(2)ジャックの頼み

 ジャック、という名前は男性のもの。

 偽名かもしれないが今は気にしても仕方ない。

 しかし俺と目を合わせてから全く逸れない視線には真摯な意志を感じた。

 だからひとまず部屋の中に招き入れ、リビングのソファに座ってもらった。


「はい、どうぞ」


 湯気立つ茶呑み茶碗を春菜は彼女へ差し出す。それは自分達では飲まない袋詰めのほうじ茶で、繁華街で物色してきたものだ。


「ありがとう」


 まだ熱いにも関わらず、彼女は音を立てずに一口啜る。

 欧米人にお茶が合うかわからなかったが、飲んでもらえて春菜は嬉しそうだ。

 ソファに座る彼女の姿を改めて見ると、格好や雰囲気が大分違うことがわかる。


 俺と春菜が着ているのはただのお気に入り普段着で、彼女が着ているのは服というより装備や戦闘服の類、まるでファンタジーに出てくる冒険者のような格好だ。

 ジャケットは複数のベルトによって締め上げられインナーもゆとりの無い身体に密着したもの、これは身動きを妨げないための配慮だろう。

 肩から上腕を覆う革のガードのようなものがあり、両手の指抜きグローブも含めて機能性を重視しているように思えた。


 しかしそれ以上に目を引かれるのは、服装よりもその洗練された姿勢や顔つきだ。

 俗な世の中で安穏と育った俺達と違い、その佇まいには洗練さがあり経験の豊富さを感じる。


「申し遅れました。わたしは佐藤春菜っていいます」

「俺は結城楓。俺達は三週間ぐらい前にゲシュタルトに来たばかりなんだ」


 春菜はカーペットの上に正座で座り机を挟んで彼女と向き合い、俺は椅子の背もたれを抱えるように座り、軽い自己紹介を済ませる。


「ここにはセルフの紹介で来たんだ。話が通じて、荒事になってもイデアが使える日本人が最近ゲシュタルトに転移してきたと聞いてね、力を貸して欲しんだ」

「何か手伝うのは嫌じゃないけど、まず話を聞かせてくれ。ただセルフの紹介か、あいつには役立つ事を沢山教えてもらってるけど、信頼しきれる相手じゃない。何か裏があるかも」

 初対面の相手に誰かを疑うような話は軽率だったかとすぐ思い直す。

 しかしジャックには口元を抑えてクスクスと控えめに笑い出した。


「違いない。セルフのことは知り合い以上友人未満程度の関係と思っておくのがいい。今回君達のことを教えてもらえたのも、善意ではなく取引なんだ。薬物依存になった男の更生を頼まれてね、引換に話が通じて戦闘をこなせる人間を紹介――」

「「えっ」」


 俺も春菜も同時に驚いた。


「その人を知っています。彼を救って欲しいとセルフに頼んだのはわたしなんです」


 パーカーの男を探すためにセーフエリア中を跳び回ったのは先週の事。


「あの、彼は大丈夫なんですか?」

「いずれは正気を取り戻してインサイドにも戻れるだろう。ただ依存症を克服するためにかなりきつい処置をしている。内容は聞かない方がいい」


 何かを思い出し、楽しそうに微笑みをこぼす彼女にはやや嗜虐的な怖さがある。聞かない方がいいと言われたその通りのするのが良さそうだ。


「そうか、君達なら……」


 ジャックは指の関節を自分の唇に当て、何かを考えている様子だった。


「あの、わたし達が手伝えることってどんなことですか?」

「ある二人の子供を助けるのに協力して欲しい」


 一度俺と春菜へ目配せしてから、彼女は説明を始めた。


「ここから三十分くらい移動した丘陵地帯に広い施設があって、そこにはアリスとボブという名前の二人の小さい子供が住んでいる。ただ最近、そこには大量の夜獣が徘徊するようになってしまって、二人は建物の外へ出られず閉じ込められている状態なんだ」

「小さい子供?」


 春菜はやや身を乗り出し、オウム返しをする。


「幸運にもその施設は隠れる場所には困らないほど広い。それに普通の夜獣は建物の中に入らず敷地を徘徊しているだけで、隠れた人間を捜し出す知性はない。だから少しの期間なら子供二人だけでも隠れていられるが、いつかは救出してあげたい」


