(2)セルフの説明会2

 急に視界が真っ暗になった。

 フロアの照明が消えた程度でこうはならないため、それは目を瞑っているからだとすぐに気づく。

 目を開けて最初に見えたのは見知らぬ天井、セルフの部屋とは違う場所。


 天井を見上げている事と体に掛かる布団の感触で、ここが病院だとすぐに察する。

 なぜか気怠く体を起こす気になれなくて、首だけ右に倒すと隣のベッドが見えた。

 誰かが寝ている、ただ髪の長さと横顔ですぐに判別がついた。


「はる、な」


 起きたばかりで小さい掠れ声しか出ないが通じたようで、俺と同じように体は動かさず首だけ傾けてくる。

 ついさっきまで洒落た部屋のカウンター席に二人で座っていたはずなのに、妙に安堵する。隣のベッドで微笑む春菜も同じ気分なのだろう。


 この数時間で、非現実的で不可思議な体験をいくつもしたように思えるが……きっと夢だったのだろう。それ以外に説明がつかない。

 今はそう自己完結するのが幸せだ。


 求めるように隣のベッドに手を伸ばすと、春菜も同じように掛け布団から手を出して応えてくれる。お互いに手を伸ばし、それぞれの指先がもう少しで触れ――


********************


 再び急に視界が変わる。目の前には、控えめの照明が当たるカウンター席とコーヒーカップ。


「はい、おかえり。数時間ぶりの肉体はどうだったかな?」


 それとふざけた口調の声を聞いて、セルフの部屋に帰ってきたと察する。

 さっきまでいた場所は病院。

 きっと事故の後に、俺も春菜も運び込まれたのだろう。

 元の世界に戻れていたのは、一分にも満たない短い時間だった。少し糠喜びしてしまったけれど、セルフのことを完全には信じていなかったから落胆は大きくない。


「さっき一時的に楓と春菜の意識をインサイドへ転移させてみた。これでわかってもらえたと思うけど、二人の肉体は病院で守られている。致命的な損傷も無いだろうし、治安の良い日本なら守られるはずだ。ただ君達の社会では昏睡状態と診断されているだろうね」


 急な異世界間の移動をしてきたばかりだというのに、労いの言葉も無くセルフは話し続ける。


「これで実感できたかな? 他にも君達には教えることは山ほどあるけどゲシュタルトの概要については話せたし、あとは実際に経験していくのがいい。ここまでで質問あるかい?」


 こめかみを抑えながら「一つだけ」と春菜が呟く。転移の影響か少し具合が悪そうだった。


「今の意識の移動みたいのはセルフがしてくれたんだよね? 厚かましい話かもしれないけど、一時的じゃなくわたし達を元の世界へずっと送ったままにはできないかな?」

「それは無理だ。今のは管理人の権限でやったけど、永続的に維持できるわけじゃない。続けても無理やりな事だから必ず破綻する。あとこれはボクの事情だが、他にも仕事が沢山あってあちこち行かなきゃいけない」

「そっか……少しだけでも、帰らせてくれてありがとうね」


 春菜も薄い望みとわかっていたらしく、あまり落胆していないようだった。


「いやいや、大したことではないよ。あとは君達の生活や住居についての説明だけど……楓は何か聞きたいことあるかい? 小さな疑問でも答えるよ」


 この部屋に来てから聞いた話は俺にとって難しく、質問できるほど理解もしていない。ただ今までの話題とは関係ない疑問ならあった。


「んー、俺の髪はこんな風に色が変わったけど、春菜の髪はどうして変わりないんだ?」

「あれっ、それ地毛なのかい? 日本人の髪の色は、誰もが真っ黒だと思っていたが」


 春菜の胸元の辺りまで下りている薄い琥珀色の髪の毛を、セルフは意外そうに眺める。しかし本人は、奇異の視線から隠すように自分の毛先に触れる。

 春菜は中学でも高校でも、髪は染めたものではないと教師や同級生に釈明してきた。極端に明るい色でもなく、素行も良いため黒染めを強要されたことはないけれど、いつも気苦労をしてきた。

