(3)施設突入
駐車場はセーフエリアを探検中に一度だけ通ったことがある。
しかし広いだけで車が一台も無かったため、俺はそれから来ていない。
「これ、すごい」
今はエレベーターの付近に一台停まっている。しかも見慣れた大衆車とはやや趣が異なる車種だった。
そのボディは角張った部位が無く、流線型のフォルムを帯びている。空気を整流するための窪みがフロントバンパーからボンネット、ルーフからリヤフェンダーへ流れている。高速走行を考慮されたデザインだろう。
「本当はもっとスペックが高いやつが良かったんだが、ゲシュタルトで望んだ車を手に入れるのはほぼ無理だ。だが偶然にも母国で作られたこいつを見つけてね、ここ数年は愛用している」
左右吊り目型のヘッドライトの中央に位置するライオンの刻印には百年以上の伝統がある。
「ジャックはフランス人なのか?」
「ああ、そうだ。ゲシュタルトで長く暮らしていても、愛国心を忘れはしなかったよ。さあ、乗ってくれ。急ぐ必要はないがノンビリもしたくない」
俺と春菜が後部座席に乗ると、ジャックは愛車のアクセルを踏み、地下駐車場を飛び出し街灯が照らす誰も通らない夜道を疾走していく。
「そういえばさっき、春菜には強い力がないと言っていたが本当に何もないのか?」
「はい、残念ながら。元の世界にいた頃と何も差がないです」
「抽象的で些細なことでもいい。転移してから何かの特別な能力が身に付いた感覚はないか?」
「んー、思い当たる節はないですね」
春菜の言葉とは違い、俺には脳裏を掠めるものがある。
それはゲシュタルトに転移してきた時に見た、夢のことだ。
夢の中に出てきた春菜は妖しい雰囲気で幻惑するように囁いてきた。あれが何を意味するのかわからない。考えても仕方ない事かもしれないし、危うい気もして、あの妙な夢の事を春菜には話していない。必要ないとも思っている。
「それは妙だな」
スムーズなステアリング操作とシフトワークでジャックはマシンを走らせる。
「ゲシュタルトに転移した人間には何かしらの特異性が必ず付加される。わたしや楓のように運動能力の向上やイデアを扱える人間もいれば、他にも能力は多種多様だ。例えば、空を飛んだり透視能力を持つ事もある。しかし、何も無いというのはありえない」
ジャックは片手をステアリングから離し、指の関節を自らの唇に当てる。部屋でもそうしていたから、きっと何かを考える時の彼女の癖なのだろう。
「そういう場合、備わった力を本人が自覚していない場合がほとんどだ」
「わたし、イデアとかはいらないです」
「どうしてだ? あれは夜獣に対抗できる手段だ。自分も他人も守れる」
「もちろん、使う人次第だというのはわかります。でもわたしには、あれは何かを否定する物のように思えるんです。だからちょっと抵抗が――」
ジャックは前を向きステアリングを握りながら、続く春菜の言葉を遮る。
「その考えはこの世界だと甘い理想だ。ここは人の生命を喰らう残酷な昏闇に満ちた世界だ。何か行動を起こしたいとき、手段が無いと一方的な絶望の前に屈することになるぞ。己の無力さほど惨めで情けないことはないからな」
振り返らずジャックは厳しく言い切る。
そんな彼女がこの世界で経験してきた日々には、冷たく荒れた出来事が多かったことは想像に難くない。
「セルフが言うには、春菜は本来ゲシュタルトに転移してくる人間じゃないらしい。俺が転移する瞬間に手を握ったのがきっかけで巻き込まれただけみたいなんだ」
春菜をゲシュタルトに連れてきた事に俺は今も負い目を感じている。だから先に説明されてしまう前に、自ら話してしまいたかった。
「偶発的に転移しただけだから何の特異性も持たない、そんなことがあるのか? セルフの話なら尚の事きな臭い」
「セルフのことを信頼していないんだな」
「あいつは誰かを助けるために手を貸すことはないし、あっても裏がある場合がほとんどだ。但し普通では収拾できない大きな問題が起こった場合、すぐに対応する。大規模な夜獣の異常発生だとか、インサイドに影響が出るレベルの重大な事態であればあるほどね。本人も言っているが、やつは管理人なんだよ。良くも悪くもだが」
セルフのことを俺と春菜以上に疑い、嫌ってすらいるようだ。
「ジャックさんは、どうして子供達を助けたいんですか?」
彼女は曲がり角でシフトダウンしてから春菜の問いに答える。
