20


 約束の時間が来て、私はバイトへ向かうために席を立った。

 いつもなら京子と大輔の部活終わりを待ってから学校を出ても十分間に合うのだけれど、今日は女子会の予約があるからできたら早く来てほしいとお願いされていたのだ。


「……永見君はもう少しいるんだよね」


 鞄に教科書を詰め込みながら、永見くんに尋ねる。

 永見君は日のあるうちは絶対に帰らない。必ず日が沈んでから帰る。夏が近づいて日が長くなった最近は、六時半くらいに京子達と待ち合わせをして学校を出ていた。

 しかし、彼は少しだけ首をかしげてから窓の外に目をやった。


「今日、曇りだからもう帰ってもいいかも」

「え……」

「明日、降水確率90パーセントだし。今日はたぶん晴れないし、念のために傘差して帰ればたぶん大丈夫」

「確かに雲は厚いけど……」

「うん。じゃあ、帰ろ」


 永見君がリュックサックの片方だけを右肩にかける。私もスクールバッグを適当に肩にかけて、教室から廊下へ歩いていく。


 玄関ホール。空を見上げた永見君が大きな青い傘を開く。私がずっと雨傘だと思っていたそれは、花咲病患者用に作られた、紫外線をカットできる特注の傘らしい。どうりでこんなに大きいわけだ、と少しだけ納得する。

