宵闇のゲシュタルト

伊瀬右京

1章:宵闇の世界~gestalt of twilight~

1.夜への転移

(1)結城 楓

 中学生になったばかりの頃。

 医者の話を聞いて診察室から出てきた父さんと母さんの落胆した姿を、今でも覚えている。

 二人は告げられた事実が信じられず、その日は明るい顔をしてくれなかった。


 今思えば無理もない。大事に育ててきた自分の子供が実は精神的な病気だとわかったら、やりきれない気持ちになるのは当然かもしれない。


 GID――性同一性障害


 俺が医者に下された病名だ。

 簡単に言えば、体の性別と心の性別で食い違いがある状態、正式な医学的疾患らしい。俺の場合、肉体は女性のものなのに、それ受容できない精神が男性でいようとする状態らしい。


 細かい説明も聞いたけれど、真面目に聞く気にはなれなくてほとんど覚えていない。

 ただ「結城さんは体が女性でも、男性になりたい願望が――」という話のくだりだけは忘れていない。なぜなら、その場で医者を殴り倒したくなるほどの怒りを感じたから。


 確かに自分が生まれた時に授かった肉体は女性のもの。

 なのに「結城楓」という男女どちらとも受け取れる名前で、一人称は「俺」だし、服の趣味だってマニッシュ系が多いし、性格も女の子らしいお淑やかさなんて欠片も無い。

 でも男に対する憧れなんて無いし、その体が欲しいだなんて全く思ってない。ただ、同時に女でいたいとも思っていない。


 テストや身体測定でチェックを入れる時、毎回思う。

 なぜこの世には、性という選別が存在しているのだろうか。

 男、女、どちらにも属さず生きてもいいじゃないか。


 性別という枠組みの中で、男女いずれかへ属することに酷い抵抗がある。理由は無い、ある日そんな自分の一面にふと気づいた。

 もちろん、生まれ持った性別のまま過ごすことが自然で、こんな衝動は社会では異端だとわかっている。それでも自分の性別を、男女のどちらかだと決めたくない。

 でもそんな衝動は、世の中のほとんどの人には否定されるだけ。

 けれど、生まれ持ったこの体は女性であるという事実は変わらない。だから高校二年生になった今も、周囲には隠しつつ折り合いをつけて生きている。


 しかし決して苦しいだけの毎日じゃない。

 俺にはたった一人の理解者がいる。

 幼馴染で普段から一緒にいるあいつさえいれば、他には何もいらない。この異常な衝動を話しても受け入れてくれた、俺にとって自分の命よりも大切な人。


 佐藤春菜。

 あいつの存在が今の俺にとって、この世に生き続けている理由の全てだ。


********************


 最後の授業が終わり、帰宅と部活動の喧騒が入り混じる放課後。

 ここは静かな風が涼気を絶えず運び続ける校舎の屋上。


「結城先輩」


 細くて小柄な背丈と綺麗に下りた黒髪が映える彼女は心の準備を終え、長く重い沈黙を破って切り出した。


「ずっと好きでした」


 今にも不安で潰れてしまいそうなのに、勇気を振り絞って彼女は話し続ける。


「わたし、結城先輩と中学が同じなんです。初めて見た頃からずっと憧れてました。でも結城先輩ってみんなの憧れだからわたしなんかじゃ釣り合わないってずっと思ってて」


 覚えているのは中学二年生になった頃からで、男女関係なくこうして愛の告白を受けることが増えてきた。でも受け入れたことは、今まで一度も無い。


「だけど同じ高校に行けば、先輩に近づけるって信じてました」


 真摯過ぎる彼女の眼差しから目線を逸らしてしまう。


「わたしとお付き合いしてください」

「……ごめんね」


 即答はせず一呼吸置いて返事をする。


「俺って、そういうのはできないんだ。ごめん」


 居た堪れない嫌な空気だ。

 彼女は青ざめていく自分の表情を隠すように俯く。


「その、いきなりとかじゃなくていいんです。たまに二人で遊びながら、少しずつでも」


 期待を裏切られても、想いが途切れないように繋げようとする姿が痛々しい。


「ごめん」


 一際強い風が吹いた。

 デリカシーのない風は俺と彼女の髪を靡かせるどころか荒れるように乱し、微妙なバランスで成り立っていた緊張を押し流す。

 彼女の頬に伝うのは一筋の涙。

 均衡の糸が切れると、彼女の感情が一気に爆ぜた。


「わたし成績があまり良くなかったから、先輩と同じこの高校に来るために毎日勉強しました」


 彼女は溢れる涙を堪えようとするけど、皮肉にも断続的な嗚咽は徐々に強くなる。他人の抑え切れない想いを見せ付けられるのは何度目だろう?