 そこまで話すと重い溜息を吐き、腕を組んでからまた話し出す。


「ただ救出するために大きな障害がある。夜獣の中に灰人がいるんだ」

「ハイジンってなんですか?」


 俺も言葉の意味がわからず、春菜が少し首を捻って問う。


「セルフからはまだ聞いていないか? 燃えカスの「灰」に「人」と書き、灰人と呼ばれる夜獣の一種だ。ただやつらは普通の夜獣と違い黒い瘴気の獣ではなく、変貌こそしていてもわたし達と同じ人の形をしている。中には知性を持ち、イデアを扱えるやつもいる」


 ゲシュタルトに転移した日、巨人となった南野の醜い姿をすぐに思い出す。


「施設にいる灰人は手強い部類なんだ。大量の夜獣がいることも考えると、わたし一人で子供達を連れ出すのは不可能ではなくても確実に成功するとは言えない」


 俺達よりこの世界に慣れているはずの彼女が手強いと言うのなら、その灰人というのは厄介な相手なのだろう。


「それで人手が欲しくて、セルフからわたし達のことを聞いたんですね?」


 彼女は春菜に相槌を打つ。


「楓、頼む。協力してくれないだろうか?」


 ソファから立ち上がり、揺れない碧眼で真っ直ぐ見つめられる。

 俺はその誠意に負けてだらしなく座っていた椅子から立ち上がる。


「いいよ」


 断る理由は無い。ジャックはセルフと違い信頼できる人間だろう。それに誰かを守ろうとしている事に、共感せずにはいられなかった。


「ありがとう、助かるよ」

「この世界に住んで一ヶ月も経ってない若輩者だけど、役に立てるなら光栄だ」

「頼む」


 ジャックは薄手のグローブを外して右手を差し出してくる。

 俺は迷わず握手に応える。同時に最初に警戒し過ぎたことを後悔する。

 知り合って数分でスムーズな意思疎通できたのは彼女が持つ懐の深さのおかげだ。喋り方や仕草一つ一つに邪なものが無く、信じてみようと思えた。

 ただ、問題は来訪者が起こすものとは限らなかった。


「お役に立てるなら、わたしも行きたいです」


 想定外の一言に全身が一瞬だけ固まる。

 カーペットに座っていた春菜も立ち上がり、ジャックに握手を求める。しかし俺はすぐにその手を抑えて制する。


「なっ、何するの?」

「俺が力を貸すのはいい、だけど春菜をそんな危険な場所に連れて行くことはできない」

「楓ちゃん!」


 春菜の釣り上がる琥珀色の瞳から目を逸らさずはっきりと答える。


「俺は毎日外に出て夜獣の狩りをしているし、リンダの扱いにだって慣れてきたから荒事にはある程度対応できる。でも春菜に同じことはできない」

「でもわたしだってこうして、ゲシュタルトにいられる人間なんだよ?」


 絶対に認められない。

 俺にとってゲシュタルトでの最優先は春菜を守ることだから。


「春菜はこのセーフエリアから一人じゃ出られないのに、イデアが必要なくらい夜獣が沢山いるような場所に行くのは無理だろう」

「戦う以外にも必要な役目があるかもしれない」

「役目のあるなしは関係ない、危ないって言ってるんだ。灰人とかいう普通の夜獣よりやっかいなやつがいるなら尚更だ。南野に襲われてた時、春菜は抵抗できなかっただろ? あの時、俺とセルフが来るのが遅かったらどうなってた?」

「もしわたしがいなかったら、先週の男の人はどうなってたと思う? 楓ちゃんは彼を助けてあげるどころか、斬り掛かってたかもしれない。力さえあればいいってものじゃない」


 春菜は質問を質問で返すようなことを滅多にしない。

 先週の男の時もそう、どうしてここまで他人を救うことにこだわるのか。


「ジャックさん、聞いてください。確かにわたしは元の世界にいた時の同じくらいの身体能力しかなくて、強い力はありません。けどもし役に立てること、必要なことがあれば連れていってください。子供がそんなところに閉じ込められているなんて、かわいそうです」


