(4)リンダ

 春菜が言う探検とは、セルフがセーフエリアと呼ぶこのエリア一帯を巡回することだった。

 俺達の部屋があるタワーやその他のレジデンスは空中回廊によって数珠繋ぎにされていて、地上に降りることなく全ての建物を周回できる構造になっている。

 鼻歌交じりでスキップを挟みながら進むご機嫌な春菜は、少し間抜けに見える。


「好きだよな。こういうスタイリッシュで綺麗な建物とかさ」

「うん、大好き。前から歩き回ってみたかったの」


 屈託のない笑顔で答える春菜に、溜息をつきたくなるのはなぜだろう。


「俺も好きといえば好きだけどさ。でも正直、馬鹿にするセルフの気持ちがわかるよ」


 からかわれても全く気にせず、楽しそうに周囲を眺めながら俺の前を行く。

 今は自分達の部屋があるタワーから他のレジデンスへ通じる太い橋の上。左右に設置された植栽を照らす円柱型のアプローチ灯は、近づくと点灯し、逆に離れると消灯する。

 各レジデンスと一対になっている広場には、アルファベットの形になっている奇抜なブランコやハンモックが並ぶ場所や、様々な地域の象徴であるモニュメントやモノリスが並ぶ屋外博物館になっている場所もあった。

 それらが春菜にとって刺激的な空間だったのは聞くまでもない。


「珍しい場所なのはわかるけどこういう場所、春菜は初めてじゃないじゃん? 元の世界じゃネットでそういう景色や建物の画像も集めてたしさ」

「わかってないなあ。雰囲気が似てても、置いてあるものや配置が違うもん。構成の仕方だとか全体像が異なれば、それはまた違う空間になるのよ」


 春菜が難しそうなウンチクを喋るときは機嫌の良い証拠だ。

 その他にも食品が並ぶスーパーもあった。

 灯りは点いていて営業はしているのかもしれない。ただ元の世界の通貨が使えるのかわからないし店員がいるのかもわからない。

 長い空中回廊を一周し終わると、セルフとの約束通り噴水の前に戻った。

 タワーのエントランスにある柱時計を覗くと約束の五分前だった。


「そういえば、楓ちゃんが言ってた試したいことって何?」

「あっ、忘れてた。でもまあ、すぐ済むことだ、よっ」


 俺はその場でやや屈み込む。

 正三角形を作るタワーの先にある三つの地球を目掛けて、脚力の全てを振り絞って地面を踏み切った。跳ねるボールのように上昇する体はタワーの階層を次々と越えていき、最上階に対し半分の位置で勢いを失い落下していく。

 そしてさっき歩いていた空中回廊に着地した。

 地上にいる春菜は「ちょっとー、どうしたのー?」と口に両手を添えて叫ぶ。

 それから噴水を中心としたタワー周辺を猛スピードで疾走し、その勢いで回廊から別の回廊へ飛び移ったりと、元の世界では不可能な運動を繰り返した。

 まだ身に宿ったばかりの力を持て余していて、狙った場所に飛び移ろうとしても位置がズレることもある。しばらく慣れが必要だろう。人間では不可能な激しい動きをしているのに、全く疲れないことにも驚く。


