(5)楓と春菜2
わたしが最初に感じたのは、果ての無い深淵の暗闇と、その中にある一筋の光だった。
輝くそれを求めて手を伸ばすと、光点が闇を切り裂くように四方八方へ広がっていった。
その後、音が聞こえた。
ドスッという重く鈍い何かを抉るような音。
やがて開けていく視界いっぱいに広がるのは、普段から見ている楓ちゃんの顔。
但し力を失うように目を閉じ、輝く銀髪が柔らかくふわりと浮き上がって、体は墜落していく。
「危ない!」
わたしより一回り大きい体を受け止めるため、咄嗟に屈み込んで床に倒れる前に抱き留める。
楓ちゃんの肩越しに見えるのは、床や壁の一部が砕け、割れた窓から風が吹き込む酷い有様の広いフロアだった。
しかしさらに異様なものがある。
巨大で雪のように白い肌をした人の手らしきものが、宙に浮いている光景。まるで悪趣味な芸術家のCGみたいだった。
それになぜか触れたくて左手を伸ばす。
すると魔法が解けたように欠片も残らず金色の粒子となって拡散した。消えたそれがなぜか我が事のように思えて、不思議だった。
肌寒さを感じ、若干の怖さもあって受け止めた楓ちゃんの腰に左手を回す。
しかし左手には粘着質のある嫌な違和感――それは絡みつくような、赤黒い鮮血だった。
「楓、ちゃん?」
瞼を閉じたまま精気の抜けた青白い顔は動かない。
脇腹には握り拳小の穿たれたような凄惨な空洞がある。流れ出る夥しい量の血に止まる気配は一切なく、楓ちゃんの生命そのものが流れ出ているかのようだった。
「ダ、ダメだよ、こんなの」
突然目の前に提示された恐怖に、自分の口がわなわなと震え出す。
目覚めたら息絶えようとしている幼馴染の姿。
なぜ? と自問した後に浮かんだのはあの巨大な手。あれが楓ちゃんを――そう考えると、心臓が縮こまるような不安が襲ってきた。
否定したい。
理性と直感が結びつき鎖となって、するわたしの心を縛りつける。あの手が消え去る前に感じた揺らぎが、残酷な自覚へと変わる。
わたしが……やった?
朧気な記憶すらないけれど否定できない。おそらくあの子供達を救えなくて夜獣に襲われているとき、わたしの精神は一度壊れたのだろう。
そして、正気を失い何かに取り憑かれていたわたしの目を覚ましてくれたのは、今この手の中で衰弱している楓ちゃんなのだろう。
「は、るな?」
血の気がない唇が震えて弱々しく動き、死に抗うように瞼が上がり薄い藍色の瞳が開いた。
「良かった。元の春菜に戻って」
それは、唇の端から流れて首へと伝う紅い血とは不釣り合いなほど、満天の笑顔だった。
********************
瞳には琥珀色の光が宿り、髪の毛は元の薄い栗色に戻っていて、俺を抱き支える腕からは本物の温かさを感じる。
ようやく会えた。たったの数日間、そのほとんどは意識を失っていたけどこんなにも春菜と離れていたのは、小学校の頃に離れ離れになった時以来だ。
でももう体に力が入らない、自力で立つことは難しそうだ。
東京タワーに入った時、こうなるという予感はあった。
最初から自己犠牲を気取っていたわけじゃない。ただ春菜が元に戻ってくれるなら、後先の事なんてどうでも良かった。
「どうして、どうして……こんな」
肩を震わせ目尻から流れた涙が俺の頬に零れ落ちる。
春菜の悲愴感に満ち満ちた表情を見て後悔する。
こんな思いはさせたくなかったのに。
「ごめんな」
「喋っちゃダメ」
痛みがないのに体温と共に自分の命が抜けていく感覚の中、頬を流れ続ける春菜の涙を指先でどうにか拭おうとするが、片方にしかしてやれない。
もう腕が上がらない。だからきっと、終わりが近いのだろう。
「聞いて欲しいことが、あるんだ」
