(6)春菜の秘密

 首に下げた懐中時計を見ると残り時間は約十二分、タイムリミットが迫っている。

 真ん中の部屋の扉を開けたまま、出入り口を境に二人と話し続けた。しかし衝撃的な出会いに圧倒され、当たり障りのない浅い内容しかできていない。


――ジャックさんに頼まれてここに来たの?


 ボブの声が再び頭の中に囁きが響く、しかし部屋の中にいる彼の口元は全く動いていない。心に踏み入られる感触がするけど、決して拒否してはいけない。


「そうだよ。頼まれて良かったと思ってる、あなた達とお話できたから」


――そんなこと言う人と話すのはこの世界に来てから初めて、嬉しいわ


 今度はアリスの声。最初よりは幾分か声のトーンが軽くなっている気もする。


「ありがとう。わたしも転移してから幼馴染以外の人と話すのは久しぶりなの。もっとお話してみたい、だからここから出よう。もっと安全に住める場所があるから」


――お姉さんは穏やかだね。ジャックさんとも違う、まだこの世界に染まってない匂いがする。だからこんな夜獣が多くて危ない場所からは去って欲しい


「危ないのはあなた達にとっても同じよ。だから一緒に行きましょう」


――わたし達はどこへ行っても変わらない。そういう存在なの


「変わらないなんて……あなた達はもっと広々とした世界で生きるべきよ」


 安っぽい主張だと自己嫌悪。

 二人には本心を言わなければ、あとはわたし自身の覚悟だけ。

 そう心の中で足踏みしていると並ぶ二人の内、アリスだけが一歩前に出る。

 両手で摘んだスカートの裾を軽く持ち上げる欧州式の挨拶、確かカーテシーというものだったろうか。その後、部屋の出入り口の近くまでやってくる。

 一方でボブはその後ろで振り返り、窓の外を眺める。


――ジャンケンをしましょう


 すぐ近くに来たのに、アリスは口を閉じたまま頭の中への囁きで会話しようとする。

 ジャン、ケン、と囁き声と共に右手を振り上げられて、つい条件反射で付き合ってしまう。

 瞬きした後、目の前にはわたしがおっかなびっくり出したグーと、アリスの色素が薄い肌の手が作るチョキがあった。


――負けちゃったね


 おかしい。

 聞き違えただろうか、その囁き声は女の子ではなく男の子のもの。

 わたしはチョキの形を維持した青白い手から肩、顔へと視線を巡らせる。

 するとアリスの表情は緩やかに冷笑へと変化する。そして誘導するように左肩だけを竦めて、窓際にいるボブを逆の左手で指差す。


 部屋の中に入らずボブの後ろ姿を見ると、あることに気づく。

 後ろに組んだ手、それがアリスと同じチョキの形をしていた。

 どういう意味なのか疑問に思った瞬間、アリスは再び掲げた片手をわたしの目の前で振る。その手はパーの形を作っていた。

 もしやと重い、ボブの手を見ると――その手もパーになっていた。


 偶然だろうか?

 一つの仮説が浮かぶ。

 再びアリスの手を見るとグーになっていて、こちらに背を向けているはずなのにボブの手も連動してグーに変わっていた。

 その後も二人は何度か不規則に指の形を変えるけど、結果が異なることは一度も無かった。


――わかってもらえたかしら?


 アリスの声が聞こえると窓際のボブがこちらへ振り返り、


――ぼく達はこういう存在なんだ


 わたしの傍にいる少女が元の場所に戻っていく……まるで半身を求めるように。

 認めたくはないけど、きっと間違いじゃない。


「入れ替わっている?」


 そうとしか表現しようがない。さっきまでアリスの人格がボブの体に、ボブの人格がアリスに、それぞれ入れ替わったとわたしには思えてしまった。


――それは間違った認識よ


 二人は今までと同じく、一切口元を動かさず頭の中に直接響く音で話を続けた。


――ぼく達はね、生まれたときから二人で一緒にいたみたいなんだ

――食事のときも、寝るときも、検査のときも、実験のときも、手術のときも、わたし達は今までずっと一緒。離れたことなんて一度もないの


 今までの会話で疑問には思っていた。


――ある日、窓も何もない固いガラスで仕切られた壁の白い部屋に移された。ぼく達はお互いの姿をいつでも見ることができたけどガラスのせいで声は通じなかった

――でも何日か経ったら、声が届かなくても不思議とお互いが何を考えているのかわかったの。最初は混乱したけれどすぐに悟ったわ、わたし達は思考を共有しているって


 二人は親しい存在のはずなのに、どうして、


――相手が感じ思っていること全てを分かり合えた。言葉は通じなくても心はいつも通じ合っていた。でも過ごしていく内に、あることをぼく達は忘れてしまった


 どうして二人は……


――どっちの意識がアリスでどっちの意識がボブなのか


 どうして互いの名前を呼び合わないのだろうか、と。


――でもそれって重要なことかな。それぞれが元はどちらだったのかなんてことは、そんなに大事かな?