 ただ自分の身体だけでここまで動けてしまうと乗り物がいらなくなってしまう。

 例えば、自転車とかも。


「お待たせ」


 低空飛行の繰り返しに満足し、噴水の近くに着地する。

 しかし待っていた春菜は両腕を組み、全身から不平不満のオーラを放出していた。


「わたし置いてきぼりでさっ、自分だけ楽しんじゃって。良かったですねー、あんなアニメや特撮みたいなアクションができてさぞお気持ちの良いこと」

「あー、ごめんごめん、悪かったよ」


 一分ぐらい放置してしまっただろうか、お怒りの姫様に両手を合わせて何度か謝る。


「でもこれはこれで楽しみが減るかも」

「楽しみって?」

「これだけ自分で動けると自転車、リンダがいらなくなっちゃうと思ってさ」


 数ヶ月前に姉さんから譲り受けたクロスバイクを俺はかなり気に入っていた。

 普通の自転車では出し難いスピード域に連れていってくれる相棒として、馴染んできたばかりだった。


「そっか、リンダちゃんと同じモデルがゲシュタルトにもあるといいね」

「あれば乗りたいけど、今の俺には無くても事足りるのが微妙なとこだよ。少しは不便な方が楽しいかも」


――それは寂しいね


 前触れもなく、短い囁き声が聞こえた。

 頭の中に直接語り掛けてくるような声、セルフかと思ったが声色が違う。

 ただ聞き覚えはあり、それは巨人となった南野を倒した後に聞こえてきた声と同じだった。


「まあ、贅沢なお悩みですこと」


 ふざけながら喋る春菜には聞こえていないようだった。ただでさえ伝え難い話だしこの後にセルフのセミナーも始まるから、今相談するのは止めておこう。


「でも、春菜だって少しは違うんじゃないか? 本気で力込めれば」

「うーん、多分無理だと思うよ」


 春菜は二度大きく屈伸して、それから勢いをつけて地面を力強く踏み切る。

 スカートがふわっと浮き上がっただけで、女子高生の平均的な垂直跳びだった。

 春菜は諦め半分でも少し期待していたのか、悔しそうだ。


「今もこうして普通に会話もできるから、わたしはゲシュタルトで夜獣にならずに済む人間だと思う。でも、もしそういう力が備わっていたら南野先輩に襲われた時、コテンパンにされず逃げられたはずだよ。それにわたしには力が無いっていう、具体的な証明の一つがこれ」


 銀色になった腰まで伸びる俺の髪の毛を、手の甲でさらりと撫でてくる。


「シャワー浴びた時に全身を鏡で確かめてみたけど、わたしには楓ちゃんみたいな変化が少しもない」

「俺の場合は髪の毛だったけど、そういえばセルフは違う場合もあるような話をしてたっけ?」

「それは人それぞれさ」


 声がするまで、気配を全く感じなかった。

 舞い踊る水流の向こう側から、装飾過多な外套に身を包みシルクハットをかぶった道化師が足音も立てずに歩み寄ってくる。


「体に文字が浮かんだり、耳がエルフのように尖ったり、頭に角が生えたりするやつもいる」


 文字や耳はともあれ角はとても嫌だ、自分がそうでなかったことに安心する。


「春菜は楓ほどの運動能力はもちろんイデアも使えないだろうね。春菜は楓に巻き込まれて転移してきただけっぽいから」


 軽薄でデリカシーのない言葉が不愉快なのか、春菜は唇をやや釣り上げる。

「おいおい、そう機嫌を悪くしないでくれ、力は無くてもできることは沢山ある。そんな話をするためにボクは来たんだから」

 セルフは音を立てず片足で地面を蹴飛ばし、噴水の手すりに着地する。


「本題に移ろう。書斎でゲシュタルトに関する話は終わったから、一つだけ約束事をして欲しいだけなんだ」


 俺が「約束事?」とオウム返しで聞くと大きく頷く。


「生活に関することさ。住む部屋を紹介こそしたけど、多分いろいろ足りないだろう? このタワー群の近くに日用品置き場があって、君達の世界の言葉でスーパーマーケットと言った方が良いかな。あそこは好きに使ってくれて構わない」

「ああ、そこならさっき散歩がてらに見たよ」

「でもわたし達、お金持ってないし、あってもそもそもこの世界で通じるのか」


 春菜は夜獣に襲われている時に鞄ごと財布を失くして、俺も転移した駅に鞄ごと置いてきてしまった。しかしあっても、金額は高校生のお小遣い程度。


「いやいや、金なんていらないよ。食料も入浴用品も好きに持っていけば良い。インサイドに比べればこの世界に経済なんて無いようなものさ。それにボクは君達のことを客人だと思っているのだからね……でも、条件が一つだけある」


 噴水の手すりからタイルの地面に着地し、人差し指と中指でこっちに来いと招きながらどこかへ歩き出す。仕方なく俺と春菜もあとに続く。


「条件といっても簡単なことだし、楓にとっては草むしりのようなものだ」

「なんだよ、それ」

「まあ、どんな世界だってただ飯食うのは良くないって教えだよ」

「わたしじゃなく楓ちゃんが必要ってことは、それって荒事だよね?」

「おー、その通りだよ。春菜は本当に察しが良いね、楓とは違った意味で楽しめそうだ」


 セルフは前を向いたまま、少しも首を捻らず喋りながら歩く。背中に口でも付いているのだろうか?

