(3)新居
お洒落な書斎での説明が終わった後、次はわたしと楓ちゃんの住居の紹介や、生活の具体的な説明をしてくれるとのことだった。
そのためにセルフの案内で再び移動することになった。
徒歩でなく電車での移動。
運転手がいるのか気になったがセルフから聞いたこの世界の説明を踏まえれば、奇想天外な話に違いない。この手の興味を常に持っていると質問の連続になってしまうし、傷を治してくれたため大人しくしよう。
二十分くらいで到着して肌寒い雰囲気のする街を少し歩くと、そこには夜の遊園地を思わせる派手な場所だった。
数多く設置された大型ライトが辺り一帯に並ぶレジデンスと高層タワーを照らしている。
「すごい」
セルフは空に片腕を掲げて指を鳴らす。
キレのある音が周囲に響き渡ると、地上や屋上に設置された数々の照明がゆっくり首を振り始める。さながら遊園地のナイトパレードだ。
「第一印象は良いようだね。今の日本人というのはこういう住まいに憧れるのだろう? 家族を持ったりすると変わるらしいが、君達はまだ若い。だからここを選んだ」
セルフは案内してくれるけど、前を向いたまま喋りながら先を歩く。
けど見られている感触がするのはなぜだろう? 特別過ぎる存在のようだから背中に目玉でもあるのかもしれない。
「外と違い、このセーフエリア一帯に夜獣は侵入できないんだ」
セルフがそう呼ぶこの場所は人の住居であり、名前の通り安全地帯なのだろう。
しかしそんな機能的な部分よりも、端々のデザインや雰囲気の方が気になってしまう。
管理が行き届いた芝や樹木、埋め込み型のフットライト、敷き詰められたタイルの間を黒い光沢のあるラインが走る通路、緩やかな稜線を描くレジデンスと空へ向かって伸びる三本の高層タワー、それらが彩る美的な空間がここにはあった。
「素敵」
「少し巡回してから君達の部屋に行こうか、お姫様はたいそうお気に入りの様子だしね」
馬鹿にされたけれど、実際その通りなのだから仕方ない。
敷地の外周には多種多様な庭園があった。
最初に見えたのは、彩り鮮やかな花壇に数え切れない程多くの品種が咲き誇り、甘い香りに包まれている華やかな並木道。
次に、鋳鉄の門扉とレンガ積みの壁に囲まれた空間。ローズアーチが並ぶ通路やティーカップが似合う青銅色のテーブルとベンチもあり、絵画の中にいるようだった。
ブロック状に切り揃えられた潅木の列が幾何学模様を描いている場所もあり、数学的な調和と様式美を感じる。
やや地味かもしれないけど、茶室の中から砂庭が見える場所も静かで和の風情があった。
全て特徴的で世界観が混ざらないための配慮か、それぞれが離れた場所に建っている。
次々に現れていく様々な空間に興奮が隠せない。遊園地や旅行先で感じる刺激と似ていて、足取りは落ち着かなく胸が高鳴りお腹の底が疼いてしまう。
他にも子供用のビビットな色彩のアスレチックジムや、レジデンスの各ベランダからゲームを傍観できる場所にあるテニスやバスケットのコートなどもあった。
そんな目の保養になるスポットを眺めてから、三棟の高層タワーがある中央エリアに行く。
僅かに水の流れる音が聞こえてくる。
最初は川が流れているのかと思ったけど、徐々に大きくなる精華な音でそれが間違いだと気づく。
次第に見えてきた水飛沫は宝石のように煌びやか、複数の水流は長い弧を描いて水面に落ち、タワーを結ぶ空中回廊や水中に設置されたライトによって幻想的な演出に仕上がっている。
それは今までの人生で見た中で、最も巨大で美しい清冽な噴水だった。
「いかがだったかな?」
敷地内に入ってからずっとわたし達に背を向けていたセルフが振り向く。
