4.夢魔

(1)初めての来客

 きっかけは保健体育の授業で流れた性教育のDVD。

 男子達が悪ふざけを始め、クラスメイト全員が面白おかしく笑っていた。俺は音声すら聞きたくなくて関係ない教科書を読んでいた。


 ふと妙な視線を感じた。

 大人しめな男子二人からの視線。

 それは背が高く成長が早かった俺を性の対象、つまり女と意識するものだった。


 気まずさですぐに視線を逸らされるが、生理的な不快感は全身に残り続ける。

 病院で性同一性障害と言われたばかりだった事もあり、それから他人との接触が嫌になった。


 だから学校へ行かず、暗闇と静寂に満ちた自分の部屋に閉じこもることにした。

 時計を壊し時間を忘れる事で感情も身体も止めたから、苦痛に懊悩とする必要もない。空虚な気持ちで部屋の中を見回した時、視線の先には机の引き出しがあった。


 中にある鋭利な刃物を手に取り眺めると、すぐにある発想が浮かぶ。

 そうだ、そうしよう。

 大きいハサミの刃先を自らの左胸、心臓のあたりに押し当てる。

 少しだけ押し込むと当然痛みが走る。

 こういう時、普通は襲ってくる恐怖のあまり引き下がるらしいけれど、何も感じない。

 押し殺した心にあるのは、空虚な闇だけ。

 もう切り裂いてしまおう。

 他に何もない静謐な心が白く満たされて、何もかも終わらせようとした時だった。


 肌に絡む残暑の空気が嫌で少し開けておいた窓が突然開き、外の風が吹き込んでくる。

 壊された。

 塞いでいた心の境界が抉じ開けられ、他者が入ってくるザラザラした不快な感覚が一気に襲ってくる。苦しまずに済むよう心を凍らせていたのに、なんでそんなに酷いことをするの?

