(2)決意
屋上には他に誰もいなくて、冷たい強風に身を打たれるまま取り残される。
何もしないで座り込んでいると、またあの感触が蘇ってくる。
胸の真ん中に埋まらない真っ暗闇の穴ができ、心が引き摺り込まれていく。
寂寥すらも感じず空虚で、外からの刺激全てを拒むように意識が止まっていく。身体も朽ち果てるまで動かず腐敗していくみたいで、死にゆくようだった。
もういいかな。
膝を引きずって立ち上がる。歩く方向はどっちでもいい。目的は足場の途切れた空だから。
自分の部屋でハサミを持った時、もし春菜に止められなかったら自分の体を掻き切っていた。
だから今なら、きっと飛べてしまうだろう。
屹然と聳え立つ東京タワー。
そのさらに上には、星一つ無い黒い空を背景に三色の地球が浮かんでいて、無気力な俺を蔑むように妖しい輝きを放ち続けている。
屋上の端に辿り着き、パラペットの上に立つ。
風に揺られる身体を前に傾け、足場のない空へ全てを預けようとして、
――何やってんだ!
脱力していた腹部に突然衝撃が走り、ウレタンの屋上床に倒される。
咳き込みつつ顔を上げると転移してから三週間、毎日一緒に戦い続けた相棒が浮かんでいた。
「ご主人、そんな馬鹿な真似はあたしが許さないよ」
刀身を出さずT字型の柄だけの姿で、鍔に刻まれた文様を点滅させながら話し掛けてくる。
俺の意思に関係なくリンダが具現化するのは、これが初めてだった。
「ジャック姐さんの言う通りだ。まだ間に合う。春菜のところに行くよ」
「そんなの意味ない」
「セルフが説明してただろ。春菜は夜獣になったわけじゃない。精神の一部が暴走しているだけで元に戻れる可能性もあるって」
「ならジャックがやればいい。この世界の道理をよくわかってるし、俺より頼りになる」
「他の人間が呼び掛けても無駄に決まってる。ご主人以外の声が届くわけないだろ!」
「話なんかできないさ。あれは俺の知ってる春菜じゃない!」
「ちっ、ならここでくたばるかい?」
すると俺の意思とは無関係にリンダは自らの巨大な光の刀身を鍔から伸ばし、その切先を向けてくる。
頭上にある光刃を形成する粒子が髪の毛に触れ、少しだけ焦げた臭いがした。
「ねえ、ゲシュタルトに来てからご主人は、何度か春菜を危機から守ってきたよね」
南野の時、危険こそ無かったけどパーカーの男の時、灰人の時、確かに守ったことは多い。
「毎日の夜獣狩りも、春菜の代わりに危ない役割を引き受けていたとも言える。あたし達にとっては楽な仕事だったけど、安全な事ではなかった。なのにどうして狩りを続けられた?」
「理由なんかない。春菜が襲われてたら助けるし、危ない目にはあって欲しくなかった」
親しい人を助けるのに理由なんかあるわけない。
「仲の良い幼馴染という大義名分で、自分の本心を隠してはいないか?」
意味もなく掘り返すな。
「春菜のために春菜を守っていたんじゃなく、それは自分のためなんじゃないか?」
「いい加減にしろ!」
しつこい言葉に叫び返すが、心の片隅で疑問が浮かぶ。
今俺は、自分の相棒から耳を塞ぎたいだけなんじゃないのかと。
「あたしはご主人の意識の一部だ。だから心の奥底に封じてあることだって、なんでもわかる」
春菜を守っていた理由。
――お前は今日まで何のためにゲシュタルトに存在していたんだ?
去り際にジャックが残していった言葉が、リンダの問いと意味が同じ気がした。
俺が夜獣と戦い続けていた理由、それは夜獣がいない安全なセーフエリアに住むため。それがセルフから出された条件だったからだ。
大切な人には安全な場所にいて欲しいと思うのは当然。
でもそれが自分のためだったとしたら……そこまで考え進めると怖い感触がした。
「元の世界よりゲシュタルトは危険な世界というのはわかるけど、それでもご主人は元の世界にいた頃より春菜に対して執着し過ぎていたと思う」
怖いから意識をぼかそうとする……いや、逃げてはいけない。
もう一度己と向き合う。
俺がセーフエリアの外で毎日夜獣を狩り続けた理由は、春菜と安全に暮らせるこのタワーの1231号室に住むため。
なら、俺が春菜と暮らすことに理由や目的があるとすれば、それは――そう自問すると、心臓の鼓動が一際強く打った。
さっきまで暗くて空虚だった胸に、落雷のような後悔が突き刺さる。
「なんて……馬鹿だったんだ」
自身の心を染めていた虚無感が、愚かさを責め立てる後悔に全て塗り替わる。
俺は周囲と性に対する認識が違っていた。だから心を締め付ける苦悶に耐えることで精一杯だった、そんなのは言い訳。
この強い欲望をもっと昔から自覚しているべきだった。
それに春菜の奥底に潜んでいた衝動にも気づくべきだった……自分の事ばかり考えずに。
この罪を償いたい。そして謝りたい。
「ご主人、春菜のとこに行こう。このまま何も伝えずに終わるなんてダメだ」
「そう、だな」
リンダは光の刀身を消して柄頭をこちらに向けてくる、手に取れと促すように。
俺は立ち上がり、握り馴染んだリンダの手応えを確かめてから大腿の革ケースに収める。
体も心もまだ生きている。
眼前には、圧倒的な存在感と共に屹立する東京タワーを中心に、夜空を舞う白い幻影達。
それらを一瞥し、息を吹き返した身体を鼓動する意思で固めて屋上から走り去る。
階段を下りてすぐにエレベーターを呼ぶ、その待ち時間ですら今は惜しい。早く、一秒でも早く会って、伝えたい。
一階に着き、窮屈な狭い廊下を駆ける。
開くのが遅いエントランスの自動ドアがもどかしくて押し退け、大理石の床を蹴って外へ出ようとした時、金属同士が擦れ合う音がした。
「遅かったな」
声を掛けてきた彼女はキーホルダーのリングに人差し指を通し、慣れた手付きでそれを回し続ける。
「残り四十五分、余裕は無いぞ」
「迎えに行く」
迷いなく意思表示すると、キーホルダーを回すのを止め、掌で握る。
そしてにやりと不敵ながら満足そうな笑みをジャックは俺に向けた。
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