それがきっかけで、自分が口を半開きにしたまま噴水に見惚れていたと気づく。傍からは頭が悪そうに見えただろうけど仕方ない。これだけの環境なら年頃の女の子は喜ぶものだ。さらに住めるとなれば興奮と感動を抑えることは難しい。
「でもまあ、飽きたらどっか他の場所を勝手に使えばいいさ」
「えっ、飽きるわけなんてないじゃない」
何を言い出すのかと思えば、この謎に包まれたマントくんは性格が捻くれている。
「そう思い続けていられることを、願っているよ」
なぜだろう、その言葉がやけに心の芯に響く。
「……飽きるわけないよ、楓ちゃんもそう思うよね?」
月下の狼のような銀髪になった幼馴染に同意を求めても、何も反応が返ってこない。無表情のまま視線も動かず、茫漠な意識の中に埋もれている。
「ねえ、楓ちゃん」
「あっ……ああ、そうだな」
心ここに在らず。
でも自分がもし楓ちゃんの立場だったらきっと同じ状態になるだろう。
セルフは噴水の手すりに指を滑らせながら、三棟あるタワーの内の一つに向かって行く。
「君達はこの一号棟に住んでもらうよ」
植物の蔓の模様が施された観音開きの扉を開けると、先にガラスの自動扉があり、その横に木材で縁取られた小さなディスプレイと鍵の差込口が付いたコンソールパネルがある。
「
セルフがネタらしき番号をテンキーでリズム良く叩くと、ガラスのスライドドアが開く。
その先は床が大理石のエントランスホール。左側には郵便受けが壁一面に並び、右側には今いるタワーを含めたエリア全体を示す地図があり、天井には巨大なシャンデリアが静かに佇む。
そこまでなら「綺麗な作りだ」という感想だけで終わっただろう。
もしやと思い、各部屋の郵便受けの中を覗いてみる。目を凝らして見てみると、全てに何も入っていないようだ。他の建物を含めて住人はほとんどいないのかもしれない。
郵便受けのナンバーを見ると、このタワーは八部屋のフロアが二階から三十七階まで続くらしい。高い階層に住むことは派手だとは思うけど、そこまで高いと何かと不便だと思う。
「部屋は1231、これが鍵ね」
セルフはホテルにあるような透明のスティックが掛かったルームキーを、馴れ馴れしい手付きで楓ちゃんに握らせる。不必要なまでにわたしの幼馴染の手をベタベタと触る様がセクハラのようで腹立たしい。
「春菜、安心しなって、ボクはこれから用事がある。これ以上、楓には付き纏わないよ」
わたしは心中を読まれて、動揺が顔に出そうになると咄嗟に引っ込める。
「十二時間後にまた下りてきてくれ、セミナーの続きはそれからだ。あの噴水の辺りで落ち合おう。それじゃごゆっくり」
スライドドア越しにセルフは色白の手を振り、最後まで愉快そうに笑いながら去っていった。お世話になっているから文句は言えないけど、彼の事は少し警戒した方がいいと思う。
「楓ちゃん、行こうか」
「うん」
弱々しい声を出す彼女の手をわたしはしっかり握る。
エントランスホールのすぐ側にあったエレベーターに乗って二十三階へ行く。地上との距離と外から吹いてくる風に少し脚が竦みながら廊下を進む。
「開けるよ」
番号札に1231とある部屋に着くと、楓ちゃんは玄関の鍵を開けてドアノブを捻る。
廊下の電気をつけて中へ入ると、そこは生活観に溢れたリビングだった。
ソファやテーブルに本棚と、主要な家具が一通り揃っている。他にもエアコンや電子レンジ等の電化製品も置いてあった。中には固定電話やテレビもある、一体どこに繋がり何が映るのだろう。
隣はシンプルな寝室でダブルベッドと中に何もないクローゼットがあった。
「新しい匂いがする」