最後に、と言いそうになるのを寸前で堪えた。
「俺は多分、春菜に殺されたかった」
春菜はそれを聞いて、信じたくなさそうに首を横に振って表情をさらに歪ませる。
「ゲシュタルトの生活は心地良かった。他の誰にも干渉されず……春菜を独り占めできたから」
それは現実から逃げた仮初の安息。
「ごめん。俺は元の世界に帰りたくなかった。戻ればまた苦しむ日々が続くと思う。でもこれ以上、春菜に縋ってはいけない。いつかは春菜にしがみつくだけの無様な人間になる」
やがてその依存は醜い妄執へと変わり果て、春菜を不幸にするだろう。
「だから……このまま消えようと思う。だから最後はせめて、春菜の手で……殺されたかった」
それが、今頃になってようやく悟り吐露する己の本心。
「束縛されたっていい、それでもいい!」
激昂し涙を撒き散らすそんな春菜の姿を俺は今初めて見る。
「ダメだよ、春菜は……俺とは違う。周囲とズレのない……屈折していない、人だから」
声を出すのも苦しくなってきた。
俺の内にあるズレは救いようがないほど深い溝だ。
男と女、どちらの性別にも属したくないという異端者、そんな衝動は日常とは相容れない。でも今更どうでもいい。
元の優しい春菜が戻ってきたから、俺はもう満足だ。
目の前には他の何よりも大事な最愛の人がいる、これ以上の幸せがどこにある?
「今まで……ありがとう」
「そんなの聞きたくない!」
春菜は俺の話を受け入れたくなさそうで、唇をふるわせて今にも崩れ落ちてしまいそうだ。
できる事なら、最後は笑顔に満ちた春菜を見ながら逝きたかった。
「幸せに、生きて」
最後にその一言だけを残し、俺は薄れ沈みゆく意識の中、重い瞼を閉じた。
********************
それはアリスとボブが残した言葉と同じ、わたしの幸福を願う言葉だった。
「か、楓ちゃん……」
既視感と喪失感が同時に身体中を駆け巡ると、それは起こった。
楓ちゃんの冷たい手を握る感触が軽くなり、その指先が緑色の光を放ち始めた。
その変質は瞬く間に全身へと伝搬していき、床にある血溜まりにも同じ現象が起きた。
「ダ、ダメ……そんなの」
このままじゃ、あの子達と同じように消えてしまう。
結局わたしは他者を愛するだけで、守られてばかりだったのだ。
夜獣の狩りから帰る楓ちゃんを部屋で待つだけの毎日。南野先輩に襲われた時もそう、施設ではあの子達を救えなくて、今も大事な人の命が消えゆくのを見ているだけ。
わたしの中にある他者への愛情なんて、自己満足の域を出ないただの思い上がりだ。浅はかで理想を唱えるだけの小さな器でしか他者を愛せていなかった。
でも、それでも、楓ちゃんだけは失いたくない。
しかし皮肉にもその体に更なる変化が現れた。
緑の輝きがより一層強くなると、体の輪郭が曖昧になっていく。全身の至る所から浮かび上がる粒子は楓ちゃんの生命そのもの。それが一粒、また一粒と天へ昇っていく。
「い、嫌っ、いやああああああ」
それを掻き集めようとしても捉えることができない。何度やっても、虚しく空を切るだけ。
いつも一緒に過ごしてきた最愛の幼馴染、その命が尽きようとしている。
「そんなのないよ。わたしを置いていかないで! 一人にしないで!」
これで別れなんて嫌だ。
わたしはまだ楓ちゃんに大事な話を告げていない。狂い暴走した意識を元に戻してくれたお礼も、何より……自分の胸の奥に封じ込めていた想いを伝えていない。
しかし残酷にも楓ちゃんの命は緑の粒子となって潰えていく。
もう自分の意思を届かせる事は叶わぬ願いなのだろうか……何かが頭の隅に引っ掛かった。
今わたしは重要なことを。
意思を届かせる?