 カウンターにある春菜の色白でやや冷たい左手に、自分の右手を重ねてから答えた。


「春菜は生まれつき少しだけ茶髪なんだ。昔からそうだった」

「すると妙な話になるね」


 両腕を組み、難しい顔で考え込むセルフに「どうしたんだ?」と率直に聞く。


「春菜、楓の場合は髪だったけど、他に自分の体で変化がある場所はないか?」


 妙な質問に対して、春菜は手足を触り全身の感覚を確かめる。でも手応えは無さそうだった。


「転移した後、夜獣にならず現界している人間は体のどこかに変化が現れる。けどそれが無いなら春菜は本来、ボクの釣りに引っ掛かるような、ゲシュタルトにやってくる人間じゃないのかもしれない。そういえば、太極図の珠はどっちが見つけたんだい?」

「俺だけど」


 図書館の入口で春菜を待っていた時、どこからか転がってきたのを偶然拾った。


「なるほどね。あとは、思い出しにくいかもしれないけど、転移の瞬間のことを聞きたい」


 まだ数時間前のことで鮮明に覚えている。


「学校帰りの電車の中にいた。地震みたいな揺れが起きて車内がパニックになって、いきなり視界がぐにゃぐにゃに歪み出したんだ。あの後、変な囁きみたいのが頭に……あれってもしかして」


 確か「別世界に来ないか?」という意味の言葉が聞こえてきた。でも今思えばあれは――


「そうだ。あれはボクだよ。太極図を持つ人間を引き入れるきっかけに呼び掛けたんだ。他には何か覚えていないかい? 特に春菜のことを聞きたい」


 喋り続けるセルフに惑わされないように、重大な言葉の一節を頭の中で繋ぎ止める。太極図を持つ人間を呼び掛けた……つまり、俺と春菜がこの世界に転移したのはセルフの仕業ということだろうか。

 しかし本人は全く悪気を感じない様子で平然としている。文句の一つでもぶつけようとしても、全くブレない緑色の虹彩には妙な圧迫感があり、なぜか引き下がってしまう。

 だから仕方なく意識が途切れる寸前の記憶を手繰り寄せることにする。


「大きい揺れがあった時、春菜は運悪く頭を打って気を失ったんだ」

「そりゃ余計わからない。太極図の珠を持つ者に対して意識を集中させていれば、同時に転移することも可能だ。あの夜獣はそういう経緯で転移をしたはず。だから珠をきっかけに正規の手順を踏んだ楓と違い、駅のホームではない場所で現界したんだろうね」


 南野が転移した経緯はセルフの言う通りかもしれない。元々俺と春菜へ嫌がらせしようとしていたから、車内がパニックになっても意識されていたのだろう。


「でも春菜は倒れていたんだろ? 気を失っていたんじゃそれも起きないね。うーん……もしかして体が触れてたりしなかったかい?」

「えっ」


 一気に後ろめたさが押し寄せてくる、気がした。


「楓のような人間が転移する場合、皮膚同士の接触があるだけで他人も転移させてしまうんだ。対象に意識があるなしに関係無くだ。意識の交差よりも強いきっかけだよ」


 朧気な記憶を掻き分けて、記憶の片隅に残る視界と感触を掘り起こす。

 車内で荒れ狂う乗客達。俺はどうにか意識を失わずに済んだけれど、春菜は首をだらりとさせて倒れていた。そして視界が歪んで意識が途切れそうになってから俺は――


「楓ちゃん?」


 カウンターの上で春菜の左手に重ねている自分の右手を退けた。

 悔恨の杭が胸を引き裂くように突き破っていく。なぜなら俺は、あの捩れる視界の中で床に投げ出された春菜の手を握ってしまったから。


「俺のせいだ」


 店内を流れていたオーケストラが皮肉のようにその長い旋律に終止符を打った。

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