新しい匂い、とはフローリングの木材の隙間に残る接着剤の匂いのこと。まだ住人の色が染み込んでないことの証拠だ。
「良い部屋だね」
リビングのカーテンを半分開けた瞬間「綺麗」という感動が自然と言葉に出てしまった。
二十三階の部屋から街を見下ろす夜景は確かに極上のものだった。
「綺麗、だけど……」
素直に言い切れないのは、その風景には肌寒さにも似た寂しさがあったから。
遠くから見た街の夜景とは、ただイルミネーションの輝きが豊かなだけでは感動できないものだ。
この世界に転移する前、元の世界で夕方から夜へと移り行く街並みを眺めていた。焼けるような金色の光に染め上がる建物からは街の歴史を、徐々に灯っていく街灯からは人々の息吹を感じた。
それが、ここから見る景色には無い。
ここはゲシュタルト。
わたし達が元いた世界とは異なる世界だと、この夜景を見て痛感する。
「春菜」
背後から楓ちゃんがわたしを抱きしめてきた。
いや、抱きついてきたという方が近い、まるで縋るように。
その腕は意識しなくてもいい自分の罪を許せなくて、懺悔したいかのように震えている。
「ごめん、俺のせいだ。俺が電車の中で触れなきゃ、春菜は元の世界で普通に暮らせた」
「いいんだよ。楓ちゃんは悪くないよ」
わたしの肩と首の間に顔を埋めてくる楓ちゃんの頭を、子供を慰めるようにゆっくり撫でる。
今のこの子には安息が必要だ。
力無くぶらりとした手を引いて隣の寝室に連れて行き、まずはブレザーを脱がせてベッドに座らせる。同じ学校の制服だが破れている箇所もあるブレザーをわたしも脱ぐ。
今も思考停止している楓ちゃんは、色素が抜けた長い髪の毛を垂らし無気力なまま。
まずは気力を取り戻して欲しい。
彼女の前に立ち、細いラインの滑らかな頬に両手で触れる。そしてやさしく掬い上げるように顔を持ち上げ、吐息が掛かるぐらいの距離で目を合わせる。
するとわたしにされるがままで、楓ちゃんの澱んでいた眼に潤みと光が戻る。
「少し眠ろうか」
********************
薄っすらとした意識が少しずつ鮮明さを増していく。
まどろみから解き放たれると目の前には、ブラウス越しに規則正しいリズムで上下する春菜の胸元。眠りながら、しがみつくように抱き着く俺を全身で包み込んでいる。
二人でベッドに横たわり、春菜は赤子をあやすように俺の頭を撫でてくれた。そのまま一緒に寝付いたのだろう。今まで何度も同じように癒されてきたのに全く風化しない、この優しさに感謝したい。
俺は転移の直前に春菜の手を握り、この暗闇の世界に引き込んでしまった。
それは取り返しの付かない大罪。春菜は許してくれるけど、俺は自らの過ちを許す気にはなれない。
それでもずっと暗く塞ぎ込んだままなのは良くないことだけはわかる。
春菜を起こさないように腕からそっと抜け出す。
静かにベッドから離れると、床に放り出したままのブレザー二着を拾い上げクローゼットの中にあるハンガーに掛ける。
すると不思議なことに気づく。
眠る前まで、ボタンが取れて袖口が破けボロボロだった春菜のブレザーが綺麗に元通りになっていた。俺のブレザーと比べてもサイズ以外に差は無い。
それは疑問ではあるけど、セルフの書斎で春菜の傷がすぐに癒えたことに比べれば小さなことで、この世界に「なぜ」を逐一解いていたら疲れてしまう。
だから気にせず寝室の扉を閉めた。
無音で薄暗いリビングに、カーテンの隙間から微かな光が差し込んでいる。白いレースと花柄のカーテンを開けると、窓の向こうには眩いネオンに彩られたビル街が広がっていた。
サンダルは無く靴下のままベランダに出ると、少し冷たいが心地良い微風が全身を撫でる。