 ただ想像してみると、絵的にかなり嫌だったため脳内で掻き消す。


「さっ、あれをご覧」


 セルフが指差す場所はセーフエリアの末端に位置する場所であり、歩道を挟んだ敷地の隣には広い四車線の十字路がある。

 その中央には、真っ黒なガスとも霧とも言えない奇妙な何かが浮かんでいた。

 揺れながら渦を作りその場に停滞しているそれは、街灯のおかげで夜の暗がりに紛れず見える。

 不気味だった。

 得体の知れない黒い渦を見ると、生理的に受け付けない不快感が少し込み上がってくる。


「いい頃合だ、悪くない個体が出てくるだろう。楓、イデアを出してくれ」

「イデア、って」


 その言葉の意味を理解するのにやや時間が掛かった。

 イデアとは、俺が南野を倒した時に使ったあの大剣のことだろう。そこまではいい。


「えっ、どうやって?」


 高く跳ぶことや速く走ることなら慣れてきた、ただ剣を生み出す方法なんて検討もつかない。

 両手を広げて何もわからないと主張すると「ちっ」と全く遠慮のない舌打ちをされた。


「転移してから一日も経ってないんじゃ無理か。よし、多少乱暴でも仕方ない」


 セルフはひんやりとした色白の手で俺の左腕を掴み、歩道に立ってセーフエリアの敷地外へ向けて俺の背中を押し込んだ。


「な、なんだよ」

「ちょっとだけそこに立ってくれ、すぐ済むよ」


 それだけ言い残してセルフは再び黒い霧の元に向かう。

 含みある笑みを湛えたままの表情からは意図を読み取れない。それは春菜も同じようで、黒い渦の近くにいるセルフの背中を怪訝な眼差しで見ている。

 セルフは用が済んだのか黒い渦から離れて、セーフエリアの敷地内にいる春菜の隣に戻る。

 そして掲げた右手の指を鳴らし聞き心地の良い音が周囲に響くと、一言呟いた。


「弾けろ」


 刹那、言葉の通りに黒い渦が四散した。

 一瞬収縮してから弾けて、やがて大型の犬や虎を思わせる獣のような形状を成していく。炯々と光る眼や爪と思わしき刃が明確になると、それらは一斉に跳び掛ってきた。


「楓ちゃん!」


 黒い霧の獣は赤い双眸の軌跡を残しながら、俺に狙いを定め襲い掛かってくる。体が動いたときは元あった距離の半分以上はすでに詰められていた。

 夜獣達の急突進に対し両腕を構え覚悟を決めた時、俺の本能に呼応するように――生まれた。


 目の前に浮かぶのは、黒い文様が施された白く鋭い牙。

 飛び込んできた一体の夜獣がそれと接触すると眩い緑色の閃光を発し、千切れた布のように揺らぎ消えていく。

 それを見た他の夜獣達は反転、警戒し俺から距離を取った。

 牙を思わせる鍔から長い握りの部位が伸び、柄頭まで具現化する。

 そこからエメラルドに光り輝く片刃の刀身が、己の存在を誇示せんとばかりに天へ反り立っていく。


「楓は転移してからまだ時間が浅い。だからイデアは危機感をトリガーに強制的に発動させるのが一番手っ取り早かったんだよ。悪かったね」


 今更何を言うのか。ここまで社交辞令が十割の謝罪は聞いたことがない。


「あの巨人型に比べればかなり下等だけど、そいつらも夜獣だ」


 巨人の時と同じで、頭の中から雑念が無くなり戦闘だけに思考を集中できる。

 眼前に浮遊する大剣を手に取り、深い唸りを響かせ敵意を向けている夜獣達に切先を向ける。すると人の仕草ではないが、夜獣達がたじろいだように見えた。


「夜獣は今ボクと春菜が立つセーフエリアの敷地内に侵入できないが、今のように瘴気の塊となってゲシュタルトの至る所に存在している。やつらは自然に増えていくから、掃除を頼みたい。それがタワーの部屋に住むことと日用品置き場を利用する条件だ。守って欲しい約束事さ」


