5.救い
(1)東京タワーの主
小学校の頃まで生まれ育った家に引っ越すと、仲良しだった幼馴染と五年ぶりに再会した。
彼女も中学生になり、美しい容姿を持つ少女へ成長していた。
でも空虚な雰囲気を常に纏い、壊れてしまいそうな危うさも同時に持っていた。学校の中でも外でも同じで、わたしはその姿がとても心配で気になっていた。
だからある日の夜、屋根伝いに隣の家に住む彼女の部屋まで行き、窓の隙間から中を覗いて良かった。
ただの気まぐれだけど、天啓だったかもしれない。
大きめのハサミを右手に持ち、その刃先を左胸に押し当てていた。
そんな彼女の姿を見てわたしは焦り、止めようとする……はずだった。
自らを傷つけようとする彼女の脆く繊細な姿に目が釘付けになる。
まともな倫理観では過ちだとわかるのに、わたしはその光景をいつまでも見ていたいと思った。
もちろんそれは人として禁忌に触れる行いで、そんな不謹慎な衝動に駆られている自分自身が信じられなくて、一人その場で混乱する。
けれど一時の気の迷いだと理性で黒い誘惑を振り払い、ハサミを押し進めようとする彼女を止めるため、窓を一気に開き部屋の中へ強引に入った。
突然現れたわたしを見て彼女は異常なまでに怖がり、フローリングの床に足を滑らせながら慌てて部屋の隅に逃げようとする。
そんなあまりにも弱い彼女の姿を見て高鳴ってしまう自分の胸を抑え、まずは危険なハサミを強引に奪って投げ捨てる。
それでも激昂が収まらず錯乱する彼女へ、わたしは声を掛ける事にした。
「楓ちゃん」
優しく呼び掛けてから、身を守るように縮こまる楓ちゃんを抱き締める。
背中を摩ってあげると少しずつ全身の震えは静まり、やがて恐る恐る顔を上げてくれた。
救い癒してあげたいと思う気持ちは嘘じゃない。
けど悪い事をして親に許しを乞う幼児のようなその表情を見た途端、自分の心臓が揺れ動く。突然生まれたこの衝動が、とても醜いものに思えた。
両手で楓ちゃんの頬を撫でながら微笑むことで取り繕う。
それからは体が勝手に動いた。
お互いの息遣いが聞こえるくらい顔を近づけたまま見つめ合うと、心に踏み入っても拒否されないとわかる。
未成熟な果実を思わせる薄い桃色の唇に引き込まれ、わたしは自分のそれを押し当てた。
初めての粘膜同士の接触は、柔らかく、温かくて、美味しい、と思えた。
されるがままの楓ちゃんをさらに求めて唇の先へ侵入したい。
けど今は衝動を抑えて、力ない肩を支えながら身を引き、再び楓ちゃんと視線を合わせた。
「急に変なことしてごめんね。でもこうするのが良いと思ったの」
もちろんそれは、疲弊した楓ちゃんを救う自分を取り繕うための大義名分、嘘だ。
誰にも言うことなどできない。
もしかしたら死ぬまでずっと隠し通して生きていくことになる。
わたしは無防備で傷だらけだった幼馴染のことが愛おしくて、どうしようもなく惹かれてしまったのだ。
********************
「――あの二人はあまりにも存在が希薄過ぎた。結果としてあの灰人に殺されたが、いずれ何の前触れもなく消失していたのは言うまでもない」
目覚めのきっかけは話し声だった。
「アリスとボブ、あの子達は運命共同体。互いを認識し続けることが唯一の願望だった。ゆえに他に求めるものは何も無く、すでに完結しているから脆弱な存在だった」
「ジャック。そこまでわかっていて、どうして関わろうとしたんだい? ゲシュタルトの新参者に対しあそこまで親身になるなんて、君には珍しいことじゃないか」
声からしてセルフとジャックだろう。
「可能性が無い者には近づかない。あの子達は、穏やかな心を持つ者からの導きさえあれば、変わるかもしれないと考えた。しかしわたしにそんな役目は無理だ」
「ほう」
「絶望を与えられ続けてきたあの子達にとって酷なことだったろう。ただこんな世界だとしても、闇に相克する光があることを知って欲しかった」
