」


 私の目元を見て、京子が不安げに目を揺らす。その言葉に軽く首を振って見せた。


「悪い夢でも見たのかも」

「……どんな?」

「忘れた」


 それ以上聞いても無駄だと思ったのか。京子が私のスクールバッグを揺らして笑った。


「もう放課後だよ、帰ろ」


 その笑顔に、私も口元だけを上げて応じる。


「……部活は?」

「同級生が倒れたから、送って帰らなきゃいけないのでって今日だけ臨時で休み。大会終わった後だったからあっさりオッケー」

「俺も同じ。どこも強くぶつけてないみたいだし、もう歩けるだろ」


 大輔が私に向けて手を伸ばした。その手をつかんで、足を地面におろす。立つ。妙に頭がすっきりとしていた。


「ねえ」


 ふと、柔らかかった京子の声が妙に不安げに揺れた。振り返って彼女の顔を見る。京子は眉を寄せて笑いながら、一つこう尋ねた。


「なにかおもいだした?」


 ――――なにかって。


「あの、春の夜のこと?」

「……うん。中学二年生の春のこと」


 迷わずに首を横に振る。


「なんにも」


 そういうと、京子は少しほっとしたみたいに笑って、大輔は眉間にしわを寄せた。そんなふたりにかすかに違和感を覚えながらも、私は自分の鞄を受け取って保健室を出た。三人でコツコツと歩きながら、そっと口を開く。


「……京子と大輔が私に永見君のことを言えなかったのは、私が倒れるってわかってたからだよね」


 二人は答えない。けれど、それが正解であるということは、私にはよくわかっていた。


 私が初めて倒れたのは中学三年生の時の出来事だ。

 社会の時事問題でニュースを見ていた時、初めて「花咲事件」のニュース映像を見た。

 花咲事件――、それが花咲病患者による傷害事件の総称だと先生が口にした瞬間、私は綺麗に真横に倒れたらしい。

 目を覚ました時同じクラスだった大輔と京子が、私を泣きそうな顔で見ていたのを覚えている。今日みたいに。


 あれから、私たちの中で「花咲病」という言葉が出ることも、兄の話題が上がることも全くなくなった。


『責任なんて取れないから』


 昼休みのまっちゃんの言葉も今なら理解できる。

 二人とも、私が倒れるとわかっていて答えなんて口に出せるわけがない。倒れた時、今度も私が無事であるという保証はない。責任なんて取れない。だから黙る。

 けれど、私の事情を知っている二人とまっちゃんについてはそれで理解できるとして、腑に落ちないのはクラスメイトだ。私は続けざまに二人に尋ねた。


「二人が黙っていたわけは理解できた。じゃあクラスの子たちが私に永見君のことを教えてくれなかったのはなぜ?」


 クラスメイトは私に花咲病の家族がいることも、パニックのことも知らない。京子達みたいに私に黙っている理由なんてない。

 そんな私の問いに答えたのは、大輔だった。


「……去年の夏、永見が当時二年生だった女子生徒三人を殴った」


 今日横井が永見君を糾弾していたあの瞬間を思い出す。いまだに信じがたいことだけれど、大輔までが事実として口にする以上、実際に起きた事件であることは明らかだった。大輔が淡淡と事件の概要を説明していく。


「永見は五日間の停学、三人の女子生徒もかなりひどい怪我をしてしばらく学校へ来なかった。三人のうち一人は転校。

 そんで、永見が三人を殴った時の言葉が結構有名でな」

「なんて言ったの」

「『この校内で、次に誰か一人でも花咲病って言葉を口にしてみろ。一人残らず殺してやる』」


 永見君にそれほどの苛烈さがあるとは、私には全く思えなかった。茫然と大輔を見る私に、京子が続ける。


「それであの話を知ってる人の中で『花咲病』は口に出しちゃいけないワードになったのよね。永見、玄関ホールで殴ったから放課後に学校に残ってた人たちは大体現場見てたし」

「そんで……、まあ、横井がな」

「横井?」

「その殴られて転校した女子生徒ってのが横井の彼女だったんだよ。転校に際して彼女とも全く連絡取れなくなって、音信不通らしい」


 いろんなことが頭の中で一つの線になってつながった。永見君が誰からも無視される理由。横井が妙に永見君を敵視した理由。こうしてみれば事実ははっきりとして地面に転がっている。


