(4)楓と春菜1

 自動ドアの前に立つと元の世界と同じように開き、歩き進むといくつもあるエレベーターの内一つが勝手に開いた。

 これに乗れ、という無言のメッセージだろう。


 中に入ると低い機械音と共にエレベーターは上昇を始める。

 元の世界では何度か乗ったものだけど違和感がある。中の造りやガラスと鉄筋の向こうに視える景色が同じでも、二人で通った思い出をここには感じない。


 チャイムが鳴って扉が開いた先は、全方角の景色が見える大展望台。

 思ったより天井が高く、小さい体育館並みの空間がある。外から見たこの東京タワーは元の世界に比べて数倍の大きさがあったから、広くても不思議じゃない。

 満ちる空気は外界より冷えている。風は無いのに肌寒く凍りつくようで、申し訳程度に灯るフットライトが寒さを際立たせているようだった。


 フロアの端に着き、窓伝いに歩く。

 こちらの神経を逆撫でしてくる静寂があり、人の気配を全く感じない。一周し終えてフロア全体を見渡そうとして――背筋が震え、鳥肌が立つ。


 曲がり角に隠れてこちらを覗く、白くて細い人の手。

 壁に隠れていたそれは俺に向け、絡み付くような不気味な手招きをした。

 その後、手は引っ込んで走り去るような靴音をフロア中に響かせた。


「ご主人、焦らないで」


 リンダの一言に助けられ、まずは自分を落ち着かせる。

 白い手を追っても見つからないが、逃げていった場所に心当たりがある。

 展望台は二層構造、下の階層へと続く階段がある。


「いるのか?」


 急がずに階段を慎重に下りていく。

 下のフロアは黒く太い柱が直角あるいは斜めに何本も立ち、元の世界では外の景色を眺めながら飲食できる贅沢なカフェがある。しかし目の前のカフェにはカウンターを残してテーブルと椅子は一切無く、上のフロアと同じ不自然なまでに広い空間があるだけ。


