(4)アリスとボブ
まず思ったのは運動不足、すでに脇腹が痛みを訴えてくる。
こんな時、わたしには無い楓ちゃんのデタラメな能力が羨ましく思える。
車の中から見えた緑色の閃光を合図にわたしは駆け出した。
緊張もあって走り出してすぐに苦しくなるけれど、夜獣の群れを相手にリンダちゃんを構える楓ちゃんと途中で目が合い、そのおかげで挫けず建物の中に駆け込めた。
入口の扉から夜獣が入ってくる気配は無く、ここまでは順調だろう。
乱れた息を整えて、散っていた冷静な思考を引き寄せて周囲を見回す。
最初に目に入ったのは大きいコルクの掲示板。真っ白な壁に張り付いたタイプと、タイヤが付いたボード状のものもある。
他にも事務所のような部屋もあり、大型のコピー機と何かに使う自働改札機が二台。
行ったことは無いけど、大学か研究施設のような場所だ。
まずジャックさんから渡された紙袋の中にある地図を開く。
現在地に対して目的の棟は二つ隣、目的の場所は四階にある。外から他の棟に行くのは危険だけど、四階に渡り廊下があるため、まずは階段を上ることにした。
二階、三階は一階のように広いフロアではなく、施錠を示す赤いランプが点灯する扉が暗いリノリウムの廊下の先まで延々と続く。他には扉と扉の間にある補助灯が薄暗い光を放っているだけで、不気味だった。
「気持ち悪い」
錯覚とわかっていても肌を突き刺す寒気もする。
自分の足音以外何も聞こえず、変化の無い完全な静寂がこの空間を支配しているように思えた。
四階に上がり、暗い通路を抜け切った後は建物同士を繋ぐ渡り廊下に出る。今までとは違い、そこはガラス窓によって外の景色が開けていた。
上空には見慣れてきた三色の地球、いつもと違い見張られている感触がする。
遠くには広場らしき場所に夜獣の集まりがあり、その中に周囲を緑色に照らす二つの光源があった。きっと楓ちゃんとジャックさんが持つイデアの輝きだろう。
二人とも自分の役割をこなしている。だからわたしも畏怖を振り払い、先を急ぐ。
もう一つ渡り廊下を通ってから細い廊下へ入ると目的の場所が見えてきた。
地図で赤い斜線が引いてある部屋の数は三つ、あのどれかに子供達はいるのだろう。
しかし人の気配を全く感じない。下の階でも見掛けた扉と同じく全てに赤いランプが点灯していた。もう一度地図を確認してみるけど場所に間違いはない。
並ぶ三つの扉の内、ひとまず中央の扉の前に立つ。
試しにひんやりとしたドアノブを捻っても開かなくて、左右の扉も同じだった。
「さて、どうしたものか」
首に下げた懐中時計を見ると、わたしが車を出てから約六分経過していた。制限時間は三十分、子供達には会えていないため時間に余裕があるとは言えない。
そのまま部屋の様子を窺っていても何も変化は起きない。扉の前をうろうろするだけの無意味な時間を費やすより、別の場所を調べる方が建設的だろうか。
まずは地図を開き、踵を返して元来た道に戻ろうとした――その時だった。
――だれなの?
去ろうとするわたしを引き留めるかのように、音叉如く精細に揺れる声が聞こえた。廊下中に反響しているのかと思ったが、実際その声は頭の中に直接響いてくる。
「そこにいるの?」
吸い寄せられるように、わたしは三つの扉に向かって問う。
――ええ、あなたのすぐ目の前にいるわ
詩人が奏でる琴の如く、濁りのない声が頭の中で再び響く。但しさっきよりも高い音だった。声質からして、最初の声は男の子、今の声は女の子だ。
「アリスとボブね? わたしは佐藤春菜。あなた達のことを助けに来たの」
――へー、そうなんだ
二つの声が重なり、より強い振動となって伝わってくる。
幻のようなそれは声ではなく音と表現する方が近い。そんな印象を受けるほど二つの声には生気が無い。
「今、ジャックさんとわたしの幼馴染が夜獣を引き付ける囮をしてくれているの。だから逃げ出すなら今がチャンスなのよ」
――ぼくらのためにそんなことを……ありがとう、お姉さん
男の子は扉の前で訴え掛けるわたしにお礼を言う……だけだった。拒否も肯定も合意もない。ジャックさんの言う通り、素直に聞き入れてくれそうにない。
「あなた達の姿が見たいな。ちゃんとお顔を見てお話してみたい」
――どうしてかしら?