柵に両手を置いて目の前に広がる光景を眺めた。
天空を貫かんとばかりに聳え立つ摩天楼、緩やかな弧を描き街の中を突き抜けるハイウェイ、海を跨ぐいくつかの主塔に支えられ綺麗な曲線を描く白い大橋、レトロな街灯と街中には珍しい針葉樹が等間隔に置かれた道路。
そして少し遠いが右前方に聳え立つのは、赤と白の鉄筋で構成された巨大な電波塔――東京タワー。
ゲシュタルトにどうして東京タワーがあるのか、という疑問は愚考だろう。
あそこには転移する直前に春菜と行った。ただ今見ている東京タワーは元の世界にあったものと比べて縦幅も横幅も何倍か大きい。とにかく巨大で、まるで周囲の建物は配下の家来だと言わしめんばかりの王の如き存在感。
しかしそんな夜景の王でさえ比較にならないほど、圧倒的な存在がこの世界にはある。東京タワーが王ならばそれは神だ。
上空に浮かぶ三色の地球。
俺が知る夜空の月は穢れ無き美しさゆえに、人間に見られるために存在すると子供の頃から思っていた。しかしあの三色の地球は違う。逆にこちらが見られているかのような居心地の悪さを感じる。それだけの威圧感があの三色の地球にはあった。
「楓ちゃん?」
立ち尽くす俺を呼ぶ声、風に靡くレース挟んでリビングに春菜がいた。
俺の隣に来て、外の空気を肺に取り込むように大きく深呼吸する。それからゆっくりと全身を動かし、夜空を含めた辺り一面の夜景を眺める。
「リビングからじゃ見えなかったけど、あれ東京タワー……だよね?」
「うん、多分。でも大きさが全然違うから中身は別物かも」
「縮尺が単純に大きいならシュールで面白いかも。一段がすごく大きい階段とかビッグサイズの椅子やトイレとか」
「エレベーターのボタンに手が届かないかも」
そんな他愛もない会話をしていると、春菜がやや冷えた左手で俺の右手を緩く握ってきた。
数時間前、セルフの書斎でのことを思い出す。
テーブルに置かれた春菜の手に自分の手を重ねた。しかし春菜がゲシュタルトに転移した原因がわかった時、自分自身が許せなくて重ねた手を離した。今はその逆。
「もう平気かな?」
春菜は柔らかく微笑みながら俺の顔を覗き込むように見上げてくる。しかしその聞き方には優しさだけでなく、俺を勇気づけて励ますような温度がある。
そろそろ甘え続けるのは止めだ。
これから暮らす方法を覚えてゲシュタルトに順応していかなければならないのは春菜も同じで、俺だけ情けないままではダメだろう。
「ああ、大丈夫だ」
俺は互いの指を絡めるように手を握り返した。
********************
楓ちゃんは一眠りして気が休まったみたいだ。
まだ空元気な雰囲気もあるし、過剰に自分を戒めている節もある。すぐには気が晴れないだろうけど、いずれ時間が解決してくれる。
リビングに戻ると、二十四まで刻まれたレトロな丸時計を見てセルフとの約束を思い出す。エントランスホールで別れ際、十二時間後にセミナーの続きをすると言っていた。
約束の時間まで六時間以上あるため、二人でこの1231号室を一通り調べることにした。
バスルーム、洗面所、キッチン、寝室、リビング、と巡回する。水道やガスや家電製品等の機械類は元の世界と同じように使えたけど、シャンプーや調味料等の消耗品は足りない物が多かった。その調達方法や他にわからないことは、この後セルフに質問することにする。
一通り調べ終わると、二人でシャワーを浴びることにした。
「いろいろ物足りないね」
お風呂場を見てわたしは嘆き、楓ちゃんもこくりと頷く。入浴用品はハンドタオルと石鹸が一つずつという年頃の女の子には話にならない状況だけど、無い物ねだりは良くない。