 誰かが窓枠に足を掛け、侵入してくる。


「ひっ」


 怖い――怖い、怖い、怖い、怖い。

 入ってきた影は俺が握るハサミを乱暴に奪い取って投げ捨てる。

 刺激が全くない世界で、軋む心を動かしたくない。俺の中に入ってこないで。

 もうこんなの嫌だ。誰か助けて。


「楓ちゃん」


 柔らかい囁き。

 震える両手で頭を抱え込む俺を、落ち着かせるように抱き締めてくる。

 不思議と恐怖が消えていく。


 固く縮こまっていた両腕を解いて、その優しい声の主を見上げる。

 他には何もせず、俺の顔を見てふわりと微笑んでいた。

 たったそれだけなのに、泥水のように汚い暗闇に侵されていた心が和らいでいく。

 それから両手で俺の頬を労わるように撫でてから、顔を近づけてくる。

 互いの吐息が掛かる距離。


 さらに縮めるように近づき、彼女は自身の透明感のあるなめらかな唇を俺の唇に押し当てた。

 あっ、温かく、甘い。

 体温が自分の中に直接入ってくる感触がして、渦巻いていた闇が消えていく。

 癒される。涙が流れ続けてズタズタだった心の傷口が塞がり芯を取り戻していく。

 安らかで幸せだった。こんな時間がいつまでも続けばいいのにと願う。


 この時、俺は春菜にだったら何をされてもいいと、そう心から思えた。


********************


 ある日、クローゼットを開けると制服ではない私服が一式だけ増えていた。

 それはバイトでお金を貯め、店員相手にしつこい値切りまでしたもので最も愛着がある服だ。

 上半身が程良く引き締まるベストと、太いベルトが斜めに伸びる左右非対称のパンツは黒。それらを覆う厚手のロングジャケットは淀みない白で、映える組み合わせだ。


「前から思ってたけど、この服ってコスプレっぽいし、見ようによっては特攻服っぽいよね」


 お気に入りの服は春菜にやや不評。

 ただ少しオタク趣味も持っている人にそんなことを言われても微妙だから、肩を竦めることで返事をする。

 そんな俺の仕草を気にせず、春菜はハンガーに掛かった白いコートを手に取ると、怪訝な顔付きで警戒しつつ調べるように触り始める。


「ということは……」


 隣にある自分のクローゼットを開けると、深く溜息をしてだらりと項垂れる。


「やっぱりか。眉唾物、ってこういうことをいうのかな」


 春菜のクローゼットの中にも服が一式だけ増えていた。

 アイボリーを基調とした柔らかな色合いで目立ち過ぎない程度にフリルが付いた、ガーリーな印象のシフォンワンピース。これは春菜が一番のお気に入りの服だ。

 疑問なのは、今までロッカーの中には転移する時に着ていた学校の制服しか入れていなかったのに、自分達の私服が突然現れたことだ。


 セルフに質問したくても定時連絡は三日後。こんな時に電話もメールも無いのは不便。ただ仮にこの世界に通信手段があっても、あいつが利用するかは微妙な話だ。

 ただ次の日、日課である夜獣狩りの最中。

 夜獣の素である黒い瘴気の塊を探すためにセーフエリアの外を歩いていると、金属のアクセサリを鳴らしながら夜に溶け込む藍色の外套を靡かせて空を舞うセルフを見つけた。


「楓、偶然だ……おおっ、素晴らしいよ、アニムス。制服姿も良いがその方が実に楓らしい」


 出会い頭に聞きたい服のことを褒められるが、セルフの言われても嬉しくない。


「一応ありがとうと言っておく。それと前からだけど、そのアニムスってのは何なんだ?」


 春菜のことは確かアニマと呼んでいた。セルフは度々俺達を意味不明な言葉で呼ぶ。


「元型、アーキタイプという概念。インサイドではある心理学者が提唱したものだ。アニムスというのは女性の内にある理想的な男性像のこと、肉体はともあれ君の精神はアニムスに近い。だからボクはそう呼ばせてもらう」


 多分、人の内面的な特徴を表す言葉なのだろう。だからなんだと聞いても無駄な気がする。


「話を戻すが、制服というのは秩序の象徴として確かな美を持っている。しかしやはり君には束縛のイメージがない、自由な個人の感性が宿るその服の方が相応しい」


 セルフは妙な喋り方で語り始めることが多い。流されずに元々の話題を忘れないことが大事だと、俺も春菜も最近学習してきた。


「それで、まさにこの服の件で聞きたいんだけど――」


 なぜ知らない間に俺と春菜のクローゼットの中に私服があったのか聞いてみると、楽しげな笑みを浮かべながらセルフは解説を始めた。


「私服というのは自身のパーソナリティの表現であり、またそれを着るということは自分自身のイメージを保っていたい、あるいは主張したい欲求がある証拠だ」


 人差し指を立てて、時折俺と目を合わせるように話を続ける。


「私服ぐらい着たって普通だ、意味なんて得にない。それに制服は学校以外の場所なら着たくないだろ。いつまでも制服じゃ、あんまりリラックスできない」

「そうだね、単純に気軽になりたくて私服を着る場合もある。ただ、楓が今着ている服にはそれ以上の意味があるはずだ。こだわりや主張を感じるね」


 大袈裟なセルフの話を鵜呑みにしたわけじゃない。ただこれには単純な衣服以上の、我が身の一部のような愛着があることは否定できない。


「簡単に言えば、お気に入りの服を着て出歩きたいほどには、楓も春菜も住み慣れてきているということさ。このゲシュタルトにね」


 ゲシュタルトに転移してから三週間も経つ。


「なぁ、セルフ。俺と春菜は一体いつになったら元の世界に戻れるんだ?」


 昼の訪れない夜獣を狩るだけの闇夜を一つ、また一つと越えていく度に思う。

 この生活はいつまで続くのか。

 ゲシュタルトでの暮らしには刺激もあるし、衣食住にも困っていない。

 ただ元の世界では、病院のベッドで眠り続ける俺達を家族が待っているはずだし、学校もきっと休学扱いでやがては退学になってしまうかもしれない。


「前にも言っただろ。インサイドへ帰りたいと願っていればすぐにでも転移するはずだ。今もゲシュタルトにいるのは、本心では帰りたくなくて、この境遇を望んでいるということだ」

「俺は正直この世界を楽しんでいるよ。息切れせずに猛スピードで走れるし、かなりの高さを跳んだり、剣を振り回したりするのは漫画みたいで楽しいさ。けど春菜は違う、不満は無くても望んでなんかいないはずだ」


 すると人を小馬鹿にするような含み笑いをされる。


「はっ、そんな体裁を取り繕うための浅い話なんか下らないね。ボクは君達から「元の世界に帰りたい」と明確な言葉を一度も聞いたことがないぞ。まだ自分達がまともだと思っているようだが反吐が出る。止めてくれ。ボクは退屈なことが大嫌いなんだ」


