2.夜の法則
(1)セルフの説明会1
物心がつく、という言葉がある。
わたし、佐藤春菜の場合はいつだろうか。
十六年間の人生最古の記憶は親とのものではなく、同じ年で背の高い女の子の姿。
小さい頃に住む家の右隣に新築の一軒家が建ち、引っ越してきた人達が挨拶に来たことがあった。
親達が話している隣で退屈そうだった女の子を誘い、パズルで遊んだことを今でも覚えている。
それが幼馴染である、楓ちゃんとの出会いだった。
通う幼稚園も同じで家も隣同士だから、わたし達は一緒にいることが多かった。だから先生に「他の子達とも遊ぼうね」と注意されたことがある。きっと周囲からやや浮くぐらいわたし達は仲が良かったのだろう。
小学生になっても、友達以上姉妹未満の関係は続いていた。
だから三年生の時、父親の仕事の都合で佐藤家の引越しが決まると、わたし達はものすごく反発した。二人で駄々をこねて、子供らしい無理難題を親達に訴えたものだ。
わたしが引越ししてからのことは特に語ることはない。
中学二年生になり、再び親の都合で元の家に住むと決まった時は再会が楽しみだった。
五年ぶりに隣の家を訪ねると、そこには同年代の女子に比べて整った容姿を持つ美しい少女が立っていた。それが楓ちゃんだと気づけたのは昔の面影が残っていたから。
しかし昔と違い彼女は荒れた雰囲気で、再会したばかりの頃は話も弾まなかった。それは学校や部活のときでも同じで、遠目でも人に明るい表情を見せることは少なかった。
転校先の中学校ではそんな楓ちゃんを、影があり憂いを帯びた魅力と捉えている生徒もいたけど、逆にわたしは心配だった。
言い過ぎではなく、脆さすら感じたから。
だからある夜、半ば引き付けられるように屋根伝いにわたしの部屋から楓ちゃんの部屋に行ってみた。すると今にも消えてしまいそうなほど儚い姿の彼女がいて、あまりにも弱々しかったから一晩一緒に過ごした。
そこで楓ちゃんは自分の悩みを、全て打ち明けてくれた。
自分自身の性を、肉体面から女とも性格から男とも認識できないという話。
親に病院の精神科に行かされたこと。
好意だとしても自分のことを男子のように見てくる女子生徒のこと。
自分でも意味のないことに悩んでいること。
全て嫌だったと話してくれた。
わたしはそんな楓ちゃんが持つ自意識が異常なものではなく、個性の一部だと思えたのだ。
だから普段の会話から性的な内容だけは避けて、他の同級生と違い特別扱いせず自然体で接し続けた。楓ちゃんに自分自身を嫌いにならないで欲しかったから。
その甲斐あってか、中学卒業の頃にはそんな影は大分消えて、子供の頃の元気と明るさが戻ってきたようにも思える。そして今も同じ高校に通い、気兼ねない関係が続いている。
それがわたしと楓ちゃんの経緯。
しかし平穏な日々は今、大きく変わろうとしている。
わたし達は夜空を背景に三色の妙な球体が浮かぶ、この異質な世界に来てしまったから。
********************
巨人を退けて目先の危機が去った後、俺はセルフに聞きたいことが山ほどあったけれどまずは移動することになった。
「本当に大丈夫か? だっこしようか?」
「それは過保護過ぎ」
思いつきの提案をやや呆れた顔で春菜に断られる。
「でも浅い傷ばかりだから見た目より元気だよ。普通に歩けるし」
二の腕は細く、しかも左手には目立つ擦り傷、それでガッツポーズされると心配になる。
春菜は巨人から逃げる時、手足に擦り傷と切り傷をいくつも作っていた。制服も所々切れて破れたりもしているから代わりに俺のブレザーを着させた。サイズが大きく、手首が隠れて袖から指先が少し見えている。