――自分自身の中に確かに存在する他者、これってとても素敵なことだと思うの。だから、他には何もいらないの


 わたしは能天気だ、恥ずかしいとすら思う。

 安寧の中で毎日過ごしてきたことを思い知る。


――わかってもらえた? ぼく達はこんな歪な存在なんだ。だからどこで暮らしても同じ

――だからこそお姉さんにはわたし達を見捨てて元の安全な場所へ帰って欲しいの

――仮にぼく達と一緒にいても、お姉さんはいつか毒されてしまう。そうはなって欲しくない

――だからどうかお帰りになって


 最後に言われたアリスの一言が殺し文句に聞こえて、その場で座り込んだ。

 二人が受け入れている虚無と絶望を受け止められる自信は無い。懐中時計を再び見ると残り時間は五分もなく、そろそろ合流地点に戻らなければいけない。

 自分は無力だ。


「わかった。わたしの事を案じてくれてありがとう……でも最後に聞いて欲しいことがあるの」


 二人を説得できなくても連れ出せなくても、それでも伝えたいことがある。


「わたしは日本で育ったけど、髪と目の色が黒ではないの。茶色が入った榛色っていうのかな」


 すると突然、真っ暗だった廊下の天井にある照明が点灯する、しかもわたしの真上だけ。

 きっと二人の配慮だから「ありがとう」と一言お礼をする。

 二人は話を聞いてくれる。なら、きちんと伝えよう。


「わたしは父さんが日本人とイギリス人のハーフで、クォーターなの」


 これは楓ちゃんにも教えていない。

 幼い頃はわたし自身もその事実を知らなかったぐらいだ。


「でも身の上を知った経緯は嫌なものだった。わたしの父方のお婆ちゃんとお爺ちゃんは子供を育て終えると不仲になっていったみたいで……お父さんはずっと板挟みに合ってた」


 アリスとボブは部屋を開けた時と同じソファの上に座っている。


「わたしが中学生になる頃、お爺ちゃんが重い病気になったんだけど、でもお婆ちゃんは介護したくないって話だった。でもお爺ちゃんはイギリスから日本に行ける状態じゃなくて、だから父さんは日本とイギリスを頻繁に往復してた……でもそんなの成り立つわけなかった」


 大したことない、としか思われないかもしれない。

 けど伝えたいことがある。


「たまに家に帰っても魂の無い抜け殻みたいな感じで、母さんの声も届かなくて上の空。そんな危うい状態が続いても仕事しながらイギリスへ行っていたから……気が触れちゃったのかな、母さんとわたしに八つ当たりするようになったの」


 この後は酷い内容しかないから、二人の子供から目を逸らす。


「最初は言葉だけだったけど、暴力になるのはすぐだった。家の物を壊して、言葉の掛け方を間違えれば叩かれた。酷い時だと母さんは何針も縫う切り傷を作ったし、わたしも打撲の痕を隠すために体育の授業や部活を休んだりした」


 きっとアリスとボブの体験に比べればよくある話で、広い世の中では日常の範疇だろう。


「あの頃は毎日が地獄に思えた。家に帰っても空気は冷え切っているし、勉強も部活も集中できないし、こんな色の髪と目を持っていると嫌がらせをしてくる頭の悪い同級生もいたよ……魔が魔を呼ぶような感触を今でも忘れていない。世の中を恨みたくなった」


 楓ちゃんにもセルフにも黙っていたことだ。

 わたしが元の世界へ戻れない理由は、きっとそんな黒い心を宿しているから。


「でも母方の両親のおかげで解決はしたの。両親は離婚して、小学校の途中まで住んでいた家に戻って転校にもなっていろいろリセット、環境が変わって平和にはなった。けど荒れた心は消えなかった。何かを恨み壊したい衝動を逃がす方法はわからなかった」


 これで小さな不幸自慢は終わりだから、今も変わらない様子の二人へ視線を戻す。


「でも、そんなわたしを救ってくれたのは……転校先にいた幼馴染。肉親に心は許せないけどその人にだったら許せるの。その人にも事情はあって負担になりたくないからわたしの事情を教えてはいない。けどいつか打ち明かす時、きっと抱きしめてくれると思ってる」