「ボクにはわからない。君はたまにそういう酔狂なことを言い出すね。ずーっと昔から、変わらないままだ。人間、処刑でもされるとそうなるものなのかい?」
セルフは鼻で笑い肩を竦めて小馬鹿にするが、ジャックは気にせず受け流す。
「わたしはゲシュタルトに来てから大分経つ。この夜に染まり過ぎたゆえに、あの子達を守ることはできても、救ってはやれない。結果として灰人に殺されてしまったが――」
言葉を区切ってからジャックは俺と目を合わせた後、ゆっくりと左右に頭を振り、
「それでも、君達ならあの子達を救えるかもしれないと、わたしは信じてみたんだ」
仕方なかった、と言わんばかりに懐の厚い笑みを浮かべた。
「楓、目を覚ましたかい。ボロボロだった君を見つけたときは気が気じゃなくて落ち着かなかったさ、本当に心配したぞ」
セルフはいつものように大袈裟に振る舞いながら、ベッドに横たわる俺に対して飛びつくように抱きついてきた。
それがきっかけで、ここが住み慣れた1231号室の寝室だとようやくわかる。
それに左肩と右脚、額にはピンで止められた包帯が巻かれていることにも気づく。
他にも部屋の隅ある小型のオーディオセットから、転移した日にセルフの書斎で聴いた音楽が控えめのボリュームで流れていた。確か、傷を癒す効果があったはず。
「こらこら、騒ぐな。髪の色も戻り回復こそしたが、完治はしていない。無駄な負担を掛けるんじゃない。それに『心配した』などという盛大な嘘には虫唾が走る」
猫の首根っこを掴むように、ジャックは小さいセルフの体を簡単に持ち上げる。
「こんなのはサービスじゃないか。体だけじゃなく、心も傷ついた楓を慰めようとしたのに」
その一言で、意識しないように遠ざけていた現実が舞い戻ってくる。
「確信犯の外道め」
毒づくジャックの手から抜け出し、セルフは部屋の窓枠に寄り掛かる。
「さーて、ここからが本題だ。過ぎたことは忘れて、未来を考えることが前向きだよね」
はしゃいでいた様子から一転、起伏はあっても冷えた声でセルフは語り始めた。
「春菜がいずれ暴走するのはわかっていた。君達がゲシュタルトにやってきたその日にね」
ジャックは露骨に舌打ちする。
「最初、春菜は楓に巻き込まれて転移してきただけと思っていた。しかし違った。どうやら彼女も、ゲシュタルトに転移するタイプの人間だったようだ。ただ転移の際に、楓と接触していた影響で、駅のホームではない場所に現れたようだがね」
今も覚えている、ゲシュタルトに転移したときに見た春菜の夢のこと。干渉とはあれのことだろう。
「君達二人を初めて見たとき、典型的なアニムスとアニマの組み合わせだと思ったが、間違いだとすぐにわかった。春菜のアーキタイプはアニマじゃない、グレートマザーだ」
アーキタイプ、確か原型と呼ばれる概念だといつか説明された。
「グレートマザー。あらゆるものを受け入れ包容する偉大な『母』の原型像だ。その慈悲深さは全てを許し、弱く幼い者を保護する。そういう側面が、春菜は普通の人間よりも強い」
そんな春菜に、俺はいつも甘えてばかりだった。
「しかし母性というものには二面性が存在する。外部の危険から子供を守り育もうとする一方で、愛するがあまり束縛し破壊してしまうことがある」
あの屋上で悪魔が宿ったかのように豹変した春菜の姿が脳裏によみがえっていく。
「いくら母性的でも、春菜は自らの子供を持ったことがない未熟な少女に過ぎない。今は自身の中に眠っていた母性の負の部分に支配されたのだろう。一時的な強過ぎる感情が母性の裏側にある破壊衝動を増幅させた結果、それだけが発露した。もし彼女が母親として成熟した女性なら、あのようなことにはならなかっただろう」
セルフは首を傾けて、人の内面見通すような視線をこちらに向けてくる。
「楓は覚えていないかい? 春菜が操っていた、あの手のことを」
思い出したくもない。
ただ、その心臓を撫でるような蠱惑的な声と緑色の瞳に捕われ、否応なしに記憶が引き出されるかのようだった。