 親切とは言えないがわかりやすい説明だった。

 しかし今は目先の危機に集中する。残りの夜獣は三匹。

 相手に対する恐れは全く感じない。自惚れではなく、あの夜獣達では何をしたところで俺に致命傷を与えられないと本能でわかる。


 俺と睨み合っていた残りの三匹が我慢に耐えかねて、猛烈な勢いで飛び出してくる。

 中央と左と右、三方向から同時に喰い掛かってくる。

 一匹ずつに対処していたのでは残りを避けられないため取る方法は一つ。

 柄頭に手を引っ掛けるように握り野球のバッターの要領で構えて迎え撃つ。息を止めて、向かってくる夜獣達をギリギリまで引きつけ、切先が届く間合いに一匹目が入った瞬間、一気に大剣を振り抜いた。


「はっ!」


 緑に煌く光刃の軌跡。

 それを軸にして三匹の夜獣は歪み、真っ暗闇の空に同化していった。


「お見事、にはあと一歩ってところか」


 セルフの言葉通り、頬に横一文字の痛みが走り、血が頬を伝う熱い感覚がした。

 夜獣の爪が届く前に、三匹まとめて倒そうと長くて広い一撃に賭けたが、どうやら少しだけ大剣の振りが遅かったようだ。


「楓ちゃん、こっち向いて。ちょっとセルフ、説明するにもスマートなやり方はできないの?」


 春菜は抗議しながら、取り出したハンカチで俺の頬を伝う血を拭き取る。


「これは手厳しいな。ボクにとっては一番スマートなやり方さ。実演と少ない言葉でシンプルな説明をしたはずなんだが」

「まだ転移して間もないわたし達に、慣れない常識を押し付けるのが管理人のすることなの?」

「あれだけ上等なイデアを持つ者なら負ける要素は無かった……楓、君が上手くやらないから春菜に怒られてしまったじゃないか。これだけ雄々しい得物が泣くぞ」

「雄々しいって……確かにこいつはデカいけど、綺麗だと思うんだけど」


 わかっていないな、とでも言いたげにセルフは人を小馬鹿にするように頭を振る。


「楓、君は男性と女性、両方の特徴を併せ持った人間だ。その魂は男性のものだが、姿形は紛れもなく女性のもの。だから均衡を取るために男性としてのイメージが、そのイデアの形状に反映されているだろ? わかりやす過ぎるほどにね、象徴的じゃないか」


 含むような言い方で回りくどい表現をされるのも慣れてきたけど、片手で持つイデアを見ても意図がわからず首を傾げて降参してみる。


「具体的に言えば……硬くて、太くて、反り立っているじゃないか」


 セルフは半笑いのまま、特徴を表す語句に抑揚をつけて強調しわざとらしく話す。

 エメラルドの刃が地面や壁に擦れると鳴る音は金属に近く硬質。

 柄を両手で握らなければ不安定な程大きく、特に横幅は図鑑で見る剣や刀より桁違いに太い。

 片刃の刀身は日本刀に近い角度の曲がり方をしていて、確かに反り立っている。


「な、なんか、嫌だな」


 残念ながら、それらの特徴は全てセルフが言った内容と合致する。

 俺は柄を握っていた右手を弛め、三本指でつまむようにイデアを支える。そこまで具体的に察してしまうと、一緒に戦った相棒でも生理的に抵抗したくなる。


「黒光りしていないだけ良いと思わなくちゃ。二つのミートボールも無いし」

「フ、フロイトの夢分析かな? あはは……」


 春菜は乾いた声で笑いながら俺の血を拭いていたハンカチを折り畳む。それからやや苦い顔をして、俺がイデアを持つ右手とは逆の左側に余所余所しく隠れる。

 猥談もそろそろ切り上げだ。スーパーの利用や部屋のテレビ等、細かい質問がまだ沢山残っているのだから。


「そんなに汚い目で見なくてもいいのに」


 また囁きが聞こえた。

 セルフと合流する前に聞いた声と同じだった。

 しかも今度は脳内に響くのではなく直に耳に入ってくる声だ。


「えっ、今の誰?」


 春菜は自分の耳元に両手を添えて、俺とセルフへの目配せを交互に繰り返す。どうやら今の囁きが聞こえたようで突然の声に混乱している。


「ほー、君はホントに面白いね。こりゃ珍しい。インサイドの言葉ではSSR、URというやつだな」


 セルフは声の正体がわかっているようだった。

 ただ当然ながら混乱する俺達はおざなりで、説明せず一人で納得している。再び質問するのも癪だったため、セルフの視線がどこへ向いているのかよく観察して追うとそこは、俺が右手に持つイデアだった。