――こっちだよ


 周囲が無音でなければ気づかない微かな囁きが、頭の中に直接響いてきた。

 その声を求めて、階段を挟んで裏側に回る。

 エレベーター乗り場のある広いフロアの端に、下界を見下ろせる透明なガラスの床があるだけで誰もいない。なら、残るは一ヶ所。


 カフェから来た道とは逆側の通路を進む。

 一段上がった照明が集まるステージの中央に、いた。

 眼を閉じたまま両手を開き、窓ガラスの外にある暗闇の世界全てを受け入れるかのような、潔癖で神々しさのある雰囲気で静かに佇んでいた。


「うまくいかないね」


 大きく息を抜き、両手を下ろしてからゆっくりと眼を開けた。


「あの子達みたいなテレパシーが使えないかと思ったけれど、試してみてもあの程度がやっとだった。相当な慣れが必要みたい、残念ね」


 さっき聞こえた囁きのことだろうか。


「待ってたよ。楓ちゃん」


 柔らかい声とは逆に、振り向いた春菜の表情は正気とは思えない妖しい上目遣いだった。


「春菜。一緒に帰ろう」

「どこに?」


 灰人の手で破れかけだったシフォンワンピースは元通りになっている。

 しかし首を傾げて揺れる髪の毛には、マゼンダの細いリボンは結ばれていない。


「元の世界にだよ。小さい頃からずっと過ごしてきた、あの世界に帰ろう」

「どうして?」


 急に口元が釣り上がり、声のトーンが下がる。


「そんな必要ない。だって、ここからは全てが視えるんだもの」


 人間味を失うように、揺れて多重に反響していく声。

 それに連動して春菜の周囲にある空間が捻じれて歪曲した。


「わたしは全てを愛している。命の鼓動を続ける全ての存在を包容し、安寧を脅かす者から守り育み、深き愛情をもって幸福を与える……永遠に。だから――」


 髪の毛の色が根元から瞬時に淀みない金色に成り変わり、背後にはあの施設の屋上でも見た、白い肌をした流麗な六つの手が浮かび上がり徐々に顕在化していく。


「愛してるから――」


 覚悟はしていた。

 次に会う時は、俺が知る温かくて優しい春菜とは違う。それは来る前からわかっていた。でも実際に対峙すると悲し過ぎて、この場から逃げ出したくなる。


「――殺してあげる」


 それでも大腿の革ケースから握り慣れた剣の柄を取り出す。

 なぜなら俺は、自身の愚かな過ちを懺悔しなければいけないから。


「いくぞ……リンダ!」

「ご主人、頼むよ!」


 大砲の如く打ち出される美しくも厳しい拳の一つが空気を裂きながら真っ直ぐ迫り、対抗すべく相棒の鍔から光刃が飛び出していく。

 俺は避けることは考えず、真正面から上段に構えた大剣を全力で振り下ろした。

 衝突の際、殺人的な振動がリンダを通して腕と上半身、そして脳を揺さ振る。刀身が軋んで緑色の粒子が埃のように舞い、飛びそうになる視界をなんとか引き戻す。


「大丈夫、怖がらないで」


 冷えた微笑みで囁く。


「楓ちゃんはわたしの中で生き続けられる、永遠にね。殺すってことは、相手の全てを手に入れることだもの。魂だけの存在になっても未来永劫、愛し続けてあげる」


 蠱惑的に響く声を振り払うように、白い拳を弾き飛ばして床を蹴って距離を取る。


「あの子達は間に合わなかった、とても後悔してる。でも、楓ちゃんは愛してあげられる」


 六つの手は握りを解き、指を真っ直ぐ伸ばし突くための手刀の型を成し、微かに金色の光を宿す鋭利な爪を向けてくる。

 相手をいたぶることはせず確実に仕留めるための姿勢、だが怯んではいられない。


 囲まれないように、エレベーター乗り場のある広いフロアへ出る。

 春菜自身も追ってくるが、常人が走るスピードと変わらずかなり遅い。

 慈悲という名の狂気を振るう剛腕は重く、まともに打ち合えば一方的に俺が疲弊するのは明白。でも春菜本人の運動能力は、元の世界にいた時と大差ないのだろう。

 さらに最初の衝突の時、拳の圧力に対してリンダも押し負けなかったから充分渡り合える。


「春菜、聞いてくれ」


 神々しさと殺意を併せ持ち襲ってくる六つの手、その中心にいる春菜へ叫ぶ。


「ごめん。今まで気づいてあげられなくて」


 人形のように生気の宿らぬ瞳に向けて、胸の中に溜めていたことを初めて声に出す。


「元の世界のこの場所で、夕日の街を見ながら春菜は話してくれた。あの景色には人の意識と建物の記憶があって、それを全て見渡せるのはすごいことだって」


 あの時、夕日の街を見下ろす春菜の表情は恍惚としていた。

 俺が同じ感情を持つことは難しい。ただ内容は理解できなくても、特別で大事な何かだと察してやることだけはできたはず。


「南野の事を悪く言うだけだった俺に、あいつの事を話そうとしてくれたよな」


 協力者を使って電車の中で脅され、ゲシュタルトでは襲われたというのに、春菜は許そうとすらしていた。理由を話そうとしてくれたのに、俺は全く聞き入れなかった。


「パーカーの男を追う時だってそうだ。俺は反対するだけで、春菜の考えを大して理解しようとしなかった」


 セルフに消されそうだった彼を春菜は全力で庇っていた。俺はその理由が分からず、他人事のように眺めているだけだった。


