3.母性

(1)徘徊者

 真夜中に目が覚めると喉が渇いていて、飲み物を求めてリビングへ行く。


 すると母さんが机の上に書類を広げたままソファで寝息を立てていた。

 何かと疑問に思い一枚だけ手に取ると、一瞬で荒波のような後悔が押し寄せてきた。


――性同一性障害に関する治療法とその妥当性


 机の上にある書類は全てそれに関連する内容ばかり。

 手に取ったプリントを置き、物音を立てないように二階の自室へと戻り、鍵を閉めてベッドに腰掛ける。


 心臓の鼓動は驚くくらい速く、手足は汗ばみ、こめかみがズキズキ痛む。

 胸の奥から広がる虚無感と酷い離人感、心が食い潰されてしまいそうだった。


 開けておいた窓から吹き込む風でカーテンがバタバタと靡く。煩いから窓を閉めようとした時、隣の家の部屋にまだ明かりが点いているのが見えた。

 光源の位置からそれがデスクスタンドだとわかる。

 まだ起きているはず。


 縋りたい自分が嫌で少し躊躇うけど、窓を全開にして屋根に降りる。壁側に置いたサンダルを履いて斜めに傾いた足場を慎重に進み、屋根同士の狭い隙間を飛び越える。

 そして明かりが漏れ出る窓の前に辿り着きノックする。


「待ってねー」


 反応は速く、寝間着であるシルクのキャミソールを着た春菜がカーテンと窓を開けてくれた。

 やっぱりまだ起きていた。机の上にはハードカバーの本と飴の袋があり、デスクスタンドの隣にあるパソコンのディスプレイもまだ点いていた。


 窓のレールを踏むと、春菜は外にいる俺の手を取り招き入れてくれる。

 部屋の中には春菜の匂いがあり、普段から嗅ぎ慣れていても気分が落ち着くから不思議だ。


「どうしたの?」


 いつもと何も変わらない口調で話し掛けてくれる。


「うんとさ……ちゃんと寝付けなくてさ、ちょっと話がしたかったんだよ」


 それからしばらく二人で適当にネットを巡回したりした。

 他にも俺が姉さんに譲ってもらう予定のクロスバイクの話、春菜が最近チェックした洋画とアニメと本の話をした。


 でも本当に話したい事は喋れなかった。何度か胸から込み上げてきては、喉から出掛かったところで押し戻した。

 春菜には中学生の時に再会してから依存し続けている。でも高校生になっても甘えるのはダメだ。

 いずれは自分の問題にも囚われず、折り合いをつけて自立しなければならない。

 それにこの部屋に来て、春菜の顔を見られただけで十分だ。おかげで明日もいつもと変わらない日常が過ごせるはず。


「それじゃ戻るよ」

「吐き出した方が楽になる」


 ベッドのボードに掴まって立ち去ろうとすると、引き止められる。

 座っていたメッシュチェアから離れて春菜もベッド側に腰掛けてくる。それから俺の頬をゆっくりと優しく撫でてくる。

 春菜の顔がすぐ目の前にあって、全てを許容してくれるかのような表情で諭すように語り掛けてくる。


「わたしにだったら、いいんだよ」


 胸の中を覆い尽くしていた黒い塊が全て吹き飛んだような気がして、心が裸になる。

 それからはもう我慢することはできなかった。

 封じ込めていた重たい感情が熱を帯びた涙になって一気に溢れ出し、倒れこむように抱きつくと春菜は俺を包み込んで受け止めてくれた。


「どうしたら、どうしたらいいのか……わからないよ」


 寂しくて、怖くて、痛かった。

 自分が普通の人とは違う想いがあるとわかったその時から、この広い世界の中で一人ぼっちになってしまったような気分が消えなくて、胸が張り裂けそうなほど痛くて、悲しい。


「やっぱり、俺はおかしいんだよね?」


 俺が性同一性障害と医者に診断されたときから、両親は隠れるように病気に関して調べているし、その手の病院を何件も回っているのは察していた。

 自分の子供が大事なのはいい。

 けれど、それじゃ今の俺はどうなるの?

 今の俺は消えて無くなってもいいの?


 耐え切れず「治そうとしないでくれ」と親に言おうと何度も思った。でも言ってしまったら全てが壊れてしまいそうな気がして、我慢する度に胸が軋んだ。

 止まらない嗚咽のせいで引き攣る背中を、静めるように春菜は擦ってくれる。


「変わらなくていい」


 肩幅の狭い体に沈み込むように縋ってその声を聞くと、胸の中で渦を巻く負の感覚が消えていく。荒れた感情を春菜が取り除いてくれるかのようだった。

 三年前もそう、真っ暗闇な部屋の中で自暴自棄になっていた俺を救ってくれた。何日も学校へ行かず部屋に閉じこもる俺の傍にいてくれて、荒れた心が落ち着くまで慰めてくれた。


