(5)巨人と光の大剣

 セルフの後ろ姿を見失わないように、無駄口を叩かず全力で走る。

 すると自分の脚力だけでは不可能な速度域に苦もなく達する。

 体が存在しないかのように軽く、自転車で坂道を下るときの風を切る感触もあり、しかも全く疲労を感じない。

 嘘のような体験なのにその感触は確かなものだった。だからここは夢の中という逃避は頭から消した方が良いだろう。


 ショッピングストリートに入っていくが人気はなく、建物のシャッターは全て下りている。

 道幅の広い大通りをしばらく走り抜けると、前を走るセルフが前触れもなく左へ踏み切って、デパートとゲームセンターの間にある脇道へ逸れる。


「くっ」


 すぐに右足を捻り、勢いのついた体を方向転換させる。

 入った脇道は店舗が並んだ色鮮やかな表通りとは違っていた。下品なスプレーペイントが壁に描かれ、そこら中にゴミが散乱していたり、少しスラム街を思わせる場所だった。


「間に合ったかな」


 呟くセルフの先には……ありえない。

 自分の目を疑う。

 十メートルくらい先に、見たことのない生物がいた。

 最初にそれが生物だと思えたのは、有機的な精気を感じたから。しかしそれは悪魔のような醜悪さと凶暴さ、それにすぐ消えてしまいそうな脆弱な印象をも兼ね備えていた。


「あれ、なんなんだ?」


 全長で四メートルは越えていそうな人型の人外だった。

 シルエットは鬼に近く、昔話の絵本に描かれているものより遥かに厳しい。

 獰猛なまでに膨れ上がった太い筋肉質の体躯には、青銅色の鱗が余すところなくびっしり覆われている。両膝と両肘からは透明で刃の如く鋭利な突起物が伸び、心臓の伸縮のように規則的に青白く点滅している。さらに双眸はペンキで塗り潰したかのように赤一色で、頭髪は全く艶の無い白髪でまとまりなく萎れている。