「いいのよ、そんなこと。だって守り愛するのはわたしの役目だもの」


 それは春菜の本音だろう。でもその本音に俺は甘え続けてしまった。

 話の最中でも六つの手はこちらの動きを窺い、突き刺すように爪先を伸ばしてくる。但し握り拳の時よりも衝撃は軽いため、受け流すのは難しくない。


「何度も伝えようとしてくれたのに、俺は一回も受け止めなかった……自分が悩み、苦しんでいる時は甘える癖にな」


 性同一性障害と医者に診断されたという理由で、自分だけは甘えようとする。


「小さい頃は一緒にいたし、中学の頃に再会してからもそうだった。誰よりも春菜を理解しているつもりだった。けど俺は自分のことしか考えてなかった」


 心の距離に寄り掛かった驕り。

 身近過ぎる存在だったから、そんなのは言い訳だ。


「ゲシュタルトに来てから俺はずっと春菜を守ろうとしてきた、つもりだった」


 守る、なんて大義名分は自分の弱さを隠す自己欺瞞だった。


「でもそれは自分のためで、自分を守るためで、俺は……俺は――」


 誤魔化すのはもう止めよう。


「――春菜を、独り占めしたかっただけなんだ!」


 あのタワーの部屋で一緒に過ごすが心地良くて、他には何も要らなかった。

 だから元の世界にも戻りたくなかった。自分達以外の誰かが介入してくるのが嫌で、安息を壊されたくなかったから。

 なんて、身勝手。


「ごめん。気づくのが遅くて」


 これが伝えたかったことの全て。

 春菜の様子は今も変わらず、髪は爛々と輝き六つの手は爪先をこちらへ向けている。ただ話の間は、灰人を叩き潰した時のような激しい狂気が、やや弱まっていたように見えた。


「ご主人、よく言えた。ありがとう」

「どうして、ありがとうなんだ?」


 鍔の文様を点滅させながら、リンダは俺の意識に囁いてくる。


「あたしはご主人の一部。春菜に謝りたい気持ちは同じだったからね……あとは任せな」


 何のことだ、と聞く間もなくすぐに変化は目の前で起こった。

 鍔から伸びる反り立つ巨大な刀身の輝きが一度収まり、静かに変容していく。

 刀身を形成する淡く輝く粒子が一粒ずつ、水のように揺蕩う青色に塗り変わっていく。

 灰人の時に見た荒れ狂う紅の烈光とは真逆、落ち着きがあり透明感のある鏡のような輝き。


「これは?」

「ジャック姐さんが言った。狙ったものだけを断つこともできるって。来るぞ!」


 一番近くで間合いをはかっていた白い手が、俺達の会話の隙を狙い襲ってくる。

 直線的に突き出される爪先に対して咄嗟に身を反らし、叩き落とす要領で姿を変えた青き光刃を振り下ろす。


 手の白い皮膚に触れた瞬間、ものすごい違和感があった。

 刀身が緑色だった時は皮膚に接触すると硬い手応えがして、簡単には貫けなかった。

 しかし青い刀身は何の抵抗もなく白い皮膚を切り裂いて、傷口からは春菜の髪と同じ金色の粒子が血液の如く大量に噴き出す。

 予想外の結果に体勢を崩し、俺はよろけてしまう。


『キャアアアアアア!』


 甲高い悲鳴が展望台の中に響き渡る、しかも一つじゃない。

 両手で握るリンダが息切れする人間のように柄の文様を点滅させる。

 春菜は遠くで苦悶に耐えようと頭を手で抑える。

 そんな二人がほぼ同時に叫び声を上げた。


「お前……俺の身代わりに無理しただろ?」


 何が起こったのか理屈で考えず、本能で感じたままの事を聞く。

 間違っていないはず。多分この青い光刃は白い手を通じ、春菜の意識へ直接攻撃を仕掛けているのだろう。


「ご主人、春菜の所に行け。あたしのこの状態は長く続かない」

「リンダは俺の一部だ、だからわかる。その姿で戦い続けたら自滅するぞ」

「うるさい、早く行け。かつてあたし達が救われたように、今度はあたし達が春菜を救う」


 叱咤する相棒の意志を信じ、今は理性を振り絞ってまだ遠くにいる春菜を凝視する。

 視野を狭めろ。

 妖しく動きその爪先を向けてくる五つの白い手。集中し無駄な意識を削ぎ、後先を全く考えず持てる力の全てを振り絞って地面を踏み切った。


「くっ」


 消耗していくリンダをカバーするために、守りを捨て余力を残さず全力で踏み込んでいく。

 白い手に近づく光景はクリアで、まるで体感時間が遅くなったかのようだった。

 ゲシュタルトに来てから、元の世界ではありえない速度で何度も走り回った。ただ限界を試したことはない。不必要な速度領域に挑む必要もなく、危険な気がしたから。

 ただ今に限っては、後先考えずに全力を振り絞る。

 タイヤのホイールの如く高速で動く両足に際限は無く、自分の体という実感すら薄れるほどだ。


「せあっ」


 電光石火の斬撃に対応できず、一番近くにいた白い手は指を二本切り落とされ、俺自身もぞっとする勢いで跳ね飛ばされて壁にめり込み瓦礫を撒き散らす。


 止まるな。

 複数の白い手を操作する春菜に考える隙を与えてはいけない。

 すぐ近くにいる無防備な三つ目の手に対し、足腰の力も乗せて青い大剣をフルスイングで振り抜くと、運動量が全て移り変わり吹き飛ばされる。すると手は二つに千切れ、片方は窓ガラスを割って風が吹き荒れる夜空へと投げ出された。