「……永見君はどうしてそんなことをしたんだろう」

「さあ。でも、無抵抗の女子生徒を殴ったっていうのが事実としてあるから、誰も永見が何をされても止めようとしない」


 大輔が足元の小石をけ飛ばした。


「ずっと考えていた」

「ずっとって?」

「永見は加害者か、被害者か」


 その言葉に京子が食いつくように言う。


「加害者よ。殴ったのは永見じゃない。今はいじめられていて、かわいそうだとは思うけど、それでも最初に殴ったのは永見よ」

「京子……」

「大輔とけんかになったのも、それが原因。私は小春のパニックのことを抜きにしても、永見を小春に近づけたくなかったの。理由が何であれ女を軽々しく殴れる男にろくなやつはいないわ。私はそれを大輔にも伝えていた。それなのに、始業式の日、三人で仲良さそうに話していたでしょ」

「そ。それで、小春を永見に近づけるなって言ったでしょ!からの小春が誰と仲良くしようが小春の自由だし、それで小春が倒れたとしてもこのままでいいわけないだろって大喧嘩」

「……原因が私じゃ、そりゃ私に喧嘩の理由なんか話せないよねぇ」


 呆れて笑えば、ふたりがまた顔をそらした。顔をそらしたまま、数歩先を歩く大輔が怒ったように言葉を連ねる。


「今のが分かりやすい一例」

「今のって……」

「京子にとって永見は明らかな『加害者』。でも俺は、永見はきっと暴力事件に至るまでに何か理由があったんだと考える。だから俺にとって永見は『加害者』である以上に『被害者』だ。じゃあ、小春は?」

「私?」

「小春は永見をどう思う?」


 私が、永見君を……。考え始めた私に、大輔がさらに言葉を連ねる。


「俺は永見と仲良くしろって小春に強制したいわけじゃない。誰かと仲良くすることに周囲の圧力があっちゃだめだ。だから、京子が仲良くするなって言ったって、小春が仲良くしたければすればいい。クラスがどうしてたって、そこに小春と永見の意思は関係ない」


 だから、問う。


 大輔が私の肩を両手で強くつかんだ。


「小春にとっての永見はなんだ。加害者か、被害者か」


 目を見開く。その瞬間、京子の持っていたエナメルが、フルスイングして大輔の背中に激突した。


「……ってぇな」

「小春に近い」

「たいして近くもねぇよこんなもん」


 大輔が舌打ちして私から離れる。


「俺、商店街寄って帰るからここで離脱。あとは京子に送ってもらえ」

「大輔……」

「俺は」


 大きな体が私たちに背を向けた。そのまま、小さな声が地面に転がる。



「永見と話してる小春は楽しそうに見えたけど?」



 そうして帰っていく大輔の後ろ姿を見送って、私はただ立ちすくんでいた。京子が足元の小石を勢いよく蹴っ飛ばす。


「なんなの、大輔のやつ……」


 そんな京子を振り向いて、私も頭を下げた。


「……ごめん、京子。私も少し寄りたい場所がある」


 切れ長の目が、大きく見開かれた。さっきまで気絶していたやつが何を言っているとその表情からも読み取れる。


「でもあんた、今日倒れて……」

「大丈夫だよ。ごめんね、先に帰ってて」

「ちょっと!小春!」


 私は京子に軽く手を振ると、大輔が去っていった先とも、自分の家とも反対方向の道へ走り出した。走る、走る、走る。

 細道を抜けて、三本目の角を左。坂道を登れば、見える。


「……やっぱり、いないよねぇ」


 いつものあの橋の上。見下ろした先に永見くんはいない。

 ため息をつきながら土手を降りて、あの墓の前に立つ。


 菜の花は増えていた。何本も、何本も無造作に散らされている。もう枯れてしまっているものもある。


 その花束を見ながら、考えた。


 私にとっての永見くんは、なんだろう。

 加害者?被害者?

 わからない。わからないけれど、私は――――。



 私を傷つけたと申し訳なさそうに謝った永見君が、修学旅行を本当に欠席するのかと思うと、それだけはどうしてもやりきれないと思った。



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