 刃先が地面に若干めり込んだまま沈黙している大剣。

 俺は息を潜めて何かを待つようにじっと見続けた。すると、獣の牙を連想する鍔に刻まれた黒い文様が緑色に変化して――


「ご主人、あたしにようやく気づいてくれた?」


 その話し声が途切れると、文様は再び元の黒に戻った。


「しゃ、喋った!」


 突然のことに驚き、イデアが倒れないように支えていた三本指をつい離してしまう。しかし支えを失ってもアスファルトに落ちず、見えない力でその場に止まる。

 切先を夜空へ向けて垂直に起き上がり、俺が手に取りやすい高さまで浮遊して止まる。その一連の動きは機械的ではなく、起き上がる人間のように有機的なものだった。


「初めましてじゃないけど、ご主人これからよろしくね」


 鍔の文様を刀身と同じ色に点滅させながら、イデアは甘いフェミニンな口調でそう言った。


「ふむふむ」


 セルフはイデアを挟んで俺と逆の位置に立つ。顎を撫でながら唸り、天へ反り立つ刀身から柄頭まで鑑定するように眺める。


「イデアに関しては説明不足だったね。これはゲシュタルトで生き抜くための単なる武器なんかじゃない、持ち主の精神が反映された分身のようなものだ。道具や武器ではなく相棒みたいに思えばいい」