「周りで先輩を眺めてる人達と、同じじゃいけないって思ったから……高望みだったこの高校に合格するために、朝から晩まで必死に勉強しました」


 その顔は悲痛に歪んでいて、もう見ていられない。


「やっぱり、佐藤先輩じゃなきゃダメなんですか?」


 心臓をナイフで突かれたような気がした。

 彼女は隣を掠め、鉄の扉の軋んで閉まる音を残し走り去っていく。そして俺は風が吹き続ける屋上に一人取り残される。


「きついよ」


 最後の言葉は堪えた。

 告白を受けるとき、春菜のことを言われたのは何度かある。

 家が隣で登下校は毎日一緒だし、何か思われるのは仕方ない。けれど、あんなに強い言葉でぶつけられたのは初めてだった。


 あの子は中学の頃から俺を知っていたみたいだけど、確かにあの頃は目立っていた。

 運動神経も良い方で、当時は陸上部にいたし体育祭での出番も多かった。そのせいか二年生の頃から、あんな告白を受けることが増えてきた。

 でもそれ以前、小学校以前の俺をあの子は知らないだろう。

 昔は「女男」だとか「オナベ」だとか、身長が高いだけでそんな悪口をよく言われた。今なら意味の無い幼稚な悪ふざけだとわかるけど、当時はそんな蔑みを心の底から嫌っていた。

 だから女子から告白を受けるときは男子と見られている感触が強くて、同時に小学生の頃に浴びせられた悪口を思い出してしまう。


 溜息が出る。

 後味の悪いこの感触を忘れたくて、早く屋上から去ることにした。

 屋上と違い空気が蒸れている階段と廊下を進み、下駄箱で靴に履き替え、帰宅する生徒達の流れに沿って校門まで行く。


 そして少し離れた場所にある大木の木陰に立つ。

 ここは下校前の待ち合わせ場所、放課後になれば二人のどちらかが先にいる。

 今日は俺が先に到着、ひとまずスマホを開いて待つ。

 最近は好きなサイトだけでなく、ニュースサイトを読むようにしている。斜め読みでいいからそのくらいの習慣はつけなさい、という春菜の話を聞いて最近始めたことだ。


 しかし今日の記事を一通り眺め終えても、勧めた本人はやってこない。周囲を見渡すと部活は始まって、下校する生徒達の波も収まり始めてきた。

 いつもなら二人とも合流している時間なのに、今日は遅い。


「あの、結城さん?」


 アプリを立ち上げてメッセージを送ろうとしたとき、声を掛けられた。見覚えのある女子が二人。名前は知らないけど、確か春菜のクラスメイトだったはず。

 その内の一人の様子を見て、ややうんざりしてしまう。


 一人は俺に話し掛けてきた子だろう、特に妙な様子はない。

 問題は二人目の子、友人の背後に隠れてこちらへ好奇の視線を向けてくる。たまに受けるテレビのアイドルや動物園のコアラを見るような、あの不愉快な目だ。

 その子は俺と一瞬だけ視線が合った拍子に「きゃっ」と無意味に恥ずかしがって、目の前の友人に「止めなさい」とたしなめられる。

 配慮してくれた子に感謝する。それが無ければ、気分が態度に出ていた。


「何?」


 話が通じそうな彼女に聞いてみるとなぜか一瞬、迷うように視線を伏せる。


「三年の南野先輩って、知ってるかな? 佐藤さんが今呼び出されてるみたいで……」


 話を咀嚼するのに数秒掛かる。

 しかし事の重大さに気づくと、一気に焦燥感が押し寄せてきた。


「南野ってあの評判が悪い男の人? 停学とか何度か受けてるって」


 つい彼女へ詰め寄り、やや乱暴にその両肩を掴んで聞いてしまう。強引な接触に彼女を驚かせてしまうけど、今は気遣いできる余裕はない。


「う、うん。そう、その南野先輩」

「場所はわかる?」

「中庭の花壇が多いところって聞いたよ。あそこ案外人通り少ないし」


 いかにもな場所だ。

 彼女へ会釈して「ありがとう」と一言お礼を告げ、すぐに走り出す。

 中庭の花壇まで一分も掛からない。ランニングをしている部活中の生徒を全力疾走で何人か追い抜き、そのまま目標の場所へ急ぐ。

 花壇や倉庫でやや入り組んでいる中庭に入って進むと、二人の男女が見えた。

 女子の方はマゼンダの細いリボンで横髪をツーサイドアップにしている、見慣れた後姿。


「春菜!」

「えっ、楓ちゃん?」


 突然現れた俺に春菜は驚き、結った髪の毛を揺らして振り向く。

 男子の方は迫るような姿勢で今にも春菜の手を握ろうとしていた。その先の光景を想像すると、生理的に受け入れられず一瞬で嫌悪感が全身を駆け巡る。


「触るな」


 すぐに踏み込んで男が伸ばす手を打ち払い、向き合う二人の間へ強引に体を捩じ込む。春菜を背中と腕で隠すように立ち、敵意を剥き出しにして全力で男を睨む。


「なっ、なんだよ」


 面識は無いが見覚えのある男は、俺という躊躇しない邪魔者に怯む。

 この南野という男は、停学を繰り返していたり、雰囲気の悪い他校の学生と街を出歩いたりしているようで評判が悪い。それでも退学にならないのは、親から学校側へ特別な寄付金があるからという噂すらある。