「セルフ、今から行くところで手当とかできるか?」
「もちろんさ。しかも手軽に済むよ」
前を歩くセルフのことを信頼はし難くても、信用はするしかない。こいつと出会わなければ春菜と再会することもなかったから。
少し歩くと街並みが変わり、凝ったデザインのコンセプトショップが何件も見えてきた。
中でも目立つのが、全面ガラス張りで格子状の白い屋根で覆われた建物、それが三棟並んでいる。夜でもライトアップされていて外観はよく見える。
ガラス越しに中を窺うと、きちんとカテゴリー分けされた本棚が沢山あり、他にもデモ用のモニターや検索用端末、それに読書用なのか様々な形の椅子が置かれている。
本屋にしては装飾が多いお洒落な印象。
前を歩くセルフが一番大きい棟に入っていき、俺と春菜もついていく。二階に上がるとそこは一階以上にアートを意識したフロアだった。
「ようこそ、ここがボクの部屋。書斎兼応接室さ」
部屋というより店という方が近いイメージで、ムーディなカフェやバーを連想する。
照明は暗過ぎない程度に弱く、学校の教室より広い。
中央のカウンター席を囲むようにテーブル席があり、その間の通路を歩くセルフの後ろをついていく。
最も特徴的なのは窓が一つも無く、壁が全て本棚になっていること。本の種類は歴史に関することから科学に関することまで幅広い。ただ気軽に読める雑誌や漫画は無く、俺が苦手で春菜が好きそうな、知識や教養が深まる本が多い。
テーブル席は場所によって机と椅子の形が違い、個人客向けと団体客向けの用途が異なるものが置かれている。
「ここはこだわりの部屋でね、誰でも入れる場所じゃないんだ」
カウンター席に戻ってくると、セルフに椅子を二つ引かれて「どうぞ」ともてなされる。
拒否しても仕方ないため、俺と春菜は互いの顔を見合わせてから席に座った。
セルフがキッチン側に行きタブレットらしきものを操作すると、フロア内に控えめの音量でスローなピアノの旋律が流れ出す。これも趣向の一つなのだろう。
「ちょっと待っておくれ。コーヒーを一杯プレゼントだ」
俺達に背を向けてお湯を沸かすポットをセットしてから豆を挽き始める。手際がよく慣れた様子だ。
「救急箱とかは無いか? 春菜の手当したいんだ」
「まあ焦るな。今準備中だよ」
そう言いつつもセルフはのんびりとカフェのマスターをしているだけ。しつこくても逆効果な気がするから、コーヒーの準備が済んだからまた聞くことにしよう。
セルフが開け閉めした食器棚のガラス越しに自分の姿が見えて、この世界に来てからのことを思い返す。
目を覚ますと妙な服装したやつがいて、そこは夜空に地球が三つ浮かぶ世界で、尋常じゃない運動能力が自分には備わっていて、映画かアニメに出てきそうな化物がいて、馬鹿みたいに大きな剣を振り回すことになって、そして今は洒落た店内で音楽を聞いている。
まったくどんな因果なのだろう。
ガラスに映る自分の長い髪の毛が揺れた。銀色になったそれに春菜が触れ、指を絡ませてくる。壊れ物を扱うような優しい手つきで不思議そうに見ている。
「自分でも驚いたよ、こんなになっちゃうなんて」
数時間前まで普通の黒髪だったのに、今は生え際から毛先まで映える銀の糸。
「色はかなり変わったけど、綺麗なままだよ」
俺とは違い、春菜の髪の毛はいつもと変わらない薄い琥珀色で安心する。だから同じように俺も春菜の髪に触れようとしたけど、
「こらこら、そこ。他人がいるのに二人だけの世界を作るんじゃない。まったく、もしや君達はほっとくとすぐこうなるのかい?」
フィルターをセットしたサーバーへ慎重にお湯を注ぐセルフの手は丁寧だけど、逆に不満を漏らす口調はやや乱暴だった。