 CGの類にしては作り物の違和感が無く生物にしかない存在感がある。


「さてっと」


 そのスケールに圧倒される俺を置き去りに、セルフは巨人へ向かって走り出す。

 巨人は他者の接近に気づき、叩き潰そうとそれ自体が凶器である大木のような右腕を振り上げる。

 ただその腕が標的を捕えることはないだろう。

 一緒に駅から走り続けてきたからわかる。セルフは駅から高速で走り続けていても、俺とは違い余裕があったからだ。


「ほう、君は少しの時間だけこの世界で意識を留めていたようだね」


 但しその後の展開は予想外だった。

 セルフはそのままのスピードで走り抜けず、相手の目の前で立ち止まる。巨大な鉄槌をわざと待ち構えるかのようだった。


「危ない!」


 巨人は立ち止まる標的へ躊躇なく、空気が震える咆哮と共に猛然たる勢いで拳を振り下ろす。しかしセルフは逃げず平然とそれを見上げ続ける。


 もう手遅れだと悟り、俺は避けられない惨状から目を背ける。

 しかしセルフを潰し地面を叩くはずの破砕音は聞こえてこない。状況がわからず恐る恐る目を開けてみると、信じられない光景があった。


「楓、ボクがこんなのにやられるとでも思ったのかい?」


 ここは元いた普通の世界とは違う、という事実は受け止めつもりだった。しかしこんな光景を見せられれば誰がどうしたって驚きを隠せない。

 出し物を終えたピエロのように、セルフは俺に向けて悠々と両手を広げる。

 その頭上で、巨人の腕が静止していた。

 しかも小刻みに震えている。それは腕以外の四肢と胴体も同じで、どうやら全身の自由を何か外的な力によって抑圧されているようだった。


「ボクは、この世界の管理者なんだよ?」


 セルフは掲げた人差し指を巨人へ向けた後、デパートの壁に向けてクイっと払い除ける。

 すると巨人は慣性を無視するかのような急な動きで、壁に向かって頭から突っ込む。炸裂音と共に瓦礫と砂塵を撒き散らすと、そこで細かな痙攣を繰り返す。


「ほらっ、楓。ぼやっとしてないでこっちに来い」


 激突によって舞い上がった砂埃をセルフは軽快に跳び越していく。遅れないように同じ軌道を狙っても、俺はまだ力加減が掴めていないせいで無駄に高く跳んでしまう。


「間に合ったのかな。君はアニマ……んー、アニマかな」


 セルフは着地した先の十字路を右に少し進み何かを見て呟く。俺もまだ慣れない高所からの着地を済ませて、その目線の先を追ってみた。

 雷のように体中に走ったのは不安と焦燥。

 重く鈍い血液の塊が心臓を一際大きく脈打ち、マイナスの思考が頭の中を駆け巡る。

 少しの間、失っていた自分の最優先がそこに倒れていた。


「どけっ」


 間に立つセルフを退け躓きそうになりながら、春菜の元に駆け寄る。

 毎日触れてきたその体を優しく抱き起こすと、首に力が入らず頭が弱々しく垂れる。

 きちんと息はしていても、服はあちこち破けていて、髪を結っていたマゼンダのリボンは両方とも解けて地面に落ちている。酷い出血は無くても所々に擦り傷や切り傷が目立つ。


「春菜」


 今も目を閉じたままで痛々しい姿の幼馴染へそっと呼び掛ける。

 すると目元が揺れて喉から小さい声が漏れる。僅かに身じろぎした後、瞼がゆっくりと持ち上がる。


「うっ……か、楓ちゃん」


 目覚めたばかりのせいかぼんやりとした表情で俺の顔を眺めてくる。

 しかしすぐに目の焦点が合うと瞼が開き切って、琥珀色の瞳が様々な方へ向く。

 慌てて自分の状況を把握したいようで、その様がとても春菜らしくて安心した。


「楓ちゃん、ここって、わたし達ってどうなっちゃったの? えっ、その髪!」


 きっとそれは俺達が知らなくてはならないこと。

 しかし今はそんなことよりも、互いの存在を確かめ合うことの方が重要だと思えた。


「よかった」


 無事に目覚めてくれたせいか不意に泣きたくなって、込み上げてくる嗚咽を押し殺して自分より一回り小さい体を抱きしめる。

 普段から嗅ぎなれた匂いに胸が満たされていく。

 すると春菜も自然と俺の背中に手を回してくる。

 その感触で駅から続いていた緊張感が抜けて、このまましばらく抱き合っていたかった。

 ただそれも束の間の安息でしかなかった。


「お二人さん。感動の再会でイチャイチャするのは、きちんと事を済ませてからだ」


 からかうようなセルフの話し声の後に、爆音が鳴り響いた。

 沈黙していた巨人が自身を下敷きにしていたデパートの瓦礫を吹き飛ばし、再び立ち上がる。

 空気を揺るがす咆哮と宙を舞い地面に落下する鉄屑、その重い振動が空気と地面を通してこちらに伝わってくる。人間程度の小動物には無いものすごい威圧感だった。


「さあ、今度は楓が頑張ろうか」