 セルフは汚い捨て台詞を言い放ち、踵を返してどこかへ行こうとする。

 しかし踏み止まり、振り返らず首をやや傾けてから言葉を付け足す。


「春菜は大丈夫かい? そろそろ彼女は危ないと思うよ」


 それだけ言い残し、どこかへ跳び去っていった。

 最後の言葉は何なのだろうか。

 セルフのことだから悪戯や嫌がらせかもしれないが、それにしては意味深な言い方でふざけた雰囲気も無かった。


 春菜との共同生活が始まってから三週間、毎日姿を見ていても危うさなんて感じない。

 俺と違ってダウナーな時でも気丈に振舞うことが多く、わかりにくい時もある。けど本心では以前の生活に戻りたいはずだ。

 元の世界だと自分の性の悩みに苦しみ、ゲシュタルトだとイデアを扱えてしまうような俺とは違う。春菜は普通の側にいる人間なのだから。


********************


「よし、これでおしまいっと」


 二日置きの掃除を終えるとリビングのソファにダイブする。

 わたしの仕事は家事全般、たまに楓ちゃんのような派手な仕事をしたくなるけれど、それは適わぬ夢であり贅沢だろう。

 それに退屈というわけでもない、数日前に小さな変化もあった。


 スイッチを入れてもノイズだらけだったテレビの画面に、番組が映ったのだ。

 ただ半日は何も映らないし、ニュース等の有益な内容は映らない。それでも中には元の世界で放送されていた番組で毎週観ていたものもあった。

 わたしは元々、趣味が読書や映画鑑賞等といったインドア系であることもあり、引きこもり気味でも悪くない毎日を過ごせている。


 だけど、影が差すように思い返すことがある。

 ゲシュタルトに転移してきてから三週間。

 この暗闇の世界に少しずつ馴染んでいくわたし達は、元の世界に戻れるのだろうか。


 ソファから立ち上がってベランダに出る。

 目の前に広がるのは、星の瞬きをも掻き消すほど眩い輝きを放つ夜景、その中で最も存在感の大きい建築物を見上げる。

 無数の照明によってライトアップされた天空を貫く紅白の鉄塔――東京タワー。

 でもあれは、わたしが知るものと違って巨大過ぎる、偽物だ。

 偽物といえば、東京タワーよりも遥か上空の位置に浮かぶ三色の地球もそう。


 いつかは本物が見える元の世界に帰らなければならない。でも具体的な方法がわからないし、セルフに聞いても「望めばいつでも戻れる」という返事ばかり。

 でも一番問題なのは、現状にわたしも楓ちゃんも焦りや不安をあまり感じていないこと。

 それはセルフの言う通り、本心では元の世界に帰りたいと望んでいないという――


「えっ」


 突然、聞き慣れない電子音。

 わたしの取り留めのない思考を遮るように鳴ったそれが、玄関先から鳴らされたブザーだと気づくのに少し時間が掛かった。初めて聞いたからだ。

 それはわたし達がこの部屋に住み始めてから初めての来客を意味する。


 誰が、何の用だろうか。

 ここはセーフエリアの中。害のあるお客ならブザーを鳴らさずに玄関を壊してくるかもしれないし、先週の男性も危険ではなかったから、心配はいらないはず。

 廊下に足音が響かないようにゆっくり進む。すぐに鍵を開けず、覗き窓から様子を窺う。


 見えたのは、玄関前の蛍光灯に照らされた女性。

 緩やかなウェーブがありブラウンを含んだ赤い髪は肩まで伸び、微風に揺れている。

 澄んだ青空を思わせる碧眼は、覗き穴からわたしを見ている。あちら側からは何も見えないはずなのに全く揺れない視線に誠意を感じる。邪な人間にこんなことはできない。

 その姿勢を信じ、鍵を外してそっと玄関を押す。


 すると小さい視界からではわからなかった彼女の姿がよく見えた。

 背は平均よりやや高そうだ。ただ頬から首元まで露出している白い肌と、メリハリがあり直線的な凛々しさを感じる彫像のような顔立ちから、彼女が日本人ではないとわかる。


「開けてくれてありがとう」


 会釈してから感謝の言葉を口にする彼女は落ち着いていて、大人の余裕が窺えた。


「初めまして。あ、あの……どんな御用ですか?」

「頼みがあって訪ねた。わたし一人で実現するのは困難なことがあるんだ」


 名乗りもせず質問をして失礼だったかと後悔するけど、気にせず答えてくれる。


「ゲシュタルトで話も通じ、しかもイデアを扱える日本人がいると聞いたんだ。君のことか?」


 イデアとは楓ちゃんが扱う大剣、リンダちゃんのこと。


「いえ、イデアを使えるのはわたしじゃなくて――」

「誰だ!」


 外の廊下の奥から大きな怒鳴り声がした。確かめるまでもなく帰ってきた楓ちゃんで、見知らぬ来訪者がいるというだけで過剰に警戒しているようだ。

 わたしは靴の踵を踏み潰したまま急いで玄関から飛び出し、今にも太腿のケースからリンダちゃんを抜きかねない両腕に触れて落ち着かせる。


「楓ちゃん、大丈夫だよ。あの人はきっと平気だよ」

「そんなこと、パーカーの男の時も聞いた。春菜は警戒しなさ過ぎだ」


 わたしは普段から生活範囲がセーフエリアの中で、楓ちゃんは外へ出て黒い霧の獣と戦い続けているため、考えが違うのは当たり前だ。

 するとこちらの様子を察してか、赤髪の白人女性がゆっくりとした足取りで近づいてくる。やや離れた位置で立ち止まるのは配慮にも思えた。


「わたしはジャックという者だ、突然やってきてすまない。できれば警戒しないで欲しい。君にしか頼めないことがあって来たんだ」


 彼女は柔らかな口調で名乗った後も、まだ荒れている楓ちゃんを真っ直ぐ見つめ続けた。

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