「す、すいません」
「わかればよろしい。それと敬語は使わなくていいよ、堅っ苦しいのは嫌いだからね」
謝る春菜にセルフはウインク一つ。
狭いキッチンなのに大きい外套が邪魔で、セルフは少し窮屈そうだ。揺れ動く度に布が擦れるのはいいとして、肩から下げた大きな手帳や金属のアクセサリ同士が当たる音は煩い。
「はい、どうぞ」
セルフはミルクと砂糖を添えて湯気の立つコーヒーカップを差し出してくる。
「ありがとうござっ……ありがとう」
とっさに口調を変える春菜の姿を見てセルフは満足そうに微笑む。
「味は保障するよ、当店自慢の一杯さ」
「それじゃ頂こうかな」
春菜はカップを持ちコーヒーを一口だけ啜ると、不思議そうな眼差しでカップの液面を見る。どうやら不味いことはないらしい。
「しっかし、可愛らしいお嬢さんはこうして礼儀正しいのに、隣にいる仏頂面の怖いこの人はお礼の一つも言えないもんかねぇ」
「別に出してくれとは頼んでないだろう」
「うわっ、酷い。さすがのボクも傷ついちゃうな」
「何言ってんだ、男の癖に」
セルフは胸を押さえ潤んだ視線を向けてくる。俺は呆れて肘を突きカップを持つが――
「えっ……女の子、じゃないの?」
思ってもいなかった意外過ぎる春菜の一言。
濃厚な香りを放つ黒い液体は飲まずに、口を付けただけのカップをソーサーに置いた。
「女の子って、セルフのことか?」
「えっ、違うの?」
「男だろ。だって、自分のことボクって言うじゃないか、それに喋り口調だって男っぽい」
「でも、声が男の人みたいに低くないよ。腕だって細いし肌だって白いし」
「そんなことに、意味あるのかな?」
俺達のやりとりに、セルフは楽しそうな口調で割り込んでくる。
「ボクが男か女か、はっきりしたところで君達に何か影響があるかい?」
こいつは一体何者なのだろう。
普通の人間とは違い、異質で超越した存在のように感じる。
「さて、本題に入る前に改めて自己紹介だ」
フロア内に流れていたピアノの旋律が終わり、弦楽器の緩やかな音に切り替わった。
「楓にはしたけど、春菜にはまだだからね。ボクのことはセルフと呼んでくれればいい。この世界の管理をしている者だ。ようこそ、ゲシュタルトに」
羽根付きのシルクハットを胸元に添えて会釈してから、再びそれを被り前髪を直す。
「わたしは佐藤春菜、楓ちゃんとは幼馴染なの。よろしく」
「こちらこそよろしく、敬語は嫌いだが礼儀正しいのは好きだ。幼馴染の誰かとは大違いだね」
スムーズな二人の挨拶を見て、セルフには初対面なのに胸を揉まれたことを思い出す。あんなセクハラをされれば誰だって自然に接することは無理だろう。
「さてそろそろかな。春菜、具合はどうだい?」
「えっ、あっ、あれ」
春菜は慌てて俺のブレザーを脱ぎ、手足や首、自分の体の様々な場所を確かめるように触る。
何に驚いているのだろう……という疑問は隣の春菜を見てすぐに吹き飛んだ。
この店に入る前、春菜の腕や脚には小さい傷がいくつもあった。しかし今はその傷跡全てが嘘のように消えていて、元通りの綺麗な白い素肌に戻っている。
「治ってるのか?」
「うん、そうだと思う。少しだけまだ痛むけど気にならないくらい」
この現象について自分達で考えても意味はない。
説明を求めて視線を送ると、セルフは俺の反応を待っていたかのように含み笑いをした。
「それは良かった。この部屋に流れる曲とコーヒーに、治癒の効果を含めてみたんだ。一人は軽症でも怪我人だし、一人は転移してきたばかりなのにイデアを使ったしね」
春菜の左手に擦り傷があったのを思い出しそっと触れる。
傷やかさぶたの異物感は無い。見た目だけではなくきちんと治っていた。