「きいっ、くっ」


 痛みに耐えるリンダに申し訳なく思いながらも、俺は攻めを緩めない。


「良い子にしてよ」


 片手で頭を抑える春菜の表情に切迫した緊張が過ぎる。

 対して俺の身体は全身がこれ以上は危険だと警告を訴えてくる。痛みこそ無いが、手足が燃えるような熱を帯びている。おそらく灰人の時と同じで、無理に力を引き出した代償だろう。


 残り三つの手が、同時に俺を迎え撃つべく隊列を整えて徐々に迫ってくる。

 爪先を向けた手刀を構える手が二つと、指を広げて俺を捕まえにくるのが一つ。

 それらに対し真正面からでは分が悪い。だから左側に回り込み、二対一の状況にしてから挑む。


 まずは掌を大きく開き捕まえようとしてくる左手が先行してくるが、遅い。

 手の甲を位置取るように動く。俺を掴み損ねた隙を狙い、斜めに振り下ろす袈裟斬りで一気に四つの指を切断した。切断箇所から金色の粒子が大量に撒き散っていく。

 しかし同時に、リンダの青い刀身に異変が起きる。

 物打の部分にヒビが入り、切先が少し欠けた。さらに柄の文様は苦しむように速い点滅を繰り返している。

 そんな相棒の消耗を気にした一瞬の隙が、命取りになった。


「ぐっ」


 指を切断した手の裏側に潜んでいた手刀の爪先が、俺の右肩へと突き刺さる。

 巻かれていた包帯が弾け飛び、肉を抉り骨をも砕かれたかのような激痛が走る。


「愛してあげるから、もう止めなさい」

「うぐおおおお」


 春菜の囁きを咆えることで誤魔化し、頼りない脚力を振り絞り体勢を立て直す。

 今まで通りのスピードで動き回る自信は無く、残り二つの白い手に対し気力だけで真正面から挑む。


 片方は手首を曲げ轟然たる鉄槌を叩きつけようとし、もう片方は対照的に爪先まで一直線に伸ばし床に対し水平に手刀で薙ぐ姿勢。

 それぞれが時間差で繰り出される中、ワンテンポ速く左から迫る手刀を避けるため床を蹴って上に逃げる。


 足元を鋭い一撃が空ぶる感覚、同時に頭上にある鉄槌へ巨大な青い刀身を突き上げた。

 逆方向からの斬撃を受け、掌中央から下を切断された握り拳が粒子を撒き散らし空転する。

 但しリンダもさらに消耗し、空中で刀身の切先から四割が砕け散る。残された力は僅かだが残りの白い手はあと一つ。


 しかし俺の着地を狙って握り拳がすぐそこまで迫っていた。

 今のリンダがこの一撃を受けたら耐えられないと瞬時に察し、軋む右足首を捻って左へ踏み切る。

 直撃こそ避けられたが、一度刺された右肩を拳が掠めて激痛が走る。

 意識が焼き切れそうになるが、勢いのまま後方へ流れていく拳を追う。

 右腕に力は入らずリンダを左手だけで振り上げ、残された最後の力でがむしゃらに薙ぐ。

 すると白い手は親指の根元から人差し指に掛けて切り裂かれ、その場で床に落ちる。


 しかしその代償にリンダは青い光の輝きを失い、やがて巨大な刀身が砕け散り粒子となって消えていく。


「ありがとう」


 リンダが俺の中から完全に消失してはいないことは、残る柄の感触からわかる。

 共に戦い続けた相棒に感謝しつつ、作ってくれたチャンスを無駄にしないために、やや足を引き釣りながら満身創痍の全身に鞭打ち走る。


 守りを全て失った春菜は逃げることも警戒もせず立ち尽くしていた。視線が動かず光が宿らない瞳は虚ろで、まだ正気を取り戻していない。

 俺がここにやってきた理由は、春菜に謝って、救う事。


 大丈夫。一時間前にタワーの屋上でリンダを握った時に方法だけは決めていた。

 春菜に手が届きそうなところまで辿り着き、柄だけになったリンダを手放す。ここから先に武器や力なんて必要ない。

 かつて自分が救われた時と同じように接するだけ。


「春菜」


 ずっと触れてきた細い両肩を抱き寄せ、消耗し荒れた俺の呼吸が届くくらい近くで名前を呼び掛ける。同意も抵抗もない人形のような春菜、元に戻って欲しい。


 片手で頬を掬い上げるように撫でる。

 そして色素が薄く生気を感じない唇に、自分の唇を押し当てる。

 さらに少し舌先を滑り込ませ、己の命を分けるように熱い吐息を吹き込んだ。

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