 だからわたしは転校してから穏やかな心を取り戻せた。


「確かにあなた達よりわたしは幸福だと思う。けれど環境が変われば、光を与えてくれる巡りにも出会えるかもしれない。少なくとも、わたしにはあったの。だから……わたしはあなた達をここから連れ出したかった。それが本心」


 アリスとボブを連れ出せないのは残念だ、でも強要はできない。

 でも別の誰かが訪れた時、わたしの話思い出して外へ出る気になってくれたらそれでいい。いつか救われること祈って、隣同士で寄り添う二人の姿を目に焼き付ける。


「ありがとう」


 元来た暗闇の廊下を戻ろうと、一歩を踏み出した時だった。

 頭の中への囁き声じゃなく、喉から出てきた違和感のないアリスの肉声。


「ゲシュタルトでそんな話をしてくれたのはお姉さんが初めてだ」


 部屋の中を振り返れば口を動かしてボブが喋っていた。


「それでもわたし達は歪な存在のままだと思う」


 二人はソファから立ち上がり、一緒に手を繋いで駆け足でやってくる。


「けどどこにいても同じなら、お姉さんの真似をしても同じだよね。その方が楽しそう」


 やがて出入り口を超えて廊下まで出てくると、わたしを見上げるように、二人一緒に体温を感じる柔らかな微笑みを浮かべる。


「さっきから時間を気にしてたでしょ? 急ぎましょ。わたし達はお姉さんより足が遅いから」


 通じ合えた。

 嬉しさを隠せず、思わず二人を抱きしめたい衝動に駆られる。

 でもアリスの言う通り、合流地点である建物の玄関口に急がなければいけない。


「行こう」


 二人を先導するためにボブの手を繋いだ時だった。

 静まり返っていた空間に突然の炸裂音。

 部屋の扉に付いているランプから電気が弾けるようなスパークが飛び、一斉に色が緑から赤へと変わり三つの扉が一斉に閉じた。


「なっ、何?」


 明らかな異常にわたしは周囲を見渡し、二人はその場で身を竦めてしまう。


「途中で電気を点けたのはまずかったな。ここにいますと言っているようなものだ」


 場を引き裂くようにフロア中に響く男の濁った声。

 隣の練から渡り廊下を通ってこちらにやってくる人のシルエットが見える。

 しかし影から出て、徐々に明らかになっていく男の姿は、異形そのものだった。


 針金のように一本一本が強く逆立った髪の毛は明らかに人のものではなく、歩く度に揺れている。

 皮膚の表面は赤褐色の煉瓦のように固そうで、弾力のある人間のものではない。

 さらに奇怪なのは左右で異なる色を持つ虹彩異色の瞳。左が赤で右が青の色彩を宿す瞳は暗く照明の弱いこの廊下で際立って見える。形も人間よりは猫のものに近い。

 さらに丈の長い白衣を着ていることが、男の異常さを際立たせていた。


「ようやく見つけた。お前達の能力が具体的にはわからないが、部屋の扉をこじ開けても姿が消えちまって、すぐ別の部屋、別の階や棟に移動しちまう。この施設には山ほど部屋があるから、全て壊して回るには無理があった」