 それを開いて堂々と歩き出す永見君を見て、グラウンドにいた何人かがすっと空を見上げて不思議そうな顔をした。

 永見くんがこっちを見ないまま、呟く。


「……晴れてても、曇ってても、傘差すから。おれが歩いてるとみんな空を見るんだ。雨でも降ってるのって」


 大きな雨傘は、私と永見君の間に距離を作る。少しだけの、距離を。


「それでね、その次にはなんだあいつって顔をしかめるんだ」


 困ったような笑顔だった。永見君は眉を寄せて、そんな反応を見るのもちょっと楽しいんだけどねと笑ってみせる。その笑顔に、胸の奥がギュッと痛くなった。

 ――――同情なんだろうか。永見君が花咲病のことを語るのが、私は悲しいんだろうか。悔やしいんだろうか。

 日光を避けて歩いていく彼は、体の異常以外は全く持って普通の男の子なのに。


 私はぎゅっと唇をかみしめると、鞄の中から折り畳み傘を出して、勢い良く開いて見せた。それを頭上に高々と掲げる。永見君は細い目を丸くして私に尋ねた。


「雨?」

「降ってない」


 雨は降っていない。私が傘をさす必要はない。でも、と言葉を続ける。



「永見君が幼馴染の読んだ本を追いかけて読むのと一緒だよ」



 永見くんが、理解できない本を読むのは意味がないことかもしれない。

 傘をささなくてもいい私が、雨の降らない夕方に傘をさすのは無駄なことかもしれない。けれど、その行為に意味を見出すのは自分自身以外の何者でもない。


「永見君の気持ちの全部はわからなくても、私は少しでも近い位置に立っていたい」


 永見君は何度も目を瞬かせて、そして私から顔を背けて小さな声で言った。


「……浅海さんはいつも予想外」

「それ誉めてる?けなしてる?」

「誉めてる」


 ふわふわの黒髪が、風にさらりと揺れた。同色の瞳がこちらをまっすぐに見つめる。


「……誉めてる」


 その目が思ったよりもずっとまっすぐで、なんだかひどく泣きたくなった。


「明日、大雨になればいいのに」

「どうして?」

「雨が降ったら、私達のことをだれも見ないから」


 私の薄い桃色の傘と、永見君の青色の傘が何度もぶつかった。傘二つ分。その下にある私たちの肩と肩の距離は、きっと30センチくらい。


「もう梅雨だよ」

「……うん」

「梅雨が明けたら、修学旅行だね」


 その30センチを埋めきれないまま、私たちは歩く。歩き続ける。


「修学旅行の前日には、てるてる坊主つくって、逆さにしてつるそう」

「雨のお祈り?」

「そ」

「原始的だなぁ。マラソン大会を嫌がる子供みたい。」


 軽い笑い声が響く。

 その途中、ふと永見君が「あれ」と声を出した。


「綺麗に咲いてるね」


 グラウンドのすぐそば、体育館の脇の花壇だった。

 紫陽花の花を中心にして、寒色系の花が綺麗に咲き乱れている。目立つ場所ではないけれど、ふと目を引かれるような存在感があった。


「......園芸部が頑張ってるんだね」

「そっか。この高校、園芸部あったよね」


 最初に私たちと修学旅行の班を組もうとしていた、ミケの片想いの相手。八巻奈津ことなっちゃんがその園芸部である。

 確かこの花壇を担当していたのもなっちゃんだったはずだ。

 それを見て、永見くんは少しだけ微笑んだ。


「おれ、花を見るの結構好きだよ」

「そうなの?」

「そう。まっちゃんの理科準備室も、花の写真が飾ってあるんだ。あれを見るのが好きで......」

「へえ。なんだか、珍しいね」


 珍しい。そう言った私に、永見くんは少し考えたあと、納得したような顔を見せた。



「花咲病患者の大半は花に対して嫌悪感を持ってるから?」



 永見くんが歩き出す。その横を、私もついていく。傘がぶつかって少し歩きづらい。でもできる限り永見くんに近い位置を、歩く。


「花咲病患者は確かに花が嫌いな人が多いよね。自分の死体を見ているような気持ちになるから、らしいけど」


 花咲病患者による暴力事件の総称が、花咲事件。

 その事件のひとつで、川原の桜の木に火をつけたというものを見たことがある。

 自分の家から見えるその木が怖かった。桜の花が散るのが、自分の死体に見えたというその供述を聞いて、私は少しだけ不思議に思った。



 花咲病の死というものは、どれほど花に近いものなのだろうと。



 ずきん、と、頭の奥に鋭い痛みが走った。



「......浅海さん?」

「あっ、ごめん。なんだか頭が痛くて......」

「これからのバイト、大丈夫?」

「大丈夫大丈夫!心配かけてごめんね」


 ちらりと腕時計を確認する。早めに学校を出たから時間はまだ十分あった。

 ほっと一息ついて、無意識に早足になっていた歩調を少しだけ緩める。

 高校の付近の住宅街を出て、川原に抜ける道路沿いを歩いていると、ふと永見くんがある建物の前で足を止めた。

 私も思わず足を止めて、その建物に目をやる。


「ここ......」

「ここ、おれが通ってる病院」


 大きな大学病院だった。河原の、すぐ近くにあるその病院は兄のかかりつけ病院だ。

 けれど永見くんが指で示したのも、私が見つめたのも大学病院の本棟らしい大きな建物の方ではなく、その影にひっそりと立っている、小さな建物の方。

 窓という窓は真っ黒なカーテンがかかり、二階には雨戸が閉まっている。不気味な建物だった。

 私たちは、あの大きな大学病院の方には全く関係がない。私たちに関係があるのは、この閉ざされた雰囲気の不気味な建物だ。




 花咲病研究施設病棟。




「ここ、花咲病の研究施設」

「知ってる。……お兄ちゃんも来てたし、私も通ってる」

「浅海さんも?」

「そう。一応花咲病患者の血縁者だから、発症していないか毎月検査に」


 その瞬間、永見君の顔にはっきりとした疑問が浮かんだのを、私は完全に見逃していた。私は傘をさしたまま、永見君を見ないで続ける。


「進行ステージⅢ度以上の希望者の患者がここに入るんだよね。日光を完全に遮断して、生きながらえるために」


 進行ステージが進み、新型葉緑体の繁殖スピードが一定値を超えると、患者には決断が迫られる。日光を遮断して少しでも生きながらえるか、今まで通りの生活をして人生を全うするかだ。

 日光を遮断すると決めた患者は、この花咲病の血縁病棟に入るか、自宅療養かを選択できる。


 兄は自宅療養を選んだ。選ばされた。母によって、光の差さない自室に閉じ込められて、自分の死を待っている。


 永見くんが病棟を見上げて話を続ける。


「おれの幼馴染、ここにいるんだ」

「え……」

「外に出れないって言ったでしょ」


 黒髪が、ふわりと風に揺れた。

 研究施設への入院は、少しの日光を浴びるだけで命の危険が迫る状態の患者が選択できる。

 つまり、もう長くは生きていられない人がここへ来るのだ。じゃあ、永見君の幼馴染は……。


 言葉に詰まる。けれど永見君は何でもないことみたいに言った。



「おれは、進行ステージが進んでもここへは入らない」



 それは、寿命が縮むとしても陽の下で生きるということだろうか。傘の向こう、永見君の顔はいつもよりずっと白い。


「……ここは嫌な場所だよ。真っ暗な中で、自分の死を待つだけだ。おれはそんなのは嫌だ」



『小春。俺は、こんなところで死にたくない』



 その瞬間、いつかの兄の声がまた頭の奥でフラッシュバックした。

 永見くんといるようになってから、花咲病と聞いても、暴力事件と聞いても、パニックもフラッシュバックも起きなかったのにどうして。


 半分混乱状態で永見くん見つめる。


 ――――その時だ。


「……あ」


 永見君が二階の窓を指さした。

 私達の頭上。よく見える位置の窓の雨戸が、少しだけ持ち上げられていた。


「あれ、誰の部屋だ……?」


 そうつぶやいた瞬間、雲で覆われていた空から雲が割れて一筋、光がさした。

 ―――なんで。今日はずっと曇りなんじゃなかったの。

 私は慌ててスマホでさっき永見君と確認した天気予報のページを開く。


 明日は雨。今日は曇り。





 でもその下に、『五時以降から晴れ間が見えるところもあるでしょう』という小さな文字があった。





「永見君……っ」

「この程度の日差しならおれは平気。でもあの部屋が――」


 花咲病研究施設病棟の、閉ざされた雨戸が少しずつ開いていく。夕陽からこぼれた赤い光が永見君の傘に反射して、きらきらと光る。――――雨戸をあける細い手は、どう見ても人間の皮膚の色ではない、緑色をしていた。