しかし一般的なものよりも広いため納得しつつ、服を脱ぎ二人で中に入る。
「春菜、背中流すよ」
楓ちゃんはわたしを椅子に座らせ、泡立てたタオルで肩の辺りから始まり次に背筋へと丁寧に洗ってくれる。
弱めに擦ってくれる繊細な手付きが可愛くて、つい感触を楽しんでしまう。
最後にシャワーで流し終えると、以前と同じように鎖骨から肩甲骨の辺りまで軽いマッサージしてくれたのが気持ち良かった。
いつだったか、雨の日に楓ちゃんが家の鍵を忘れて帰れないとき、わたしの家で二人一緒にお風呂に入ったことがあった。その時を思い出して、微笑ましい気分になる。
「はい、交代」
今度は楓ちゃんを椅子に座らせ、わたしが背後に立つ。
縦に広くてくびれのある均整の取れた背中には、女のわたしでもうっとりするものがある。細い首から鎖骨への曲線美も綺麗でかっこいい。
ただそれ以上に眺めてしまうのは肩越しに見える、豊かな膨らみを持つ二つの果実。
女性の象徴として適度な重さがあり、性的に主張し過ぎることのない上品さも備えたそれを、羨ましいと何度も思った。貧相なわたしのものとは比べたくもない。その残酷な格差は今も開いたままである。
だから同性の無念を込めて、またに揉みしだきたい衝動に駆られる。
「はい、右手上げて」
肩から腕へと洗うふりをしながら、泡だらけのタオルを自分の左手に掛け、背後から素早く両手でたわわな二つの膨らみを一瞬で捉える。
「ほーれほーれ」
「ひっ、わらひゃへぇー」
早業で数回揉みしだくと、楓ちゃんは聞いたことがない変な奇声を上げ、お風呂用の椅子をひっくり返しその場で前のめりに倒れ込んでしまう。
「かっ、楓ちゃん。ごめん、大丈夫?」
楓ちゃんは胸元を片手で隠しながら体を起こし、
「春菜……ずるいよ」
振り向いてから潤んだ瞳でわたしに訴えてくる。
ただそれは怒っているのでも悲しんでいるのでもなく、しおらしい姿だった。
頬が赤いのはお風呂の温水のせいではない。
わたしに「ずるい」と言った唇は今も開いたままで、助けを乞うように声にならない何かを発している。お湯に濡れた表情はうっとりしていて、か弱い小動物を思わせる。なのに、捻った腰から太腿に至るラインには女性としての魅力が詰まっている。
はっきり言ってかなり可愛い、思わず息を飲むほどに。
お風呂場という閉鎖された空間にいるせいか、自分の胸から湧き上がってくる嗜虐的な何かを唆られるようで、もう少しいじめたくなるが……今は止めておく。
これから生活が一新するデリケートな時に、わざわざ刺激的で過ぎた悪ふざけをしなくてもよかったかもしれない。
「ごめんごめん。さ、綺麗にしよう」
誤魔化し半分だけど、倒れた楓ちゃんに手を差し出して再び椅子に座らせ、今までより丁寧に全身を洗ってあげた。
その後お風呂から出て、お互いの髪の毛をドライヤーで乾かし合い、二人共今まで着ていた制服姿に戻る。
気分転換できたのか、楓ちゃんの顔が入浴前よりさっぱりして見える。
わたしも使い慣れたマゼンダの紐リボンで横髪を左右とも結って気合いを入れる。
その後、冷蔵庫にあった食パンと牛乳で軽く食事を済ませることにした。
『いただきます』
二人ともブレザーは椅子に掛け、ブラウス姿で食パンをかじる。しばらく何も食べていないせいか、バターと苺ジャムが塗ってあるだけのパンでも美味しく感じる。
「そういえば、体の傷は綺麗に消えたみたいだけど、感覚の方はどう?」
マグカップを手元に置き、腕と首の調子を確かめてみる。
「もう完全に治ったよ。今なら激しい運動だってできそう」
ベッドで眠る前でも手足の痛みは消えていたが、やや引き攣るような違和感があった。今はそれすらもなく自然に身体を動かせる。