できるかも。消える寸前のアリスとボブとは通じ合えた。だから今も緑の粒子へと変質していく楓ちゃんにだって届くかもしれない。
「お願い!」
こんな別れなんて嫌だ。
わたしはまだ形のある楓ちゃんの頭をすぐに膝の上に乗せる。
神に懺悔するように両手を合わせ、天へ昇っていく粒子全てに意識を集中し強く念じ始めた。
********************
周囲の空間と自分との境界が無くなり純粋に消えていくような感触。感情の振れ幅が収束していく。やがて、無へと帰すのだろう。
それでもいいと思った、たった一つの心残り以外は。
この期に及んでまだ俺は……幸せを望む資格なんて無いというのに。償いは済んだ。これで終わりにしよう。
――楓ちゃん
耳元で囁かれるような声。その幻聴は死に際の走馬灯を思わせる。
――楓ちゃん
まただ。
瞼を開けると、そこは見覚えのある果てのない空間だった。
上下左右の区別がなく全身が浮いているような感覚。周囲にはリンダの刀身と同じ緑色の輝きを放つ無数の光芒が迸り、それらは彼方から現れては消えていく。
転移してきた時に見た夢、あの時と同じ空間。
ただ以前と違うのは俺に語り掛ける声の主、その姿がはっきりを見えること。
目を閉じたまま膝を地面につき、両手を合わせて何かを祈っていた。
やがて春菜は組んでいた両手を解き、ゆっくりと目を開けた。訪れた異質な空間に驚く様子もなく歩き出し、俺のすぐ目の前に立ち止まる。
その瞳は今も悲しみに揺れていて、すぐに支えてやりたくなる。
ただ自分にそんな資格があるのか踏み切れず迷っていると、春菜は苦しそうに自分の眉間に力を入れ、右手を振り上げて俺の頬を打った。
「わたしに殺されたいなんて、馬鹿よ」
突然の平手打ちを受けて呆気に取られ、春菜に触れていいか迷っていた思考が拡散する。
叩かれた頬に手を当てると、その表面はじわりとした熱を帯びていた。
「わたしも楓ちゃんも馬鹿、もう、どうしようも、ない」
強い視線は責め立てるように俺を突き刺す。
でもすぐにそれは崩れ、すすり泣きに変わる。
「ああ、もう。違う、違う、こんなことを言うつもりじゃ……」
抑え切れない嗚咽を漏らして涙を散らしながら、倒れ込むように俺の胸に顔を埋め、鎖骨の辺りを何度も何度も叩いてくる。
初めてだった、こんなにも強い感情を春菜にぶつけられたのが。
叩かれる度、涙が胸に染み付いていく度、闇に溶け込む寸前だった命に鼓動が蘇っていく。
「ごめんな、馬鹿で」
叩いてくる腕ごと、自分より一回り小さいその体をぎゅっと包み込む。すると春菜の手が止まり、嗚咽で震えながら俺の体に力を抜いて身を預けてきた。
お互いに傷つけ合った後だからわかる。
二人一緒の時はいつも穏やかな気持ちになれたから気づけなかった。俺達は今まで、本音でぶつかり合ったことなんて一度も無かった。
「聞いて欲しい事があるの」
春菜は喋れるくらいに落ち着き、まだ腫れが引かない顔を上げて見つめてくる。
「一度も話したこと無かったけど、中学の頃に楓ちゃん家の隣に戻ってくる前、わたしの日常は荒れてた。外国にいるお婆ちゃんの介護に疲れた父さんは家の物を壊したり、わたしと母さんに八つ当たりの暴力を振るったりしてて、家の空気は冷め切ってた。そんな暗い雰囲気が表に出ちゃったのかな、無愛想だったと思うしこんな髪と目の色だから、同級生にも虐められてたりしたんだ。あの頃は世の中を恨んでた」
三年前に隣の家に戻ってきた理由は、親の仕事の都合としか聞いてなかった。
「生活が成り立たなくなると、母方の親戚から助けもあって、元々住んでたあの家に戻ることになったの。それで確かに平和は訪れたけど、わたしの心はすぐに晴れることはなかった……その辺りが、わたしがゲシュタルトに転移した理由だと思う」
すぐに後悔した。
大事な人の事情を知らずのうのうと過ごした自分に自己嫌悪するが……春菜は左右に頭を振り「違うよ」と優しく呼び掛けてくる。
「でも、救われたの」
意味がわからず首を傾げて、春菜の表情を覗き込む。
「楓ちゃんも闇を抱えてた。再開した時それがすぐにわかった。ある日、窓の外から部屋を覗くとあなたは自分を傷つけようとしてたね。理性では、止めて良かったと今でも思ってる……でもそれは、誠意ある人間のフリをしただけ」
声は静かでも、春菜はまるで勇気を振り絞るかのように言葉を紡いでいく。
「あの時、今にも壊れてしまいそうなあなたのことが――美しいと、思えてしまったのよ」
それはきっと、春菜が心の奥底に封じていた思いなのだろう。
「不謹慎で不誠実、人として許されない悪い衝動なのはわかってる。だから取り繕った。でも、それでも……あなたに惹かれたのはわたしの中に生まれた純粋な感情だと思う」
少しだけ俺から目を背ける、後ろめたいのだろうか?