 つまりこの大剣を、自分自身の体の一部とでも思えばいいのだろうか。だとすると、自分と会話するというのはとても奇妙な事でやや受け入れ難い。


「しかし独立した自意識はあっても、喋るイデアは本当に珍しい。楓、君はインサイドで相棒や仲間と言える間柄の人はいたかい?」

「相棒……一緒にいる時間は、春菜とが一番長いけど」

「春菜は少し違う。君達は親密ではあるが、連携や共闘をする仲ではない」


 中学の頃は陸上部で個人競技ばかり、高校では帰宅部だ。その他の友人関係を巡らせても、相棒と呼べる知り合いはいない。


「こ、こんにちは」


 春菜も空中に停滞するイデアの近くに来て、刀身の峰に指先で慎重に触れる。


「あら春菜、こんにちは。あなたともお喋りしたかったわ」


 人の姿をしていない未知の存在との接触に成功し、やや緊張気味だった春菜の表情が晴れる。


「あのー、イデアって呼べばいいのかな?」

「それは止めた方がいい。彼……いや、彼女を『イデア』と呼ぶのは、君達が『人間』と呼ばれるのと同じだ。名前を付けてあげないとね」

「その必要はないわ。あたしには名前があるから」


 鍔を軸に巨大な刀身を自ら左右に揺らす、まるで人が頭を振っているかのような動きだ。


「あたしのことは……リンダ、と呼んで」


 聞き覚えがあるどころではない、その名前に馴染んできたのは最近のことだった。

 春菜は少しの間、空中に浮く大剣を唖然とした顔で眺めると、求めるように俺に視線を送ってくる。


「なんだなんだ君達、ボクにもわかるように教えてくれよ」


 セルフが説明を求めてくる、人への話を後回しにして一人で納得することが多い癖に都合がいいやつだ。


「リンダっていうのは、元の世界で俺が乗ってたクロスバイクのことだ」

「すまない、クロスバイクって何? インサイドの言葉は辞書に載っているものしかわからないんだ。俗世間での造語まではちょっとね」


 焦れったい説明をするときもあるけど、質問するときの姿勢は謙虚だったため素直に答える。


「簡単に言えば普通よりスピードの出る自転車だよ。少しメンテとか必要だけど」

「愛着が湧く乗り物か、なるほど……それって相棒じゃないか。楓の中にあるクロスバイクへのイメージや思い入れがイデアに投影されたんだろうね。現し身だよ」


 また抽象的な話だが仕方なく受け入れる、理解を深めようとしても無駄だ。

 しかし訳が分からず黙っていても仕方ない。セルフとの約束である夜獣の掃除係をやっていくには、この喋る大剣としばらくパートナー同士になるだろう。


「リンダちゃんか……あのね、お礼を言いたいの。わたしが襲われていた時に楓ちゃんと二人で助けてくれてありがとう。これからもご主人様の力になってあげてね」


 春菜は牙の形をした白い鍔に触れ、まるで子供の頭を撫でるように擦る。


「安心して、まかせて欲しいわ。あたしがいればいつでもご主人に春菜を守らせる・・・・から」


 聞き違えただろうか。リンダの言葉が妙な言い回しに聞こえた。


「ご主人、あたし春菜になでなでされちゃった、羨ましい? 悔しかったらもっとあたしの事を上手く使うことね、うふふふっ」


 まるで本性を現したかのように、突然春菜をネタに変な煽られ方をされる。


「羨ましいって……お前、俺のことご主人って呼ぶじゃないか。礼儀ってもんがあるだろ」

「礼儀って何それ、美味いの? 犬にでも食わせれば? 主従関係なんて既成概念過ぎて何の事だかさっぱりプーだわ」


 予想を遥かに超えた汚い減らず口に自分のこめかみが引きつくのを感じる。

 乱暴に柄を右手で掴み、戦慄く左手を幅のある刀身に添え、鍔を睨みつける。


「おい、自慢の刃をへし折ってやろうか?」

「ご主人のへなちょこな力じゃビクともしないわ」


 出会い頭になぜ喧嘩を売られているのかもわからず、絶句するしかなかった。

 元の世界で愛用していたクロスバイクのリンダには……三日に一度は白いフレームを磨き、高校生のなけなしの小遣いでクリーナーやオイルを買い、やがてはホイールの交換まで計画していた。貢ごうとしていたと表現しても過言じゃない。

 そのリンダの現し身がこんなやつだとは……やりきれない。

 切なさと悔しさで柄を握る力を強くしても、微動だにしない沈黙で対抗してくる。


「これこれ、二人とも止めなさい。仲良くだよ」


 春菜は俺の頭とリンダの鍔をリズム良く叩く。

 すると柄に比べて圧倒的な長さのある刀身が、切先から緑の粒子に分解していき虚空へ溶けていく。やがて鍔から柄頭までが残り、浮かんだまま寄り添うように春菜の胸元に居座る。

 姿形は剣で表情を読み取れないけど、俺への当て付けのように思えた。

 主人と呼ぶ割には反抗的で、春菜には素直で従順、この態度の差は何なのだろう?


「分身? こんなのが? 何かの間違いだろ?」


 受け入れ難い現実への疑問は消えず、吐き捨てるようにセルフに訴えてしまう。そんな自分の様が八つ当たりのようだと気づいて後悔するが、


「いや、分身だ」


 淡白な一言で返される。


「人間にはいろんな側面がある。例えば、どれだけ無口な人間でもギャグセンスに長けているやつもいる。筋骨隆々な大男が少女漫画を読んでときめくこともある。複雑な話さ。自分自身の一部とは思わない方がいい。さっきも言ったが、相棒と捉えればいい」


 淡々としたセルフの説明を聞いていると荒ぶる気分が静まる、それが癪に思えて逃げるように夜空を仰ぎ見る。


 視界には雲一つない満天の星空が広がっている。元いた世界でも眺めた光景だが、俗世間と隔絶されたこの世界の星々は光の純度が高い気がして、見ているだけで飲み込まれてしまいそうだ。喜怒哀楽、人間の感情全てを掻き消してしまうような強過ぎる輝きに思える。


 そんな見慣れない星空に特別な感想を抱いている俺は、まだこの世界のことを何も知らないと痛感する。

 いつかは元いた世界に戻れるのだろうか。

 その答えはきっと、暗闇の天空から俺と春菜を嘲笑っている三つの地球だけが知っている。

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