「あの巨大な複数の手が彼女のイデア、内面に抑圧された衝動が溢れ出たことによって具現化したのだろう。簡単に言えば、お尻ペンペンするお母さんの手だな。人間の手は普通二つだが、理性を失っているから何個も増えているのかもしれないね」
ジャックは俺とセルフに聞こえるくらい大きな溜め息をした。
「なるほど。わたしは巧く利用されたわけだ」
呆れたような声で文句を言いつつ、その碧眼は鋭く相手を睨みつけている。
「あの子達に合わせれば、春菜の内にある衝動が覚醒すると考えたんだろ。そしてあの時なら、わたしに怪しまれず自然とそういう巡りにできた。お前ならやりかねん」
「故意なのは認めよう。だがそこまで露骨に計画したものじゃないよ。単純に君が困っていて、あの状況で楓と春菜は丁度良かった。その程度の浅い思いつきさ」
威圧的なジャックの視線を避けるように、セルフが窓を開けてベランダに出る。
「春菜の母性、その内に眠る狂気が大きいものだとは思っていた。隠れた強い衝動というのは一度表面化させて自覚させない限り、肥大化し続けてしまう。今回の件が無ければ、何の前触れもなく春菜は楓を殺していた。そんな展開はつまらなさ過ぎる」
開いたガラス戸から外の冷気が室内に入り込んでくる。
「でも、まさかあそこまで大きくなってしまうとは読み違えた。管理人として恥ずべきだな、あれはボクの責任だ。屋上で待ってるよ」
人差し指を上に向け、セルフはベランダの柵を踏み台にして上の階へ飛び上がっていった。
「わたし達も行くぞ」
セルフがどこに行こうと関係ない。
ただいつまで経っても動こうとしない俺に痺れを切らしたジャックに腕を捻り上げられ、無理やり連れて行かれる。
「お前が知らなくてはいけないものが見える」
エレベーターで立ち入ったことのない最上階に着き、階をもう一つ上る。
強めの風が吹いている屋上には、三十七階という高度とフェンスが無いこともあって空と同化した空間があった。
「ようやく来たか。あまりにも遅いなら先に行ってしまおうかと思ったよ」
「お前が何処に行こうが俺には――」
セルフに叫び返そうと振り返った時、息が詰まった。
「楓が眠り続けてから二日経って、あそこまで膨れ上がってしまったんだよ。ボクも驚いた」
突然目に入り込んできた光景が信じられなくて、膝をつきその場に座り込む。
「察したとは思うが、春菜は今あのシンボルタワーの中にいる。周辺には瘴気の塊が沢山あったはずなんだが、簡単に占拠されてしまったよ。夜獣狩りの手間が減ったのは良い事だがね」
口元を微かに歪ませ悦ぶセルフの背後には、ゲシュタルトに来てから何度も見た、圧倒的な存在感を持つ巨大な東京タワーが聳え立っている。
その周囲にはまるで幽霊のような、白く透けている女性の影が見えた。しかも一つや二つじゃない、目に映る限りでも二十体以上の白い影が浮遊している。
「どう……して」
その白い影は全て、春菜だった。
真っ白で足が無いし宙を浮いているが、俺が知るシフォンワンピースを着た春菜と同じ姿形をしていた。
「あれらは春菜が持つ母性から分裂した思念体だ。感情に許容量や限界があるとすれば、パンクしないように漏れ出たエネルギーのようなものだよ」
すぐに思い出したのは元の世界での記憶。
「母性と表現できなくもないが、少し違う。あれは個人に対してのものより、もっと広い認識としての、世界に対する愛情と表現する方が近いのかもしれない」
東京タワーの展望室で、春菜は下界に広がる夕日の街を見下ろしていた。
あの時の雰囲気と、今遠くで街中を包み込むように滞空する幻影達が似ていると思えた。
「溢れ出た思念体がさらに広がれば、やがてインサイドに影響が出る。しかもあのような象徴として存在する建築物を根城にするとは……人々の精神を蝕むように侵食するだろう」
そんなことは信じたくなかった。
「春菜は……夜獣になったのか?」
「いや、あれは夜獣や灰人とは違う。人間のまま精神の一部が暴走している状態だ。元に戻れる可能性も無くはないが、あれは適当な夜獣より驚異だよ」