********************


 元の世界では春菜に甘えてばかりいた弱い自分をふと思い出す。

 しかしそれが嘘に思える程、今はアクロバティックな体験をする毎日が続いている。


 黒い霧の鷹が鋭利な双眸の赤い輝きと共に、天空から一直線に降ってくる。

 鷹は小さめで色が黒いため夜空と同化してしまう。それを活かしてか高過ぎて見えなくなる程の上空から加速を付け、標的である俺に狙いを定めて急降下してくる。


「ご主人、集中して。タイミングを誤れば、こちらも只じゃすまないわ」

「わかってる!」


 最近はリンダと呼ぶにも慣れてきた大剣の切先を天に向け、いつでも打ち出せるように対空姿勢を取る。一撃で鷹を仕留めるタイミングを体中の全神経を使って探る。


 すると三色の地球を隠していた雲に微かな穴が空く。

 重力の恩恵を受け抵抗となる空気の層を突き破り突進してくる鷹が視えた。その瞬間、地面を全力で踏み切って自らを空に向かって打ち出し、大剣を突き出した。


 激突の瞬間に起こった閃光が一瞬だけ空を照らす。

 鷹はリンダによって引き裂かれ跡形もなく四散し、漆黒の空に溶けていく。鷹を貫くために必要だった勢いが余り、俺の体は夜空に向かって今も上昇し続けている。


「これで十体目、今日は終了かな。あたしの力があればノルマなんか余裕だわ」

「振り回して夜獣を倒してるのは俺なんだけどな」

「良かったわねー、あたしのおかげで最近はペースも上がってるじゃない?」

「自分じゃ大して動けない癖によく言うよ。そういやさっき猪みたいなやつを倒した時に、鍔に肉片みたいのが付いてたぞ。ちょっとキモかった」

「えっ、嘘っ、やだー、春菜に嫌われちゃう」

「もちろん嘘だ」


 そう告げると、いじけてそっぽを向くように刀身の側面を俺に向けてくる。嫌味混じりで楽しそうに喋る相棒の扱いにも少しは慣れてきたところだ。


 ゲシュタルトにやって来てから二週間が経とうとしていた。

 俺はセルフとの約束通り、毎日黒い霧を探し夜獣の狩りをしている。

 ノルマは一日に十匹。

 タワーの部屋を借りて日用品置き場を使うための条件だから仕方ない。個体によって姿は違っても夜獣の狩りが少し飽きてきた。それでも学校の授業よりは面白いし、満足できる時間ばかりを望むのは過ぎた贅沢だろう。


 それに数日に一度は、春菜と一緒にセーフエリアを出て繁華街へ出向いている。新しい発見や欲しい物が手に入ることもあって、それがささやかな楽しみではある。

 束の間の浮遊も終わって、地面に降り立つ。


「リンダ、刃を収めてくれ。今日はおつかれさん」

「ご主人もおつかれさま」

「帰ってシャワーを浴びたいよ」

「ご主人って男勝りの癖に、お風呂好きなところは少女趣味よね」

「風呂好きに性別は関係ない。家に帰ったら、誰でも体と心を綺麗にしたいだろ?」


「その辺りが女っぽいんだけどね」とリンダは言い残し、巨大な刀身が消えると手から離れて、布が巻かれた柄の部分が大腿側面にある革のケースに収まる。

 柄まで消すとリンダとは会話できなくなる。

 だから刀身を残したまま持ち歩きたいけど、柄頭から鍔まででも鈍器として使えるほど大きいため制服のポケットには入らない。

 そこで繁華街で材料を調達し、春菜と革のケースを作ってみた。

 スカートに隠れていて外からは目立たず、拳銃のホルスターのように素早く使えて便利な優れ物だ。


「ねえ、ご主人。ゲシュタルトに転移した初日、大きい夜獣とやり合ったの覚えてる? あれくらい歯応えあるのと戦ってみたいわ。想像するだけで武者震いする」


 相棒として二週間共に夜獣狩りをしてきたリンダの印象は「刺激を求める危ない女」だろう。


「危険を自ら望むのは良くない。そういう時がいつか来るって、覚悟しておくくらいでいい」


 注意こそしてもリンダに共感するところもあるため、強くは否定できない。

 車は全く走っていないから、車道の真ん中を堂々と歩いてセーフエリアに戻る。

 最近はこの時間に部屋へ戻ると春菜が料理を始めていて、俺も手伝うことが習慣になっていた。

 日々平穏で満ち足りた毎日だけど、疑問が無いわけじゃない。


 ここはゲシュタルト。

 元の世界に俺達の肉体はあっても、眠ったままだから家族が心配しているはず。いずれは転移する方法を見つけて、春菜と一緒に戻らなくてはいけない。

 そんな事情もあって繁華街を捜索してみても、今のところ収穫はゼロだ。


「あれっ、春菜じゃん」


 歩きながら夜空に浮く三色の地球を眺めていたけど、リンダの言葉を聞いて視線を下ろす。

 日用品置き場の近くまで来ると、出入口の辺りに大きめのショルダーバックを持つ人影が見えた。セーフエリア内で誰かと知り合ったことは一度も無く、この時間なら春菜に違いない。