「じゃ手当も済んだところで、お話しようか。何から話せばいいだろうか」
セルフはコーヒーを一口啜り、喉を通る感触まで楽しむように飲む。
「まず君達がこれまで住んでいた世界は、インサイドと呼ばれている。対して、今ボクと君達がいるこの世界はゲシュタルトという。察しているとは思うけど、ここでは様々な事情が違うから少しずつ学習していってくれ」
この世界が特殊だということは、俺も春菜も身をもって思い知ったばかりだ。
「例えば時間だけど、ゲシュタルトは昼間が無く、永遠に夜が続く世界なんだ。だから午前も午後も存在しない。一日の時刻を時計で表示するにも二十四時間刻みなんだ。ほら、あれみたいにね」
セルフは壁に立て掛けてある古い柱時計を指差す。
確かに普通の時計とは違い、目盛りが二倍細かい。針が二十四から始まり一周し二十四に戻っていく作りになっている。
「君達の住居はこれから案内する、そこは安全も食料も保証できる場所だよ。インサイドと違ってここでは睡眠と食事をしなくても生きていける。でも君達はまだゲシュタルトに来たばかりだから、これまで通りの習慣を続けた方がいい」
熱いコーヒーが喉を通る感触は元の世界と同じ。ただ栄養など、飲食の効果が元の世界と同じではないのかもしれない……けど聞きたいのはそういう話じゃない。
「あとゲシュタルトは人が少ない。インサイドだと昼間の都会や学校には大勢の人がいただろうけど、ここではありえない。もし誰かと接触するようなことがあれば、それは相手が求めていたり何かの意図があるということ。だから誰かと擦れ違ったって無視しないよ――」
「あのな、セルフ」
銀色になった自分の頭を掻いてから、セルフの話に割って入る。
「俺達はこの世界のことを何も知らない、だからそんな話をするのも当然だ。あと俺達がこの世界で暮らす前提で話されるのも引っ掛かるけど良しとしよう。でももっと重要なことが聞きたいんだ」
「本質的な話から聞きたいの。今の話も大事だけど、わたし達が聞きたいことわかるよね?」
どうやら春菜も同じことを考えていたらしい。
「そうか、どうやら君達を少し見くびっていたようだ……失礼したね。一応、これでも管理者だから、実務的なことから話し出してしまうんだ。わかった、お望みの話をしよう」
天井の照明から届く僅かな光を拾いエメラルドの宝石の如く輝くセルフの瞳を、俺と春菜はじっと見つめた。
「ここはゲシュタルト、全ての人間達が持つ個人的無意識の先にある心象世界だ」
「個人的無意識? 心象世界?」
俺の単語だけの問いにセルフは頷く。
「二人ともこんなことを聞いたことはないかな?」
セルフは両手を水平に重ねて、動かしながら説明を続けた。
「人間の心というのは有意識と無意識の二つで構成されている。その内の無意識の中には個々人が有している個人的無意識があるが、それよりもさらに深層にあるとされる領域があるとしよう。それらは個人のものではなく万人が共有している領域である、とね」
一体何の話をしているのか。俺には怪しい宗教の勧誘にしか聞こえないけど、隣にいる春菜は真摯な眼差しでセルフの話を聞いている。
「全ての人間が共有する精神の最深領域、インサイドの言葉ではこれを普遍的無意識という。ユングという学者が提唱したものだね。普遍的無意識は海のように広がっていて、例外無く全ての人間の個人的無意識とその先の有意識と繋がっている」
単語一つ一つの意味くらいはわかってもそれが限界で、話の内容は全くわからない。
「この世界、ゲシュタルトはその普遍的無意識そのものなんだよ」
セルフはにやりと気味悪く口元を吊り上げ、交互に俺と春菜へ視線を巡らせる。
