(8)覚醒

 遠くから鼓膜を引き裂くような鋭い共鳴音が響いてきた。

 楓ちゃんの状況がかなり心配になる。


 一緒に逃げてきた子供達は息を上げている。あの場所から少しでも離れるため、わたしは二人の手を引いて三つ隣の棟まで走り続けた。

 近くにある重い扉を開けると、広いステージと多くの椅子が扇状に並ぶホールがあった。


「ここに隠れてて」


 これだけ広い場所に小さな体を潜ませていればすぐには誰にも見つからない。


「様子を見てくるけど、追ってきちゃダメだよ」


 疲れ果てたアリスとボブの小さい頭を撫でてから、わたしはホールから飛び出した。

 元来た道を戻ると楓ちゃんが突き破った渡り廊下の壁が見えてきて、その先にアリスとボブがいた三つの部屋がある。さらに続く廊下の先を行く。

 やがて妙な違和感がしてきた、その正体に気づくのにさほど時間は掛からなかった。


「なに、これ」


 天井から床まで鋭利な線がありそこから先に踏み場は無く、刳り貫かれたかのように消失していた。

 末端に立ち、途切れた壁に手を掛けて強い風が吹き続ける外界を見渡すと、目に映った圧倒的な異常性にわたしは震え上がった。

 切断面は廊下だけでなく下の階層や隣の棟にまで続き、広範囲に渡ってある境界から先が消失していた。地面には落下した残骸が砕け散って今も砂埃が舞っている。


 その光景をしばらく眺めていると、遠くの屋上で揺れ動くものがあった。

 廊下を走って屋上へ繋がる階段を駆け上がり、外へと繋がる扉を開け放った。

 視界が広がり辺りを見渡すと、すぐそこにいた。

 手に持つ大剣はすでに刀身の部分が消えていて、持ち主は荒ぶる神経を落ち着かせるかのように肩を大きく上下させて深い呼吸を繰り返していた。


「楓ちゃん、しっかりして!」


 駆け寄り、大剣の柄を握る両腕をそっと握る。

 すると焦点がどこにも定まっていなかった瞳に意識が少しずつ甦っていき、やがて視線がわたしと重なり合う。


「はる……な、うっ」


 突然崩れ落ちる、糸が切れた操り人形みたいに。

 手にしていたリンダちゃんは緑の粒子と共に風に流れるように消えて、力を失った体は膝を付き前のめりに倒れようとする。

 とっさに抱えて支える、すると楓ちゃんの体に変化が起きた。


 ゲシュタルトに転移してから銀色に染まった髪の毛、それが白い光を保ち始める。

 点滅し変化していくそれはやがて輝きを失い、セルフやジャックさんがインサイドと呼ぶわたし達が住んでいた世界にいたあの頃と同じ、淀みない綺麗な黒髪に戻った。


「これが凄まじい反動って、やつか」


 弱々しい擦れ声で苦しそうに楓ちゃんは話す。


「ジャックに教えてもらったんだ、望めば普段持つ以上の力を捻り出せるって。灰人は倒せたけど、これがその代償らしい。リンダが上手く工夫してくれて、死なずに済んだけど」


 それだけじゃない。左肩と右の太腿に服の上から切り裂かれたような傷があり、二本の赤黒い血の細いラインが肌を伝い流れていた。

 セルフが書斎でしてくれた傷を癒す方法もわからないし手当の道具も無い。だから比較的傷の深い大腿に対し、自分のハンカチを傷口に当て、髪の紐リボンを使って上手く固定する。