「このゲシュタルトだと、怪我とか服装とか見掛けの状態ってほとんどわたし達の心の在り方で決まるんじゃないのかな。雑に言えば、気の持ちよう」
セルフに聞いた話と治ったわたしの傷や制服を参考にすると、そう思えた。
「例えば、わたしの傷は完治しているけどこれはあの巨人、南野先輩に対して恨みが薄いからだと思う。セルフが『夜獣になった時点で人間ではなく野生の獣』って言ってたのもあって、野生の動物に噛まれたようなものだって思ってる」
もちろんあの書斎でセルフにしてもらった処置の効果も大きいだろう。
「それただ事じゃないだろ野生って」
「動物って恨みで人を襲うことはしないじゃない? 食欲だよね、つまり生理現象。極端に言えば、台風や地震のような自然の災害に似てると思う。だからしょうがないかなって」
要約すれば、負の感情が無いから治りも早かったという話だ。
「じゃあ逆に小さな傷でも、受けた本人がすごく気にしていればずっと消えないとか?」
「かもしれないね。慣れればその場で服装とかも変幻自在に変えられるかも」
自己評価だけど、この世界に来てから体験したことを考えると、この仮説は的外れではない気がする。セルフの言う心象世界という言葉、その概念が少しはわかってきた。
「そういえば南野先輩のことなんだけどさ」
あまり思い出したくない話題なのか、楓ちゃんは一瞬だけ嫌そうに表情を曇らせる。
「彼のこと悪い人だなって思う?」
「善人じゃないのは確かだろ」
確かに南野先輩は節度ある高校生とは言えなかったかもしれない。
「楓ちゃん、体育館裏で南野先輩と一緒にいたわたしを助けてくれたじゃない?」
転移する数時間前、わたしは南野先輩から呼び出しを受けた、放課後に体育館裏へ来るようにと。
悪い評判は聞いていたから少し怖くて行くのを躊躇ったけど、実際に会ってわたしに話し掛けてくる彼に悪い印象は無く、むしろあれは純粋な少年の眼差しだった。
「わたしを暴力で抑えつけようとか、そういうことは無かったよ。最初は不良みたいな横暴な印象はあったけど、あの時の彼は本気だったと思う」
身の回りが大きく変化した時に、こんな話をしても受け入れてくれないかもしれない。
「仮にそうだったとしても電車の中でのことがあるじゃないか」
「そういうやり方しか知らないだけなんだと思う。誰かが教えてあげれば」
楓ちゃんは持ち上げていたマグカップを呆れたようにテーブルに下ろす。
「でも、そんな話してもどうしようもない。南野はもういないんだ。俺はあのイデアっていうデカい剣を使ってあの巨人を……南野を倒したよ。罪悪感が全くないわけじゃない。でも春菜は襲われていたし、抵抗しなければこっちがやられてたんだ」
南野先輩の話題はこれ以上続けない方が良いだろう。
今はタイミングの悪い話だった。でも、いつかは理解して欲しい。生まれたときから悪い人なんてこの世にはいないということを。
楓ちゃんが残りの牛乳を一気に飲み干して、食事は終了。
わたしは食器をキッチンに下げ、洗剤もスポンジも無いため軽く水洗いをする。楓ちゃんはテーブルの上を布巾で拭く。これで片付けは終わり。
本棚の横に掛っているレトロな丸時計を見るとまだ約束の時間には余裕があった。
「これからどうしよっか?」
「外で試したいことがあるんだ。ちょっと早いけど出ようか?」
「うん。わたしもやりたいことがある」
「何それ?」
椅子に掛けたブレザーを羽織ろうとした楓ちゃんに人差し指を立てて答える。
「ちょっと探検に」
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