「前に、本で読んだことがある。人の心の最も奥に存在する深層意識は人類という種が共有してきたところで、そこは太古から人々の遺伝的な経験や記憶に満ちた領域だって。つまりこのゲシュタルトって世界はそういう領域のことなの?」
「まさにそうだ。ほう、君はそういう雑学には多少心得があるようだね」
慣れない語句に翻弄される俺と違い、的を得ている言葉で質問されてセルフは満足そうだ。
春菜の部屋には哲学や心理学関連の難しい本が何冊か置いてあったのを思い出す。
「なら話は早い。このゲシュタルトは全人類が共通する精神の海なわけだが、君達と同じのようにインサイドから迷い込む人間が希にいる、大昔からね。中にはゲシュタルトでのイメージや体験を元に、独自の考え方や価値観をインサイドへ持ち帰った者達がいる。それが各地域の宗教や神話や伝承の元となっていったんだよ」
春菜の眉間に力が入る。理解するのを諦めてぼんやりと聞いている俺と違い、セルフの話に集中し続けているようだ。
「インサイドでは人が住む現世とは違う異世界のことを、天国、地獄、冥界、楽園、理想郷、エデン、霊界、煉獄、千年王国、浄土、といった呼び名で表現しているね。様々な定義や仕組みがあるらしいけどそれらは全て、各々の始祖や創始者がこの世界での体験と個人の価値観を元に作り上げたものだ。つまりそれらの起源は全てこのゲシュタルトということになる。世界の始まりを知るボクからすれば全てご大層な創作にしか思えない。ただそれらはここ数千年、人類文化の形成に多大な貢献をしてきたこともわかっているけどね」
内容を咀嚼しようと俯いたまま「これでピンとくるかな?」とセルフは問う。
春菜は今も熟考したままぎこちなく頷く。そんなのめり込む様子は真面目を通り過ぎて深刻と言えるほどだ。
「全然わからない。俺にはさっぱりだね」
考え込む春菜を落ち着かせたくて頭を撫でるようとすると、
「楓、嘘は良くないぞ」
薄い琥珀色の髪に触れる寸前、まるで俺の手を制止したいかのようにセルフは言う。
「オツムが足りない分だけ理屈はわからなくとも、君の方が実感は強いはずだ。イデアを使えたまま正気を保っていたんだから」
イデアという言葉に覚えが無かったけれど、すぐに察する。俺の中から浮き出てきた、刀身が緑色に光り輝く大剣のことだと。
「無意識の領域というものを多くの人間はあまり気にしないものだ。なぜなら外的刺激で変化する有意識さえわかれば生きていけるからね。けど中には無意識、己の本質と向き合い過ぎてしまう人間が稀にいてね、そういう者達がゲシュタルトに迷い込んで来る」
セルフは妖しい表情で舌なめずりしながら俺の心臓辺りを指差す。
「簡単に言えば、自分の心を見つめ過ぎてしまうということかな、そういう行いは愚かでありながらも美しいけどね。そう、君のような」
胸を貫かれたような感触を隠したくて無表情を取り繕う。
「インサイドとゲシュタルトを行き来することを『転移』と呼んでいる」
「山手線の失踪事件」
春菜が隣でぼそりと呟いた。
電車の中で聞いた説明を思い出す。山手線の電車の中や駅で行方不明者が増えているという都市伝説のこと。春菜は図書館で関連する本を借りるくらい調べていた。
「インサイドでは事件扱いされてるのか。それに関しても少し話そう。キーとなるのはこれさ」
セルフは重たそうな外套のポケットから、何かを取り出しカウンターに置く。
「あれ、これって楓ちゃんが図書館で拾ったやつだよね?」
白黒で勾玉模様をしたオブジェ、駅でセルフが俺の鞄の中から取ったものだ。
「ボクが管理人として行う仕事の一つに、インサイドで災厄の原因になる人間をゲシュタルトに引き入れるというものがある。優しく言えば釣り、きつく言えば害虫駆除」