 異形の男は子供達を舐めまわすように見る。その様は変質者でありながら飢えた獣のようでもあり、如何にして獲物を犯し喰らうか考えているようだった。

 ああ、と弱々しい絶望の声を漏らしながらその場でアリスが身を震わせる。


「表現が正しいかは知らないが、それがお前達の本体だろ? 会いたかったぜ」


 間に割って入るように急いで飛び出し、二人に近付く男を止めようとした……つもりだった。

 わたしの視界に映ったのは、翻る白衣の裾。


「おい、雌ガキ」


 声が背後から聞こえた。いつの間に移動したのだろう。


「今にも泣きそうだけどよ、俺達はガキの泣き喚く声が大嫌いなんだよ。だからもし我慢しねえと無様に殺した後、滅茶苦茶に犯して、食っちまうぞ」


 男はアリスの髪の毛を指で弄りながら「けへへへへへ」と嗜虐的な哄笑を上げる。

 異常者、狂人、変質者、精神破綻者、どれも意味として遠くはないけれど間違っている。なぜならすでに「人間」ではないからだ。


 きっとジャックさんが言っていた、灰人という夜獣だ。


「おい、雄ガキ。これはお前にも言ってんだぞ、聞いてんのか?」


 ボブは汚い言葉を前に動揺したりはしない。ただ己の半身が下卑た狂気に弄ばれようとしている事実に耐えているのか、強く握った右手の拳をわなわなと震わせていた。


「止めなさい」


 わたしはアリスの頬に長い爪を立てて遊んでいる男を睨みつける。


「なあ、姉ちゃん。俺はよ、こいつらにしか興味ねんだよ」


 、とはどういうことだろうか。

 何にせよ、わたしなど眼中ないといった様子。


「こいつらの幻にはずっと苦労してきた。それを解いてくれた礼に、姉ちゃんは見逃してやるからよ。邪魔すんなや」

「触らないで」


 こんな狂った存在が子供達を凌辱するなどあってはならない。

 アリスの髪を弾いていた固い岩石の感触がする男の腕を弾いて払い除ける。

 力が抜けた腕はぶらりとアリスから離れるけれど、気にせず男は再び触り始める。

 馬鹿にされているのだろう。

 けどめげずに、男の腕を掴み二人から引き剥がそうとする。


「きゃあっ」


 男はアリスを眺めたまま、わたしの手を捩じり上げ自分の近くに引き寄せる。

 弧を描くようにわたしの方へと首を回すその様は恐竜のようだった。左右で色が異なる瞳は不機嫌そうにわたしを睨む。

 その光る瞳に宿る衝動が変化したように見えた。でもこれは好都合かもしれない。


――今の内に逃げて!


 わたしが捕まっていれば二人だけは逃げられるかもしれない。僅かな希望を信じて念じる。

 二人の声が頭の中に入ってくるとしてもこちらの声が届くとは限らない。でも僅かな希望を信じて念じる。


――お姉さんを置き去りにするなんてできない、そんなの嫌だよ

――ぼくらがいたってどうしようもない。お姉さんの考えがわかるだろ?


 声に出さなくても、念じたことがあの子たちに通じている?

 博打のようなことが成功したけれど、喜んでいる場合じゃない。

 今にも泣きそうで弱い人格と理性的で強い人格の声が、直接頭の中に伝わってくる。

 わたしのことなんていい、ほんの少しでもいいからどこかへ行って。


「おい、ガキ共」


 男の一言と同時に、その背に煙の如く濁った紫色の靄が現れる。

 それが輪となり床や天井を突き抜けて大きく広がり、つい目を瞑ってしまう。


「逃げるな。お前達は俺達の手術をこれから受けるんだ、少しずつ解体してやるよ。一気に殺すなんてもったいないだろ」


 目を開けると、男の背には同じ形をしたいくつもの金属が浮遊していた。

 大きさが異なるそれは約十本、銀色で手術の時に使うメスに似ていた。通常のメスと違うは、男が発した紫色の靄を全てのメスが帯びているところだ。


「ところでな、女」


 舌舐めずりしながらわたしの腕を吊り上げ、顔を寄せて息を吹き掛けてくる。さらに空いた片手でわたしの頬に触り、長い爪の先を使って頬から首へと撫でられる。

 鳥肌が立ち生理的抵抗が背筋を一瞬にして駆け巡る。


「お前はセーフ。胸はデカくないし、胴体と手足のバランスなんてそこのガキ共に近い。そういう趣味のやつはいるだろ、ゲシュタルトだって例外じゃない」


 野卑な言葉遣いと程度の低い侮辱には何も感じない。あるのはあの子達を逃がしてやることができないという無念だ。


「だからまずはお前だ。逆らわなきゃ、無事でいられたのにな」


 喉にまで至った爪がわたしの服に掛かり、そのまま下ろせば一気に破れる。

 でも焦らすように襟から少しずつ裂き「くへへへへっ」とわたしが恐怖で染まってく過程を愉しみ嗤う。

 やがて下着へと化け物は爪を進めてくる。ストラップに当て、引き裂こうとする瞬間を味わっているようだった。


 もし楓ちゃんのように戦えていれば、あの子達を救えるのに。

「手段が無いと一方的な絶望の前に屈することになるぞ」というジャックさんの言葉が頭の中で反芻する。

 今のわたしはあまりにも無力。

 イデアなんていらないという思いは甘い理想、ゲシュタルトでは理想を通り越したあまりにも幼稚過ぎる考えなのだろう。


 男の指に力が入る。後悔を引きずったまま目を閉じた瞬間、それは起こった。

 渡り廊下の方から、鼓膜を揺さぶるほどの派手な破砕音が轟いて――

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