「幼い子供を救いたいという単純な考えもあるが……わたしはゲシュタルトで無駄に人助けのようなことを繰り返している。暇潰しや道楽と表現するやつもいるだろうな」
卑屈な物言いをする彼女の自虐的な笑い声は乾いている。
「それに、インサイドにいた頃の同志が……簡単に言えば、悪いオカルトにハマってしまい、世の人々に災厄を振り撒いたようだ。転移してきたそいつは夜獣になり、この手で天誅を下したよ。今も機会があれば代わりに懺悔したいと思っている」
彼女がどんな身の上の人間なのか、知り合って一日も経っていないのに聞くのは失礼だろう。だから控えめな質問に止めてみる。
「ジャックはゲシュタルトに来てから、どれくらいになるんだ?」
「どれくらい……か」
長い直線に入り、ジャックは一段ギアを上げる。
「そんなこと久しぶりに考えたかな。すでにインサイドにわたしの肉体は存在しない。無縁な世界のことを思い返しても仕方ないから、極力思い出さないようにしている」
後部座席からルームミラーを覗くと彼女の表情が見える。それは、遥か遠い何かに対し想いを馳せているようだった。
「ゲシュタルトに転移した日のことなど、もう忘れてしまったよ。ずっと昔のことさ」
********************
ジャックさんの車でしばらく移動すると都会染みた風景が遠ざかっていく。
わたし達は、夜に溶け込み微風に揺れてざわめく樹木達に囲まれた道を進む。
坂道を上り少し経つと、フロントガラス越しに目的の場所が見えてきた。
白いコンクリートの人工物。
とても広く、真っ白な棟が遠くまで続いている。
漆黒の草木達に囲まれたその敷地は周囲の自然環境とは釣り合わず、作為的に切り抜かれた不自然さがある。次々に見えてくる他の建物も白い壁ばかりで、近寄り難い潔癖さを感じる。
「さて、これからの行動だが少し話しておく必要がある」
ジャックさんは街灯の近くに車を停めてキーを引き抜く。
「まずはわたしと楓が先行し夜獣をまとめて引き付ける。一分後、春菜は最初に見えた建物の入口に向かって空いた道を全力で走ってくれればいい」
助手席にあった小さめの紙袋を持ち「これを」とわたしに渡してくる。
「合流予定時間はわたしと楓が車から出てから三十分間後。それだけあればわたし達は灰人を倒せるし、春菜がアリスとボブと話す時間も十分だろう」
紙袋の中身は、懐中時計と四つ折りにされた地図だった。
懐中時計は歯車で動く機械式、持ち運びできる時計を持たないわたしには必要だ。
地図は左側に敷地全体、目標らしき建物が赤字の丸で囲まれている。右側に目標の棟内部を示す見取り図があり、四階には一部の範囲に対し赤字で斜線が引いてある。
「印の付いた部屋のどれかに二人はいる。繰り返すが制限時間は三十分だ。時間通りに迎えに行くから、目標の建物の玄関口に必ずいてくれ。合流できないと最悪の事態になりかねない」
同じ形の紐付き懐中時計を首に通すジャックさんに倣ってわたしも同じようにする。
「例え、二人を連れ出すことができなくてもだ」
「えっ、それって……」
「見捨てるってことかよ!」
意外にも冷徹な一言にわたしも楓ちゃんも驚かずにはいられなかった。
「二人は脆い。もし誘ってもついてこないほど生への執着が希薄なら、この先ゲシュタルトで生きていけない。それに脱出のタイミングを逃し、我々も潰れるわけにはいかない」
その割り切った考え方は、ゲシュタルトで生き抜いてきた人間の考え方なのだろう。
「以上だ、他に質問はあるか?」
「春菜への危険は本当に少ないんだな?」
「ああ、わたしとお前がうまくやれば大丈夫だ」
楓ちゃんは今もわたしを行かせたくないのだろう。
「ではわたしと楓、先発隊は行こう。春菜、子供達の事は頼んだぞ。説得が無理なら諦めてくれ。引き際も肝心だ」
ジャックさんは運転席から外に出て敵地に赴こうとする。
けど楓ちゃんはわたしの隣に座ったまま車内から出ようとしない。
「春菜」
気迫を全く感じない、これから異形の獣と戦う人間とは思えないほど弱々しい。
わたしにも恐怖はある。
ゲシュタルトでの生活が始まって以来、セーフエリアの外で一人になるのは初めてだから。ただ今の楓ちゃんをこのまま行かせるのは危うい気がする。
「作戦通りなら危なくないみたいだし大丈夫。それより自分の役目を果たすことを考えて」
不安を取り除くように、巨大な剣を振り回すとは思えないほど指が細長く綺麗な右手を握って励ます。力を持っていても、危険に立ち向かうのだから。