最後の言葉に冷徹なものを感じた。
横顔を覗くとそれは春菜も同じだったようで、俺は対抗するようにわざとらしく小さい咳払いをする。
「おいおい、気を悪くしないでくれ。君達はインサイドとゲシュタルトの間で発生する自然現象に巻き込まれたようなものだ。これから君達の生活は激変するが、ボクは管理人の義務としてきちんとサポートしていくつもりさ。こうして、いろいろ説明もするし春菜の傷を治したりもしているだろ? ん?」
悪びれる様子もなく饒舌に話すセルフに、何も言い返せなかった。
「その釣りは様々な地域に対し行っていて、今回は日本の東京だった。そこで注目したのが山手線だ。あそこは人の出入りが激しい上に巨大な円環を成している。人の循環というのは普遍的無意識に同調しやすいから、ゲシュタルトへの転移に利用できる」
電車の中で視界が捻れて歪んだ時、俺と春菜はきっと転移とやらをしたのだろう。
「さらにそういう人間を釣るために作った道具が、この太極図をモチーフにした珠だ。これにも人間の精神を普遍的無意識に繋げやすくする効果があり、数時間前にインサイドに何個か撒いた。その一つを楓が拾ったというわけさ。形状を太極図にした理由は、地形で山手線と……中央線だっけ? 二つの線路が地図上では太極図を描いているように見えるからだ」
同じ場所を周回する山手線とそれを横切る中央線。
二つ線路が描く巨大な図形はゲシュタルトへのトンネルだとでもいうのだろうか。
「捲くし立てて喋ってしまったがどうだろうか? 具体的にはわからなくていい。曖昧になんとなく捉えてもらえればそれでいいんだ」
「ちょっと待って。災厄を起こすって……わたし達はそんな悪人じゃないよ」
「善悪の話ではないんだよ。本人に問題が無くても、他人の闇を引き出しやすい人間というのはいる。バタフライエフェクトって知ってるかな? 北京で蝶が羽ばたけばニューヨークで嵐が吹くという例え話だ。同じように存在しているだけで、他人を狂わしてしまう巡りの人間もいるんだ。単純な悪人以外にも、そういうタイプの人間も対象者になる」
セルフの話す内容に心当たりはある。
授業が終わってから転移の直前までに起きていたことを考えれば、俺はそういう人間に該当してもおかしくない。
「しかし、転移した人間全てがゲシュタルトで活動できるわけじゃない。繰り返すけど、この世界は普遍的無意識そのもので、全人類の精神が共有している領域。だから自我の境界を維持できるほど強い心の核が必要なんだ。弱ければこの世界の空気に自意識が溶け込んでしまう」
突然、食器同士がぶつかった音が聞こえた。
「そうなればやがて知性を失った醜い人外になる。あれを夜の獣と書いて『夜獣』と呼ぶ」
春菜が持っていたカップを落としていた。中身が暴れながらカップはソーサーの上に収まる。
「どうした?」
正面の一点を見つめて強張った表情のまま固まっていた春菜が「もしかして」と呟く。
「さっきの巨人って……南野先輩だと思う」
この世界に来る前に同じ電車の中で俺達に嫌がらせを仕掛けてきた、あの南野だろうか。
「襲われる前、あの巨人と少しだけ目が合ったんだけど呼ばれたような気がしたの、佐藤春菜って。姿形は全然違ったけど」
「なんだ、あの夜獣は知り合いだったのか。君達と同じタイミングで転移してきた人間だとは思っていたがね……なーに、春菜も楓も気に病む必要はないさ。夜獣になった時点で人間ではなく野生の獣だからね。君達の倫理や良心を向ける対象じゃない」
コーヒーを一口啜り、喉を通る感触まで味わうように飲むと、セルフは再び話し始める。