 しかしそんな愚考はたった一言で咎められる。セルフは軽い身のこなしで俺の背中に回り込み、右肩を薄情な手つきで叩いてくる。


「な、何言ってんだよ」


 セルフは唇だけで歪に笑う。


「ボクはこれ以上手を貸す気はないよ、君がやってみせるんだ」

「そんなの無理に――」

「決まってる、だなんて本気で思っちゃいないだろうね?」


 俺の言葉を遮るセルフの突き刺すような言葉に呼吸が止まる。


「君はさっきまで、普通じゃありえないことをしたばかりだろう?」


 自分の足だけで、棒高跳びの選手以上のジャンプをして、バイクや車並みの速さで走ることもできた。己の中にある先入観念の全てがこの世界では無意味なのだ。


「なら、あの醜い人外を消すことだって可能だとは思えないかい?」


 けれど、それに対抗する方法がわからない、人間とは比較にならない体躯の化物と正面から殴り合えとでもいうのか。


「どうやら踏み切れないようだね」


 巨人が地面を揺らしながら、俺達がいる方にゆっくり歩いてくる。


「ならボクが言えることは一つしかない。抗わないのなら、死んじゃっていいよ」


 セルフは残酷な言葉とは逆に、無邪気な微笑みを浮かべる。

 迷い込んだこの世界はなんなのだろう。

 夜空には月ではなく地球らしきものが三つもあり、妙なことばかり言う奇人が一人、おまけに特撮紛いの巨人。わけがわからない。

 それでも、たった一つだけ確かなことがある。


「ただ、君が抱いているその子は誰だい?」


 そうだ。あいつは春菜を傷つけたのだ。絶対に許せない。


「楓ちゃん?」

「大丈夫だ」


 訴えるように「行かないで」と無言のメッセージをくれる春菜の背を起こし立たせる。

 俺は対抗するために、近づいてくる巨人に向かって単身で歩いていく。


 身長差は三倍以上、丸太のような太い四肢から考えれば体重は十倍を越えていそうだ。おそらく俺が今までの人生で見たどの生き物よりも強固な存在に違いない。

 シャッターの下りた小さい店が立ち並ぶ細い通りで、互いを威嚇しながら対峙する。凶暴さと気迫こそ感じるが、不思議と恐怖までは感じない。


「セルフ、約束しろ」

「なんだい?」

「もし俺があれを倒せたら、いろいろ教えてもらう」

「くっ、くくっ、あはははははっ」


 声量があるにも関わらず、透き通った哄笑が周辺に木霊する。


「君は美しい上に不器用で真面目……ますます惚れちゃうじゃないか。欣快の至りだね」

「あいつが気に食わない、ただそれだけだ」

「ふふっ、それで十分だ」


 するとセルフは地の底から湧き上がってくるかのような、重く低い声で何かを唱えた。


――この世界に迷いし宵闇の人間よ。その轟然たる虚無の胎動を我、セルフに示せ


 空気を震わせるセルフの声に呼応するかの如く、心臓、遅れて全身が一瞬震える。

 すると体の中から温かい何かが浮き上がってくる。

 蛍のような淡い輝きを放つ、緑色の微細な粒子だった。

 しかもその蛍達は全身の至るところから次々と湧き上がっていき、俺を中心として周囲を不規則に周り続ける。


 不思議な光景だった。

 穏やかな緑の輝きは生命の源のようで、見ているだけで胸の中が満たされるような感覚がする。

 今まで靄が掛かったように重く鈍かった思考回路がクリアになる。

 余計なことが頭の中から抜けて、陶酔感で満たされていく。


 対峙していた巨人は、美しい輝きを放つ緑の粒子達と、それに囲まれている俺を見て怯む。

 眼前の脅威に慄きたじろぐ相手に向かって、俺は試すように一歩ずつ近づいてみると同じ分だけ離れようとする。


 これならいけるかも。

 内に沸いた衝動のまま巨人の赤い双眼を強く睨みつけると、同調するかのように全身を覆っていた緑の粒子達が両手に収束していく。次々と覆われていく両手には、底知れぬ力強さと温かな生命力があった。

 そして集まりきった粒子達に囲まれて光を帯びた両手が、全てを掻き消さんとする程の眩い閃光を辺り一帯に照らした。


「うっ」


 強烈な輝きの前に目を閉じてしまうが、やがて瞼の向こうで光が引くのを感じ、目を開ける。すると、目の前には想像すらしていないものがあった。


 一振りの巨大な片刃の剣が宙に停滞していた。

 それが剣だと判別できたのは、獣の白い牙を思わせる形状で文様が施された鍔から、反りのある刀身が伸びているからだ。


 但しその刀身は、元いた世界には存在しないものだろう。

 金属類や木材で作られた実体のあるものではなく、俺の全身を包んでいた緑の粒子達と同じ色の輝きを放つ、光の刃だった。

 しかも長さは自分の身長以上はあり、刃幅は胴体並みの太さがある。布が巻かれた柄も大きく両手で握っても隙間があるほどで、切先から柄頭まで合わせれば二メートルを越えている。