 春菜はグローブを外した彼女の片手を両手で握り、強い視線で訴え続ける。しかしそんな主張に対しての反応は意外なものだった。


「かわいそう……か、久しぶりに聞いたよ」


 ジャックは口元を抑えて控えめに笑う。

 彼女が俺達を見て、面白そうにしている仕草を見るのは今日二度目。


「馬鹿にしているんじゃないんだ。こんな人間らしい他人の会話を聞いたのは久しぶりで微笑ましく思えてしまったんだよ。この昏闇の世界ではとても珍しい」


 そう呟く彼女の顔に、一瞬だけ薄い影のようなものを感じた。

 まるでこの世界の闇に侵され、欠けてしまった何かを諦めているような寂しい表情。


「もちろん無理強いはしないが、聞くだけ聞いて欲しい。戦闘をこなすのはわたしともう一人、その役は楓にやってもらうとして、春菜には荒事じゃない別の役目を引き受けて欲しい」


 悪いが春菜をその気にもさせたくない。


「それでも――」

「アリスとボブを説得して欲しいんだ」


 話を遮ろうとしたが、彼女が言う「説得」という言葉だけが異彩を放って聞こえた。


「さっきも言ったがそこには夜獣が大量にいる。数は大雑把な見積もりで二百は超えている」

「二百って……」


 転移してから今日まで夜獣を沢山倒してきたが、ゆうに超える数だった。そんな群れに立ち向かうのは途方も無い話だ。


「しかも灰人が混じっていることもあり施設にいる全ての夜獣を倒すことは非現実的なんだ。だから大まかな作戦は、わたしと楓が灰人を倒した後に安全を確保、その間に春菜が施設内の子供達を連れ出し、合流して五人で逃げるという手順を考えていた」


 思ったより段取りが具体的だと思ったが、それだけでは賛成できない。


「一番の問題は、アリスとボブは連れ出そうとしても素直に応じないことだ。だから連れ出す前に彼らを説得しなくちゃならない」

「応じないというのは……それにも事情があるみたいですね」


 まだジャックが語らない事情を春菜は求める。


「あの子達は脆い、いつ消えてしまってもおかしくないような儚い子達だ。ほんの少しの外的な要因で消えてしまいそうな危うさがある。それでもゲシュタルトで個としての形を保っていられたのは、あの二人にはお互いがいたから……運命共同体だ」


 それを聞いて、かつての弱すぎた自分を思い出す。


「しかし、もしあの子達が夜獣を前にしたら、きっと自分達の消滅を抵抗せず受け入れてしまう。あの子達は「生」に対する執着が希薄過ぎる。それは「死」を拒否しないということ。夜獣だらけの施設から逃げ出す理由があの子達にはない」


 ゲシュタルトに来てから毎日リンダと一緒に夜獣を倒してきた。あの凶暴な獣に繊細な子供が無残に殺される光景を想像する……あってはならない。


「そんな子供が戦闘中で荒ぶっている人間を受け入れるとは思えない。そこで春菜にアリスとボブの説得をして欲しいんだ。わたしより、物腰の柔らかい君の方が向いてるだろう」

「その役目、引き受けたいです。是非やらせてください」


 そう答える春菜の固い決意は全身に漲っていて、反対してもきっと受け入れないだろう。


「楓、いいか?」


 ジャックは視線を俺に向け、同時に春菜も振り返って俺を見る。二人同時にそんなのは反則だ。


「春菜の受け持つ役割、子供達を説得して連れ出す分には何の危険も無いんだな?」

「もちろんセーフエリアの中よりは危険だが、施設内に夜獣は入れないし、外でもわたしと楓が引き付ければ問題ないと思っている」

「わかった、ならいいよ。それに、もう止めたって無駄みたいだしな」


 食卓にある飴玉を一つ口にする俺を見て、春菜はジャックと手を繋ぎ喜ぶ。

 本当はそれでも合意したくはない。

 それでも認めたのは、春菜ほどじゃないけど、俺もその子供達を救いたいと思ってしまったから。

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