「わたしはゲシュタルトに来てからまだ少ししか経ってないの。だから会話だって普通に声でのお喋りしかしたことない。だから、これってちょっと不公平じゃないかな?」
こういうとき、相手に譲るばかりで弱気な態度を続けると話が進まなくなる。
――確かにそれは不公平だね
――これは失礼したわ
三つの扉全てから無機質な電子音が鳴った。さっきまで光っていた赤いランプが消え、解錠を示す緑のランプに切り替わる。
状況が進展したと考えるべきだろう。
もしわたしを拒否するなら最初から声を掛けないはずだし、馬鹿にしたいなら違う対応をするはず。ただ、まともに話をする気があるようにも思えない。
せっかくの歓迎を無碍にしては失礼だから、まず右側の扉の前に立つ。
「お邪魔するね」
心を固めてからドアノブを捻り、扉を押した。
部屋の中は人工的な光を放つディスプレイがいくつも置かれ、他には技術系の専門書が詰まった本棚や何かの精密機器等で埋め尽くされていた。
不自然置かれた中央にあるソファに、二人は並んで座っていた。
二人とも十歳にも満たない外見の子供。
髪が長くスカートを履いた子がアリスで、髪が短くズボンを履いた子がボブだろう。ただそれは髪型と服装を見ただけで、顔立ちはほぼ同じ。
つまり双子なのだ。
性別で身体的な差が出難い年齢だから、もし髪型と服を同じにされたら判別できない。
――まあ、かわいいお洋服ね
わたしのワンピースをアリスは褒めてくれるけど、嬉しく思えるような状況じゃない。
一方で、二人が着ているのはスカートとズボンに違いはあっても囚人服を連想させる拘束具のようなデザインの黒衣だ。
そして身を寄せ合っている。別々の方を向く視線の先には何もなく、力尽きてしまいそうな互いを支え合っている。
ジャックさんが言っていた通り、この二人は生命が希薄な存在に思えた。壊れる寸前の繊細なガラス細工や命が宿らない人形のようで、触れるのさえ憚れるくらい怖い。
それでも一歩だけ近付き、声を掛けようと息を吸い込んだ瞬間、二人は同時に動いた。
無駄のない機械仕掛けの人形のような動作で、二人の視線はわたしへと向く。そしてなぜか互いを支えていた片腕は左を指差し静止する。
二人の指の先には壁、いや隣の部屋のことを指しているのだろう。
「何を?」
わたしは今も動かない二人を一瞥し部屋を出て、三つある内の中央の部屋の扉を開ける。
そこも似たような内装の研究室だった。
「えっ」
しかし驚くべきは奥にある茶色い両袖のデスクの上にも、双子がいたこと。
二人はさっきの部屋と同じく左を指差したまま、時が止まったように微動だにしない。
わたしに気づかれずどうやってこの部屋に移動したのか、という疑問が浮かぶ……でも今はそんな愚考を捨てる、気にしても仕方ない。
すぐに部屋を出て三つ目の扉を開ける。
そこでも双子は待ち構えていた。
全く揺れ動かずに、今度はどこも指差さず床に座ったままわたしを見ているだけ。不気味ではないと言えば嘘になる、けれどここで圧倒されてはいけない。
ジャックさんは車の中で、ゲシュタルトに転移した人間には何かしらの特異性が付加される、と言っていた。二人の場合は、この現象がそうなのだろう。
「どうしてこんなことするの?」
――どうしてと言われても、ぼく達はそういう存在なんだ
――わたし達は偏在することも遍在することもできる
意味のある言葉だとは思うけど理解はできない。けどわたしの声が通じることは救いだった。
目的は二人をこの部屋から連れ出すこと。
つまらない一般論や飾っただけの美辞麗句は、この子達には通用しないだろう。
ならどうすればいいのか、わたしにはたった一つの方法しか思い浮かばなかった。
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