「だがら、わたしに依存してくるあなたを、わたしは拠り所にしてしまった」
目を閉じる。
その言葉が信じられなくて、すぐには受け入れられなかったから。
「これがずっと言ってなかった楓ちゃんへの本音、だから謝りたかった。軽蔑したかな?」
自分の衝動が罪だと思っているのか、自戒を込めて不安そうに聞いてくる。
「違うんだ。今頃気づいたんだよ」
今の言葉を聞かなければ、自覚できなかった。
「俺は春菜にいつも甘えていたけど、春菜にとって俺は必要ないんじゃないかって……一方的な依存かもしれないのが不安だった。だから何かがきっかけで、いつか捨てられるかもしれないって、怖かったんだと思う」
だから施設の屋上で豹変した春菜の白い手に殴られた時、ショックだった。
「でもそうじゃなかった。謝らなくていい、形なんてどうでもいい。春菜に必要とされているなら俺は嬉しいよ」
そう言い終えると衝動のまま、その肩幅の狭い華奢な体を痛いくらい強く抱き締める。
すると一瞬の躊躇いの後、春菜も俺の腰に腕を回し強く引き寄せてきた。
受け入れてくれたのが嬉しくて、自分の両目から溢れ出る熱い雫が栗色の髪に落ちていく。
心を縛っていた鎖が解けて、柔らかい感触と温かい体温を通じて互いの心臓が溶け合うような感触がする。未だかつて、春菜とここまで理解し合えたのは初めてだと思う。
かつて俺は消えて無くなりたかった。
でも春菜が求めてくれるなら……今俺がするべきことは消え去ることじゃない。そんなのは、絶対に間違っている。幸せを望まないことも愚かだと思う。
だから、もう離さない。
「一緒に帰ろう。元の世界に」
お互いに落ち着いてから、春菜の二つの目尻に残る涙を今度こそ拭う。
「え、でもどうやっ……あっ、そっか」
セルフは言っていた、望めばすぐにでも元の世界に帰れると。
今まで俺は帰る事を望まなかったし、春菜は自分の心にある狂気に対して無自覚だった。だから帰れなかったはず。でも今は違う。
互いの願望が違えることはない。
「大好きだ」
「わたしもよ」
そんな言葉じゃ俺は満足できない。
「そんなの卑怯だ。ちゃんと言えよ」
仕方ないな、と微笑んでから春菜はゆっくりと眼を閉じる。
そして小さな桜色の唇がゆっくりと開かれると共に紡がれた声は、聖なる福音のように俺の耳に響いた。
「誰よりも、愛してる」
今の言葉を、俺は一生忘れない。
すると周囲に迸る緑色の光芒に俺達は囲まれていく。それは祝福してくれるかのようだった。
二人とも瞼を閉じ、たった一つの同じ望みを胸の中で唱える。それは互いの心の境界を越えて、混ざり溶け合い、共有する確かな意思になり、声となってこの空間に響き渡った。
『ずっと一緒に』
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