「さっきのが夜獣の親玉なら、倒したからしばらくは安全だと思う。でも作戦はめちゃくちゃだし、この後はジャックの采配次第だ。ひとまず合流地点に行くのがいいかな」

「そっか……助けてくれてありがとう」


 頭から後ろ髪の先まで労わるようにそっと撫でる。


「動ける?」

「なんとか」


 立ち上がろうとする楓ちゃんの体重を受け止めて支える。

 本当に不思議。

 灰人ごと隣の建物まで輪切りにするほど大きな力を持っているのに、今は無防備な姿でわたしみたいな弱い存在に身を任せているなんておかしな話だ。


 ゲシュタルトに転移してから楓ちゃんに守られたのは二度目。

 わたしは今もリンダちゃんみたいな武器も無く、身体能力だって元の世界にいたときと同じ、だから危機を前に何もできなかった。

 ジャックさんにも言われたけど、力を持たないことは甘い理想なのだろう。

 綺麗事が通じる世界じゃない……でも、忘れてはいけないこともある。

 わたし自身が正しいとは思っていない。けれど、この世界の混沌とした闇に飲まれず生きていくには、多少は甘えが含まれていても、優しさを捨てないことも大切なはず。

 だからこそアリスとボブとは通じ合えて、今もこうして幼馴染の体を支えていられる。

 もし許されるのなら、いつまでもこんな想いを持っていたいと、わたしは切に願う。


「お姉さん」


 幼児期独特の甲高い声が聞こえた。

 開いた扉の向こうから最初にボブが顔を出し、腕を引っ張られてその後ろからアリスも顔を出す。追ってきてはいけないと言ったのに。


「あの子達か」


 楓ちゃんは迎えようと、わたしの肩を頼りに体の向きを変える。

 アリスは今にも泣き出しそうなくらい崩れた顔で、ボブは照れ隠しみたいな少し怒ったような感じで、駆け足気味でわたし達の方に向かって来て――何かに打たれた。


 小さな二つの体は銃弾のように飛来した何かに穿たれ、血飛沫を撒き散らして浮かび上がる。

 力無く手足は投げ出されて、鈍い音を立てて地面に転がり落ちる。

 無残にもボブの体はびくびくと痙攣を繰り返し、アリスの体は全く動かなくなった。

 倒れた二人のいる場所から血溜まりの円が広がっていく。

 但し、それは普遍的な人間の持つ赤黒い色の血液とは違い、生命の感触がしない絵の具のような紫に近い、青だった。

 青い血。


――検査のときも、実験のときも、手術のときも


 二人と交わした一部の言葉が幾度も頭の中で反芻する。


「    」


 楓ちゃんが吠えるように声を出した、ように見えた。

 何も聞こえない。外界の音という音、全てが遮断されて伝わってこない。

 もうまともに動けるような状態ではないのに楓ちゃんはわたしの腕から抜け出し、髪の毛も黒いまま刀身がいつもの半分も無いリンダちゃんを片手に駆けていく。


 向かう先には禍々しい姿があった。

 着ていた白衣こそ半分破れているけど、メスを前方にいくつも展開して、口元を過度に攣り上げ嘲笑いながら、灰人は倒れた二人の体を満足そうに見ていた。

 それら全てがスローモーションの動画のように遅く感じられた。


――ごめんね、もう終わりみたい

――だから最後に聞いて欲しい


 頭に直接響いてくるアリスとボブの声。


――わたし達はずっと考えていた。作り出された目的のために在るだけの時間を送りながら、自分達が何を望むのか

――最初から隔離された世界しかわからないぼく達に願いなんてものはなかった。互いが存在するという事実だけで満たされていたから


 止めて欲しい。こんなのはまるで。


――でも気づいたらこの世界にいた。何者にも束縛されず、触れることが適わなかった自らの半身と一緒に見知らぬものに出会っては考える日々

――とても楽しかったよ。全く束縛がない自由も悪くなかったし、それまでは知識でしかなかったことを経験へと昇華させていくことは楽しかった。でも……

『もう満足だった』


 遺言みたいだから。

 わたしは生気を失った二つの体の近くに行き、膝を付いて座り込む。なぜか安らかな表情の二人の頬を撫でると、その体に異変が起きた。

 体中が緑色の輝きを放ち始める。

 それはリンダちゃんが持つ光に似ていた。だけど違うのは粒子一つ一つが停滞せず、体から離れ空へと昇っていくこと。


「嫌、そんなのダメだよ」


 徐々に輪郭を失っていく二人の体が消えてしまわないように願う。誰でもいい、この子達を救える者がいるなら、どうか助けてください。