 そんな未知の得物をしばらく眺めて……美しいと思えた。

 己の内から生まれた物とは思えないほど絢爛で、淀みない清純さも併せ持ち、それに何物にも屈しない力強さがあった。


 今も宙に浮いたままの大剣にまずは片手で触れてみる。

 拒絶されることはない。異物感が無さ過ぎて、自分の体の一部のような感触すらある。

 だから淡い緑の輝きを放つ大剣を、迷うことなく両手で握り締めて正面に構える。

 圧倒的な大きさから重量もあると覚悟していたが、驚くほど軽い。金属バットよりも軽くて竹刀程度の重さしかない。それでも手応えは濃密で俺の両手に重く返ってくる。


 不思議で心地よい時間だったが、前方からの轟音によって現実に引き戻される。

 巨人は大剣の存在に畏怖を感じたのか、怯えを紛らわすように何度か咆哮を繰り返す。


「いくぞ」


 それからは迷う必要がなかった。

 走りやすいように大剣の刀身を右脇に下ろし、眼前の巨人を目指して一直線に駆け出す。

 急に距離を詰めてくる俺に対抗するため、巨人は丸太の腕を叩き付けるように繰り出そうとしてくる。

 目で捉えられないほど速い一撃ではない。しかし俺は、その殺人的な強打を避けることなど全く考えず、出会ったばかりの相棒を信じて真正面からの激突を望んだ。


「うおおああぁ!」


 まともに打ち負ければ即死かもしれないが、そんな理性は振り払う。迫ってくる鉄槌を凝視して、無心で両手の大剣を振り上げた。


 衝撃は思ったより軽い。

 しかし大剣を全力で振り抜いた勢いで体勢を崩す。

 それでも巨人の腕が回転し、夜空を舞っているのが見えた。


 しかしそれだけでは済ませない、クリアな思考が素早く次の行動へ導いてくれる。

 巨人は宙で回転する失った自分の腕を、巨体に似合わず呆然と眺めている。

 その隙を逃さず無警戒でガラ空きの胴体へ向けて、腕力の全てを振り絞って、巨大な緑の光刃を叩き込む。


 一閃。

 自分とは比較にならないほど大きい周囲径がある胴回りに、斬撃の跡が一直線の太い光の筋となって残っていた。

 切り裂く物理的な手応えは薄くても、仕留めたという確信はあった。

 それでも用心深く両足で地面を蹴って巨人との距離を少し空け、大剣を正中線に構え直す。


 すると薙ぎ払った巨人の胴から上がよろめいて上半身が傾く。

 同時に全身の青銅色だった鱗が隅々まで灰色になり、燐光を点滅させていた水晶のような突起物は輝きを失った。

 元々の形状が徐々に崩れていき、それが巨人の滅びだと察する。


 やがて役目を終えたかのように、大剣の大部分を構成する緑色の光刃が切先から収まるように消えていく。

 最後に柄の部分だけが残り、それも薄らと影を残して空間に溶け込む。


――これからよろしくね


 囁き声が聞こえた気がした。

 セルフとは違う声色で、耳元ではなく頭の中に直接響くような不思議な声。

 しかし駅で目覚めてから今まで翻弄されてばかりで、そんな謎を追う余裕は無かった。この妙な世界での現象に対して、常に疑問を持っていたらきっと疲れてしまう。

 最後に干乾び灰となった巨人が風と共に虚空へと霧散していく。


 そんな光景を見ながら思う。

 俺と春菜はこの後どうなるのだろう。

 この世界のことは何もわからないけど、一人で考え続けてもどうしようもない。きっとセルフがいろいろ知っているのだからこの後教えてもらえばいい。

 ただ話を聞くまでもなく、はっきりとわかっていることが一つだけある。


 これから俺は己の全てを掛けて春菜を守る。

 巨人の細かい塵が消えて無くなるのを最後まで見届けると、俺は踵を返して春菜がいる所へと歩き出した。

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