 周囲に誰もいないし今も戸惑う本人の様子を見て、期を逃さず素早く次の行動を取る。


「行くよ」


 一刻も早くあの男から春菜を遠ざけたかった。

 自分よりも白くてひんやりとした細い手首を掴み、引っ張るようにこの場から連れ出し、中庭を抜けて大木のある待ち合わせ場所にまで戻る。

 するとこの数分間の緊張が一気に抜けたせいか、つい重い溜息を吐いてしまう。


「救出クエスト、おつかれさま」


 助けられた本人はこちらの苦労を気にせず、呑気にそんな冗談を言う。


「びっくりしたよ、わたし人生で初めて男の人から告白受けた」

「はあ……さっきクラスの子に教えてもらったんだ、春菜が南野に呼び出されたって。危ないと思わなかったのか? あいつの評判の悪さは知ってただろ? 二人きりなんて軽率すぎる」


 天然で薄い琥珀色の髪の毛が掛かる細い両肩を掴み、髪と同じ色の瞳を直視しながら、怒りを隠せなくて強い言葉で訴えてしまう。

 すると春菜は頷いてから少しの間だけ目を閉じて、何かを考え終えてから目を開けた。それは必死な俺とは真逆で、取り乱さず落ち着いている。


「心配掛けてごめんね。でも楓ちゃんが思うような危ない目には合わなかったよ。至って普通の、愛の告白」


 最後のフレーズに目くじらを立てそうになる。

 しかし春菜はそれを見越していたのか、頭一つ低い位置から俺の顔を覗き込むような上目遣いになる。さらにぐいっと背筋を伸ばし、吐息が掛かるぐらい顔を近づけてくる。

 そして全く目を逸らさず、俺と視線を交差させたまま話を続ける。


「もちろんお断りする予定だったよ、けど長引いていたかもしれない。だから助けてもらって感謝してる、ありがとね。ちょっと乱暴だったかもしれないから、明日にでも先輩へフォロー入れておくから大丈夫」


 穏やかな喋り方で、揉め事を避けるための話までされては何も言い返せない。

 春菜は自分の肩を掴む俺の右腕に触ると、摩るようにゆっくりと撫でてくる。声に出さなくても「安心しなさい」と言われているようだった。


「そこまで言うなら、わかったよ。でも評判悪い人に呼び出されたりとかしたら、行く前に教えてよ。リスクヘッジ……だっけ? この前、春菜が読んでた本にあった言葉」

「わかった。今度は気をつけるよ、心配性な楓ちゃんのためにね」


 そんな言い方をされたら、目を逸らして誤魔化すことしかできない。


「じゃあ帰ろっか、今日は図書館に寄るの?」

「あー、そうだった。そのリスクヘッジの本を読み終えたの。返さなくっちゃ」


 下校ラッシュが過ぎて、生徒が疎らになった校門を二人で出る。

 春菜は少年漫画から難しそうな哲学書まで様々なジャンルに手を出す読書家だけど、学校の図書室では借りない。蔵書数が少ないらしく、市内の図書館を利用することが多い。

 最寄駅への通学路を少し迂回するだけで図書館には行けるから、俺も付き合うことが多い。


「今日はどんな本を借りるの?」

「うんとね、神隠し関連の本にする予定。ちょっと待っててね」


 春菜は返却と次に読む本の物色をするために館内へ入り、俺は自動ドアの前で待つ。

 中学の頃は陸上部だったが今は帰宅部。時間はあるから春菜に倣って本の一冊でも読もうか考えるけど、活字には苦手意識がある。

 ライトノベル等の読みやすい本を春菜に教えてもらおう。

 まずは「読みやすい本」とネットで検索するためにスマホを取り出そうとした時だった。


「なんだこれ」


 硬い物が靴に当たった感触がして足下を見ると、そこには奇妙な形をしたオブジェのようなものがあった。

 大きさは掌大、全体は球形で勾玉模様をした白黒二つの形が重なったようなデザイン。さらに白黒それぞれの中に、逆の色の小さな円が埋まっている。


 拾い上げると、普通の石より軽いのに硬さを感じる感触、ただ材質はわからない。

 俺は不思議とそれに惹かれて、手に持ったまましばらく眺めていた。

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