――わたし達はどんな形であれ、いずれは消え行く存在だったと思う


 今までとは違い、ぼんやりと揺れるような弱々しい声。


――でも、もし許されるなら、お姉さんと、もう少し仲良くなりたかったな……


 そうボブが言い終えた瞬間、触れていた二人の頬の感触が急に無くなった。

 二人とも身体中が全て緑の粒子に変わり、混ざり合って暗闇の夜空へと飛んでいく。


『お幸せに』


 最後の言葉を残して全ての粒子は無くなり、あの子達は消えていった。


 わたしはただ茫然とその場に座り込む。

 あの子達が生きてきた経緯は残酷なものだったのかもしれない。だとしても誰かがもう少し慈悲深ければ、こんな因果はやってこなかったかもしれない。

 まだ可能性はあった。命ある者として経験できることが沢山あったはず。アリスとボブならゲシュタルトでも生きていけたはずなのに救えなかった。


「あの子達はわたし達に殺される義務があったんですよ」


 背後から鈍い足音を立てて、ゆっくりとした足取りで灰人が近付いてくる。


「わたし達はあの子達を造り、人体実験を繰り返していた。六組目からは適切な投薬ができてきて結果も順調、初期段階では想定外のステップへ次々と進むことができたのです」


 この男は何を言っているのだろう。

 しかも今までと口調が違う。


「しかし、あるとき異変が起きた。テレパシー機能の一部が肥大し過ぎてしまったのでしょう。あの子達の意識は研究所内にいた何十人というわたし達の中へと侵入してきたのです。わたし達の精神は成す術なく破壊し尽くされてしまいました」


 そんなことは聞きたくない。


「しかし気づいたらわたし達は一つの個体としてこの世界に存在していました。わたし達それぞれの精神は原形を留めないほどバラバラにされましたが、ある残留思念だけが同調し再構築されたのが今のわたし達です。ちなみに、その残留思念というのは」


 うるさい。


「アリスとボブを壊せ、という全員が望んだ共通の意志です。憎愛と言ってもいい」


 やめろ。


「ようやく叶った。あの子達を無に帰す衝動を満たせた。わたし達の中で相談し合った結果、本当は時間を掛けてじっくりと殺す予定でしたが、あなた方のような邪魔者がいるなら妥協することになりました。ここまでくるのにわたし達を何人か犠牲になってしまいましたがね」


 男は残酷なだけで無意味な充足感を体現するように嗤う。

 こんな不条理を認めるわけにはいかない。

 だって、あの子達はもっと他人から愛や恵みを受けるべきだったのだから。

 すると急に、心が軽くなっていくような気が……いや違う、消えていくようだった。


 虚無が胸の中心から急速に広がり心が消えていく感触がするけれど、不思議と恐怖は感じない。

 視界の端に三色の地球が映った。

 自分の意志とは思えない何かに誘導されるように空を見上げると、全身が一切動かなくなる。

 そして自身の存在が希薄になり酷い離人感に支配されていく。

 わたしは一体どうなるのか、という疑問を抱きつつもすでに理性は崩壊していて――そして、わたしの意識は世界から切り離された。


********************


 灰人は湯悦に浸るように春菜の頬を触り始める。

 対して春菜は放心状態まま、何も抵抗せず二人が消えていった空を今も見続けている。


「くそっ」


 敵わないことはわかっていた。

 こっちは満身創痍なのに、再び姿を現した灰人は手負いでもまだ動けそうだったから。

 俺はリンダをまともに扱う余力が無く返り討ちに合うのは当然。数秒だけ止めする程度に終わった。

 あの小さな子供達を救うことはできなかった。でも、春菜だけは――


「守る……って、決めたんだ」


 この世界に来たあの日、何があっても春菜を守ると誓った。

 例え、今この場で力尽き、滅びるとしても、春菜だけは守る。

 まだ止まらない魂だけを頼りに、力を込めることを拒む体に鞭打ち、軋む膝を捩じ伏せて立ち上がる。


「放せ」


 搾りカスのような俺の声に灰人が振り向く。

 威嚇するのが精一杯な俺を見て勝ち誇るように嘲笑い、爬虫類を思わせる細長い舌を伸ばし、春菜の頬を舐めようとして――弾けた。


「えっ」


 春菜に迫っていた灰人の顔が突然ブレたように消えた。

 遅れてその行方を追うと、体が跳ね上がりヘの字に折れ曲がって宙を舞っている。思いもよらない不意打ちを受け、地面に落ちて悶え苦しむ。


 何が起きたのか?