「うん……行ってくる。春菜も気をつけて」
迷いはあっても少しだけ振り切れたようで、わたしの手を握り返してから頷くと車から出ていく。
そして外で待つジャックさんと一緒に、遠くまで広がる無機質な白い施設へ向かっていく。
わたしは静かな車内で徐々に遠ざかっていく二人の後ろ姿を見続ける。一度だけ楓ちゃんが振り返り、後部座席から身を乗り出して手を振る。
時間の経過がとても長いような気がした。
独りになって広がる胸の不安をジャックさんから貰った懐中時計の秒針を睨んで誤魔化す。
二人が出発してからあと少しで一分。
そろそろわたしも行く頃、そう思った瞬間だった。
周囲の暗闇を消し飛ばさんとばかりに大きな緑色の閃光が二つ、遠くで一瞬迸った。
********************
もう女々しくしている時間は終わりだ。
「いくぞ、リンダ!」
「ご主人、大舞台だからって気後れしないでね!」
聞き慣れてきた相棒の憎まれ口と同時に、暗かった周囲が一瞬だけ緑色に染まる。
自然と神経が研ぎ澄まされる。
馴染んできた己の分身である大剣の柄を手にすると、すぐに獣の牙の形をした鍔から幅広いエメラルドに輝く光刃が具現化する。
それに反応し、物陰に隠れていた狼型の夜獣が殺意を剥き出しにして威嚇してくる。
俺は迎え撃つべく、幅の広い刀身で視界を遮らないように大剣を正中線からやや右にズラして構える。
すると落ち着いた冷静な声が隣から聞こえた。
「ほう、珍しいな。喋るとは、楓のイデアはかなり強い自意識を持っているようだな」
突進してくる夜獣を捉えて、ジャックは手にした何かで斬り落とす。すると夜獣は斬撃の軌跡から真っ二つに別れ、元の姿を失い夜の空気に溶けていく。
その右手が握るのは、刀身が金属ではなくリンダと同じエメラルドに輝く光の刃。鍔や柄はオーソドックスな形状で、映画や図鑑で見たことがある西洋剣だった。
「夜獣の数はかなり多いから、余力を残しながら戦うことは忘れないよう……にっ!」
「ちょっ、ちょっと」
俺へ注意を促しながら、ジャックが起こした行動に俺は目を疑った。
右手に持つ自分の得物を振り上げ、何の躊躇も無く投擲する。すると樹木の影からこちらを覗っていた夜獣に突き刺さり、断末魔の叫声を上げて消滅した。
「武器を捨ててどうするのさ。戦えないじゃないか!」
「そんなことはない」
しかし慌てる俺とは違い、彼女は余裕すらある不敵な笑みを浮かべながら、開いた右手を掲げる。
すると何も無い虚空から浮き出てきたのは、拳銃だった。
「まずはわたしが春菜の通り道を作るから、楓は逆側からやってくる夜獣を片付けてくれ」
ジャックが向かっていく広い駐車場には、黒い瘴気を発する夜獣が何匹か見える。すぐ近くにある建物の入口の位置を考えれば、まず退けるべきは駐車場にいる夜獣だ。
「ご、ご主人。あたしの事は投げないでね?」
「それができる力も勇気も、俺に無いのはお前ならよくわかってるだろ?」
やや震え声でお願いしてくる相棒に対し、俺は左右に頭を振る。高度な技術に圧倒されている場合じゃない。
異常を察してか、建物がある方から夜獣が姿を現す。その中の馬のような形をした一匹がアスファルトの地面を踏み切って襲い掛かってくる。
右脇に構えたリンダを振り抜く。すると黒い霧の馬は爆風に攫われるように一瞬で掻き消える。
しかし同胞の消滅を察してか、建物の奥に控えていた他の夜獣が一匹、二匹と姿を現す。
数は二百以上で灰人という強敵も控えていると、ジャックは話していた。きっと長丁場になるだろう。
近づいてくる二匹の夜獣を睨み、大剣の柄を強く握り中段にピタリと構える。
「頑張ってね」
突然、そんな掠れ声が背後から聞こえた。
すぐ振り向くとマゼンダの細いリボンで結った横髪が流れていくのが見えた。紙袋を片手に抱えて走り抜けていく春菜の見慣れた琥珀色の目と視線が交差する。
その後ろ姿が建物の玄関口に駆け込むのを見届けてから、前にいる夜獣へ注意を向ける。
一瞬の激励だったが、己の魂が震え立つには十分なきっかけ。
二人で住み慣れてきたタワーの1231号室に無事二人で戻ってみせる。
さっきまで二匹だった夜獣は三匹に増え、徐々に近づいてくる。数が増え囲まれて劣勢になる前に俺はその場から飛び出し、手前にいる猪型の夜獣へ大剣の巨大な刃を振り下ろした。
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