 永見君が息をのんだ。そして焦ったようにあたりを見渡したけれど、ここは研究所の裏手だ。入り口はここからぐるりと表へ回らなければいけない。

 雨戸が少しずつ開いていく。窓の外の日差しも、少しずつ光の強さを増していく。



 あの窓が開けば、あの患者はまともに日の光を浴びてしまう。



 嫌な予感が胸の奥でひらめいた。それは永見くんも同じだったみたいで、病棟の回りをぐるりと取り囲んでいるブルーの格子をがしゃんとつかんで無意味に揺らす。

 ここを上って中へはいるか。ぐるりと表へ回って、正面から突破するか。けれどそんなの間に合わない。

 中へ入ってあの部屋を突き止めて患者を止めるより、叫んだほうが早い。そう悟ったんだろう、永見君はいつもの彼からは信じられないような大声を上げた。




「開けるなぁああああっ!!!」




 けれど、その叫び声と同時に、雨戸に差し込まれた緑色の手は、勢いよく雨戸をはね上げた。




「あ」




 幼い顔をした、少年だった。


 まだ声変わりさなかのかすれた声が、道路にいる私たちのところまでこぼれ落ちた。

 まっすぐに夕日の赤い日差しが少年の顔を照らす。まるで血みたいに、夕日が彼の顔を染める。

 身を乗り出したまま、少年が顔を押さえた。その手が、その顔が、首が、どんどん緑色で覆われていく。

 進行ステージⅣ。末期患者は少しの日の光を浴びるのも危険だというのは、こういうことなんだろうか。

 まるでCGみたいに、少年の体がどんどん緑色に染まっていく。


 永見君が何度も叫んでいた。通行する人たちが何人か、少年を見て悲鳴を上げた。

 緑色の手が、震えてだらりと窓の外に落ちる。

 身を乗り出したままの少年の体が、ぐらりと外へ向けて、傾ぐ。


 体はどんどん緑へ。緑へ。緑へ。

 そして濃い緑になりきった指先は、今度ははじけるような白色に変色した。その指先が、ぶわりと膨らむ。その瞬間、私は確かに聞いた。



「なんで」



 頭上で、少年の声が響くのを。

 そして見た。彼の体の後ろで、細い手が彼の腰をとんっと押し出すのを、私は確かに見たのだ。

 細い手は大きく手を広げた後、ゆっくりと指先を握りこんで、窓の向こうに引っ込んだ。

 少年の体が、落ちる。


 ――――膨らんだ指先が、ふわりとほどけた。


 はじけるような白色に変色した体が、一センチ大のかけらになって空から降ってくる。指、手足、緑色だった体はどんどん透けるような白色に変わり、膨らんではほどけていく。

 花びらみたいだ。少年の死体が、花びらみたいにほどけて、雪みたいに、羽みたいに、桜が散るみたいに。空から降ってくる。



 新型葉緑体は体の中で繁殖を続け――――。

 一定の繁殖をすると、繁殖のスピードが上がり――――。

 進行ステージⅣ度(末期)になると、日差しを一分以上浴びるだけで死に至る――。

 花のように体が瓦解する――――。


 何度も本で読んだ光景は、目の前にすると、衝撃的なまでに綺麗で恐ろしい光景だった。


 けれどどうしてだろう。

 こんな死の瞬間を前にして、胸の奥になんだか不思議な感覚がわいていた。




 




「きゃああああああああああああ!!」


 通行人の女性の悲鳴で、私ははっと我に返った。

 少年の体はもう完全に花びらになって崩れ去ったあとで、病棟の敷地内に、少年の来ていた薄いブルーのパジャマだけが落ちていた。



 難しいことはわからない。


 けれど事実としてあるのは、少年が死んだということ。

 そう、たった今、私たちの目の前で人が死んだのだ。

 死体が花びらみたいに崩れ落ちるのを、確かに私たちは目撃した。


「……死んだ」

「永見君」

「死ぬんだ」


 永見君が降ってきた花びらを掌に載せて、呟いた。



「おれもいつかこんな風に死ぬんだ」



 思わず、叫んだ。



「————永見君っっ!!」



 振り向いた顔が、死人みたいに白かった。


「いこ」

「え」

「とにかくいこ、いくら傘さしてたって、まだ日が差してる。いこ。永見君、いこう」


 彼が花びらを握りしめた、その手を取った。

 彼の手の隙間から少年の体が粉々になって滑り落ちていく。見物人が増えていく中、私は永見君の手を引いてただ歩いた。


 行き場なんてなかったけど、それでも、彼をこの死の現場にこれ以上近づけさせたくなかった。






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