 ジャックが来たかと思ったが、周囲を見渡しても俺達三人以外誰もいない。


「……いし……る」


 聞き取れないくらい小さい声で呟きながら、無様に地面を這い蹲る灰人を今までとは逆に追い詰めるように一歩また一歩と、春菜は近づいていく。


「貴女、それが本性ですか」


 灰人の問い掛けに春菜は何も答えない。

 俯いたまま前髪が垂れ下っていて表情は見えない。今まで何度も見てきた姿、何よりも身近な存在で、自分自身よりも大切な人。


「から……る」


 それなのになぜか……怖い、と感じてしまった。


「しかし、所詮は少女に過ぎない!」


 灰人は上空へ跳び上がってから、自分の周囲にメスを再び生成する。その全てを前面に押し出しながら落下の勢いをつけ、奇声を上げながら春菜に襲い掛かる。


「春菜、逃げろ!」


 俺の叫び声は届かず、春菜はその場から動かない。

 間合いが縮まり、後先など全く考えずにメスの雨をぶつけようと灰人は片腕を振り上げる。殺意に満ちた獰猛な笑みを浮かべるが、その腕が振り下ろされることはなかった。


「あ?」と間の抜けた声を出す灰人が見たのは、先が途切れた自身の肩と千切れて宙を舞う腕。

 突然のことに呆けている相手に向け、春菜は生気のない亡霊のように右手を翳す。

 すると透明な何かが春菜の周囲から伸びて、弧を描き空から下りてくる灰人へ一斉に襲い掛かる。

 灰人は警戒するが、すでに遅かった。


 最初に死角となる背後から強い暴打を受けて岩の体が屋上へ打ち付けられる。反動で跳ね上がり、骨が砕けるような鈍い打撃音は離れた位置にいる俺にも聞こえた。そして横方向から次の一撃が繰り出され、膝が本来は曲がらない方向に折れていた。


 その後も息をつかせぬ連撃は続いていく。

 前後左右と揺さ振られサンドバックの如く甚振られ続ける灰人にはすでに戦意など欠片もない。


「あっははははははははははは」


 どうして、そんなふうに笑うの?

 狂乱する春菜の嬌笑は幾重にも反響する。それに呼応するように透明な輪郭も蹂躙を緩めず、何もできない灰人をただ捩じ伏せ続ける。

 この光景は一体何なのだろう。


「助けて、くれ」


 やがて嵐のような暴力は止み、反抗の意思すら削がれた灰人は命乞いをする。

 その惨憺たる姿はすでに獰猛な獣ではなく、皮肉にも今に限ってはただ叩きつけられた恐怖から逃れたいと願う、人間のようだと俺には思えた。


「……から……あげる」


 春菜が胸の前で祈るように両手を組むと、透明な輪郭達が再び獲物に近づいていく。

 その様は、何の抵抗もしない獲物を貪欲に捕食しているようだった。無慈悲で一方的な凌辱が続いた後、透明な輪郭達はピタリと止まり灰人から離れていく。


 もはや人形を留めていない灰人の体にヒビが入り、やがてガラスのように砕け散る。

 それから自身が纏っていた紫色の光となって、冷たい夜気に溶けるように消えていった。

 断末魔すら聞こえない呆気ない最期。


 一連の狂騒に満足したかのように、役目を終えて春菜の元に帰っていく透明の輪郭達が色を持ち始め、徐々にその姿が露になっていく。


 浮かび上がってきたのはきめ細かな白い肌をした、六つの手。

 筋肉質な剛腕ではなく、すらっと伸びた細い女性のもの。但し一つ一つが春菜の背丈と同じくらい大きい。やがて腕の指先の爪まで色が宿ると、春菜自身にも変化が起きた。


 薄い琥珀色の髪の毛が見えない力で浮き上がると、横髪を結う細いリボンが解ける。

 やがて根元から毛先へ、燦々とした輝きを放つ金色に染まっていく。まるで侵食するように。


 白い六つの手と合わせて、それは千手観音を連想させる壮麗な姿。

 ただそれを見て、俺の心を掻き立てる胸騒ぎは少しずつ強くなっていく。


「春……菜?」


 ゆっくりとした動作で俯いていた首が上がる。

 それは春菜の横顔に違いないが、瞳の輝きは失われ魂が抜け落ちたかのように無表情。


「楓ちゃん」


 普段通りに呼ばれただけ。

 なのにどうして、俺の体は春菜を恐れるように強張っているのか。

 ゆっくりとした歩調で春菜が近づいてくる、けれど生気や感情を全く感じない。

 どうしたの? さっきみたいに温かく触れて欲しい、いつもみたいに優しく笑い掛けてよ。


「愛してる」


 春菜がボソリとそう呟いた刹那、視界が飛んだ。

 衝撃に頭が揺さぶられ意識が乱れる。地面に転がっても痛みは感じない。四肢の感覚は頼りにならず、立ち上がる余力すら残っていない。朦朧とした意識が少しずつ薄れていく。


「愛してるから……」


 途切れていく視界の中で、甘く口元を綻ばせる春菜の虚ろな笑みを俺は最後まで見続けた。


「愛してるから、殺してあげる」

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