「転移の影響についても話そう、これには個人差がある。最も多いのは、転移の途中で跡形もなく消滅してしまうケース。自我が弱すぎる人間が必ずこうなる。負の苦労を知らず、守られて生きてきた人間がこうなりやすい。次に多いのは、ゲシュタルトに来た瞬間に自我が崩壊してしまうケース。この場合は夜獣になるが、さっき楓が葬った巨人に比べれば害の無い貧弱なものだ。どちらのケースもそれだけ弱い人間だったということだが、残念ながらインサイド、特に日本人の九割がこの二つケースのどちらかに該当する」
語りながら右手を翻すように開いて、演奏の指揮者のように閉じる。
「次に稀なケースとして転移して時間が経ってから夜獣になることがある。この場合の夜獣は、元の人間が自我を保っていた時間に比例して強固な存在となる」
「それが南野だっていうんだな?」
セルフは大きく頷くことで答える。
南野に情けを掛ける気にはなれない。俺達にしたことを考えれば自業自得すら思える。ただ抵抗もできずあんな人外に変貌したなら、多少複雑な気分にはなる。
「最後にこれは最も少ないケースだが、君達のように自我の境界を維持したままゲシュタルトに存在できる者もいる。さらにその強靭な精神力によって、イデアという力を行使できるようになる。楓の場合はあの馬鹿デカい得物がそうだな」
両手で握っても隙間が残るほど大きい柄。
己の体内から浮き出てきた緑色の粒子が収束して形成された巨大な光刃。
あれを振り回せたのは少しの時間だけだったけれど、余計な雑念が消えて思考がクリアになった。純粋で濃密な時間だったように思える。
「あの、少し話題がズレるんだけど、どうしても聞きたいことがあって、いいかな?」
謙虚な聞き方をする春菜に「どうぞ」とセルフは手を差し出す。
「わたし達は、今まで住んでいた世界にどうしたら戻れるの?」
それを聞いた途端、俺はすぐに振り向いて春菜の顔を見た。
目から鱗だった、何よりも重要なことを忘れていた。
どうして元の世界に戻ることを真っ先に考えなかったのか。後ろめたさと自分への疑問で混乱する。
「君達がいた世界、インサイドには望めばいつでも戻れるはずさ」
「えっ、じゃあ帰れる方法があるのね?」
春菜は立ち上がり、半ばカウンターに身を乗り出してセルフに問う。
「方法というか……これは君達自身の問題だからね」
弦楽器の演奏が終わり、次は様々な楽器が鳴り響く華麗なオーケストラが店内を走り始める。
「もし本当にインサイドへ帰りたいと望んでいれば、瞬きでもした次の瞬間に二人とも転移しているだろう。でも今もこうしてゲシュタルトにいるということは、言葉ではともあれ本心では帰りたいと思っていないことになる」
「そんなわけない。だってこんなわけわかんない世界にいたいだなんて――」
思っているわけない、と言い切れなかった。それは、射抜くように俺を見るセルフの深い緑色の両眼のせいか、心の奥底で引っ掛かる感触のせいか。
「まあ、焦るな。君達は肉体を失っていない。インサイドには戻れるさ」
「えっ、肉体って?」
春菜の短い問いに、セルフは何かに気づいたのか仰け反って額を抑える。
「ああ、そっか。説明の順序が悪くてすまない。うん……日本の言葉で百聞は一見に届かず、というのがあったっけ?」
話を遮りたくないから、細かい間違いは指摘しない。
「実際体験するのが一番だ。ではひとときの帰還を楽しんできておくれ。レッツラ、ゴー」
セルフはキッチンにあるタブレットの画面を操作し、謎の掛け声のあとスイッチを押すように人差し指で画面を押し込んだ。
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