 大きめの声で呼び掛けようとして――寸前のところで喉に押し止める。

 ショルダーバックを持っているのは春菜、それは間違いない。

 しかし、今まで近くの広葉樹が遮って見えなかったが知らない誰かと向き合っているようだった。会話の声は聞こえず、意思疎通ができないまま膠着状態が続いている様子。

 セーフエリアの中だから夜獣ではないはず、でもこの物騒な世界では何事も用心深く考えた方がいい。


「リンダ、用意しとけ」


 そう囁くと「わかったわ」と同じ小声で相棒はすぐに了解してくれた。


********************


 食事や洗濯に意味はあるのかと疑問に思い、わたしはセルフに聞いたことがある。

 一日中何も食べなくても強い空腹感は無いし、服の汚れも元の世界ほど残らないからだ。


「インサイドに戻りたいなら習慣は守るべき。浮世離れせず、悪い意味で達観しないことだ」


 そんな管理人さんの言葉通り、一日三度の食事や洗濯や掃除をわたしは怠ってはいない。

 しかしそれだけでは退屈極まりなく、一人でもたまにセーフエリアの中を探検しているし、数日に一度は楓ちゃんと繁華街へ出向いている。

 成果はあり、繁華街では寝具や調理器具等の生活に役立つ物を調達できた。衣類も沢山あって二人とも手持ちの服は学校の制服だけなので何着か貰おうか考えたけど、特に不自由もしていないし今は下着だけ頂戴している。


 個人的には、セーフエリアの中で図書館と繁華街で本屋を見つけたことは大きい。特別な力も無いため、一人では行動範囲が狭いわたしには重要なことだ。

 悪あがきだけど、楓ちゃんのような身体能力を得るために筋トレを密かに始めたりもした。しかし残念ながら期待した成果は今のところない。


「慣れないな、なんか罰でも当たりそう」


 今わたしは、他に誰もいない日用品置き場にいる。内装も陳列された品物も元の世界にあったスーパーマーケットとほぼ同じ。

 目的は十九時の食事の食材調達、ゲシュタルトに朝晩の区別は無いため夕飯という表現は不適切だ。食材を大きめのショルダーバックに次々と入れていく。元の世界では共用カートを使っていたけど、ここでは私物の鞄に直接入れていく。


「堂々と万引きしている気分」


 意味は無くても、律儀に無人のレジを通ってから外に出ることにしている。今でも対価を払わず品物を得ることに抵抗があるため、代償行為として元の世界のルールを少しは守っている。

 セルフの話では、経済が存在しないため売り物と思わなくていいらしい。ただそれに変わる仕組みや物流は存在するはずだけど、それについてはまだ聞いていない。

 食材の他にも洗剤類やティッシュ等も手に入るため、ここさえあれば不自由しない。生活を送る上ですっかり依存している。

 品物の調達が終わり、外に出て夜空に浮かぶ三色の地球を見て思う。


「いつまで続くんだろう」


 こうしてゲシュタルトに順応してきている。

 わたしが家事全般で楓ちゃんが夜獣退治を繰り返す共同生活が二週間も経ち、今を日常と受け入れ始めている。

 元の世界に帰ることを諦めていないけど今のところ手掛かりも無いから、このままの暮らしが何年も続きかねない。


 そんなことをぼんやり考えていると――妙な感触がした。

 セーフエリアにはわたしと楓ちゃん以外誰もいないと思い込んでいたけど、違和感の正体がゲシュタルトでは珍しい人気だと察し、すぐに左を向く。


 数メートル離れた場所に、パーカーを着た男性が立っていた。

 深く被ったフードで目は隠れ、口元を見ると頬がこけていて不健康な印象。猫背でだらりと両腕を前に垂らしたまま、何もせずこちらを見ている。


 会話もなく続く沈黙に全身が硬直する。

 セルフを除けばゲシュタルトで見知らぬ他人と始めての接触ということもあり、恐れもある。ただ同時に、目の前の男性には触れたら崩れてしまいそうな脆さも感じる。


「もっ……い」


 小さい呻き声が溢れる。

 彼が何か訴えたそうにも思えて、一歩踏み出して続きを求めてみる。すると足を引き摺るように一歩ずつ近づいてくる。

 しかし根拠の無いただの直感だけど敵意を感じない。


 見守りたくなる。

 弱々しい彼が何かを喋ろうと再び口が開こうとした時、一陣の強い風が吹き寄せてきた。

 あまりの勢いに瞬きをすると、目の前には転移してから見慣れてきた長い銀糸の後ろ髪。

 それが風の余波に靡いてから真っ直ぐ落ち、街灯の光を受けて輝く。


「春菜、下がるんだ」


 現れた楓ちゃんはわたしを守るように左手を横に伸ばし、彼の前に立ちはだかった。

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