セルフは俺の問いに答えながら、地べたに座り込む俺の傍にやってきて告げた。
「ゲシュタルトの管理者としての義務だ。楓、ボクは春菜を殺すよ」
普段のふざけたセルフと違って全く起伏のない淡々とした口調。
いつも肩のベルトから下げているメモ帳を手に取り、何かを書き記し閉じる。
「処理開始時間は一時間後、確かに伝えた。それじゃ、バーイ」
最後だけ軽薄そうに喋ながらセルフは屋上の端へ行き、段差のあるパラペットの上に立つ。
そしてこの高度にも関わらず空へ踏み切り、装飾過多なシルクハットを片手で抑え、外套に付いた金属を鳴らし飛び去っていった。
俺は凍りついたように動かず、何も考えずに、その場で荒れた冷たい風に身を任せることにした。逃避しなければ、頭がどうにかなりそうだったから。
それでも、残酷な現実は目の前にある。
今も東京タワーの周りには春菜の幻影達が休むことなく夜景の上を飛んでいる。それは下界を見守る天使のようでいて、人を惑わす悪魔のようでもあった。
「どうするんだ?」
ジャックの言葉に俺は何も答えない。
「初対面の時に怒鳴られて感じたが、お前はとても繊細な強さを持った人間だな。よくそんな隙だらけの精神のまま、ゲシュタルトで存在し続けられたものだ」
隣に立ち諭すようにジャックは話し始めた。
「春菜に殺されそうだったお前を助けたのは、セルフだ。わたしは残りの夜獣の処理に手一杯で駆け付けた時には事が終った後だった。不思議に思ったよ、人助けなんか一切しないやつが誰かを救ったという事実に」
セルフはよくわからない。
「この二日間。春菜の思念体は増え続ける一方だったが、セルフは様子を見るだけで静観していた。聞いてみたら『そんなことをすれば楓に嫌われてしまう』と言っていた」
あいつは俺達を救いたいのか陥れたいのか、何がしたいのだろう。
「きっと遊び半分だろう。セルフについてはわたしも理解に乏しいが、やつがそんな人間臭いことを言うとは意外だった。しかしさっきの言葉は本気だ、具体的な時間を宣言してきた」
隣に立っていたジャックは、膝をつく俺の目の前に屈む。
「セルフが動き出すまであと一時間、まだ間に合う」
春菜にも渡していた懐中時計を取り出し、ジャックは時間を確認する。
「わかるだろ? これはセルフがお前のために設けた猶予だ。一時間後に春菜を殺すと言っていたが、逆にそれまで一切関与しないはずだ。この機会を逃せば後には何も残らない」
ジャックに両肩を掴まれて、揺り動かしながら訴え掛けられる。
「お前はあの施設でわたしの忠告を聞かず、一人で春菜のいる場所へ向かっていった。どうしてあそこまで必死になれたのか思い出せ。命ある限り、お前はまだあの大剣を握るべきだ」
「嫌だ、無理だ」
ボソリと呟いた俺の小声を聞いてジャックが舌打ちする。
「春菜はもう俺がいらないんだ!」
目覚めてから初めてまともな声を張り上げた。
「死にたくなるぐらい苦しくて心が裂けそうなとき、春菜はいつでも抱き締めてくれた。だから今日まで生きてこれた、どんなときも一緒にいるだけで幸せだった」
優しく微笑む春菜が崩れて、殺意と狂気に満ちた姿に成り変わる。
「けどあの時の春菜は『愛してるから、殺してあげる』って言った。いつもなら優しく接してくれるのに、嬲り殺されそうだった。捨てられたんだ。怖い、あんなの……無理だ」
すると両肩にあった手が俺の襟を掴み上げ……少し経ってから、ゆっくりと下がった。
震えた怒りが静まる。その意味が気になり見上げると、そこには憐れむように俺を見る彼女の表情があった。
「そうか、あとは勝手にしろ」
放り投げるように俺の襟を離し、ブーツの靴音と共に階段へと向かっていく。
「でもさ、お前は今日まで何のためにゲシュタルトに存在していたんだ?」
それだけ言い残しジャックは去っていった。
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