(3)東京タワーと敵意

 春菜は二本の髪束を揺らしながら、駆け足で大展望台のフロアを進んでいく。高校生なのに子供みたいなのは一体どっちだろう?


「この前よりも空いてて快適じゃん。春菜はホントにここ好きだよな」

 浮かれている春菜をからかうために、マゼンダの細いリボンの先を弄って遊んでみる。

「いいの、気に入ってるんだから」


 二ヶ月前に来た時は祝日でエレベータもチケット売り場も待ち時間が長かった。今は平日の夕時、地上から百五十メートルの位置にある大展望台をゆっくり楽しめそうだ。

 ここは赤と白のツートンの塗装がされた全長三百三十三メートルの電波塔。都内に数あるシンボルの一つ、東京タワー。


「俺は夜景も好きだけど、これはこれで違う趣があって良いかも」

「夜景は学校の屋上からでも綺麗だけど、夕方の時間はここからが格別だもん」


 夕方という昼夜の狭間は、広がる街並みを黄金色に染め上げる。

 でもそれは刹那的、少し時間が経つだけで夜という別世界に変貌する。限られた時間帯だけが生み出す美しい黄昏時だ。


「スカイツリーの方が高さあるし、あっちの方が良いんじゃないか?」

「行ったことあるけど、あそこは高過ぎるかな。名前通り空にいるみたいで街の様子は見えにくかった。離れ過ぎてて違う世界にいるみたいだったよ」


 春菜は窓ガラスに片手の指先を当て、瞬きもせず外の景色を見続けている。ガラスに映る穏やかな表情は少しうっとりとしている。

 普段から多くのことに関心を持つタイプなのに一つのことに意識を奪われることは珍しい。


 俺も隣に立ち、同じ景色を眺める。

 確かに普段は味わえない非日常の香りがする。高校生の小遣いでは利用料金も安くはないけど、二ヶ月に一度くらいなら悪くない。

 しばらくすると、春菜は現実に引き戻されるようにはっと気づき、申し訳なさそうに俺に向けて両手を合わせる。


「ごめんね、一人で没頭しちゃって。退屈……だったりするかな、ただ風景見るだけだし」

「いや、そんなことない。でも春菜ほどのめり込んでない。どうしてそんなに好きなんだ?」


 春菜は俺と目を合わせた後、再び窓ガラスへ向き直り、黄金色に染まった下界を眺める。


「簡単に言っちゃえば、全てを一目で捉えることができるから、かな」


 やや身を乗り出して景色を観るその姿は、街全体に触れているかのようだった。


「だって全てが見えるんだよ。どこまでも続く空の下に、数え切れないほど流れる人々の意識と今この瞬間まで存在してきた建物の記憶がある。それがさ、ここからは全て見渡せる。これってすごいことだと思わない?」


 春菜はふざけるときや機嫌が良い時、饒舌な口調になったり哲学めいた言葉を使ったりする。ただ今の言葉はそれとは違う、淀みない本心に思えた。


「ごめん。俺にはちょっとわからないかな」


 確かにこの展望台からなら、街中を一瞬で捉えることができる。しかし建物が持つ歴史や人々の感情を理解するには、近くで直接触れないとわからない気がする。


「でも春菜らしいなって、思うよ」

「ありがとう」


 俺とは違い、琥珀色の瞳には景色だけじゃなく、その先にある何かが映っているようにも思えた。つまらない表現だけど、俺には無い感性があるのかもしれない。

 外の景色は太陽が沈もうとしていて、黄金色の輝きも少し弱くなっている。

 あと三十分も経ってしまえば真っ暗な夜景になってしまいそうだった。


「そろそろ帰ろうか」

「……うん」


 春菜は今まで触れていた窓ガラスを見ながら、名残惜しそうに指先を離した。


********************


 俺達が東京タワーを出ると五時を過ぎていて、乗った電車の中には帰宅するスーツ姿の社会人がある。満員電車というほどではないけど、車内はやや窮屈になってきた。


「あのさ、読みやすい本ってなんかある?」

「どんなジャンルをご所望かな?」


 得意気な顔で、春菜は聞き返してくる。


「内容はなんでもいいから本を読んでみようと思ったんだ。活字に多少は触れようと思ってさ」

「良い心掛けだね」


 無駄に上から目線な言い方、本の話題になって春菜はご機嫌のようだ。


「それじゃ、まずはここからいこうか」


 鞄の中から本を取り出して俺に差し出してくる。図書館で借りたものだろう。しかし表紙を見ると、親しみ難いフォントで「六道輪廻と神隠し」と書いてあった。


「な、何これ」


 全く食指が動かないタイトルに胸焼けする感触がして、受け取らず持ち主へ押し返す。


「あら残念、あと一冊あるから貸せるのに」


 春菜は涼しげにそう言いつつも、満足そうに本を自分の鞄の中に入れ直す。


「苦そうというか、暗いというか、どうしてそんな本借りたんだ?」

「んーとね……あんな話題があるからだよ」


 指差した先は電車の吊り広告がある。俗なスクープネタを扱っている写真週刊誌のもので、なんだか汚らしいものに思えてあまり好きじゃない。


「そこに失踪事件がどうのって書いてあるじゃない? 新聞やニュースには小さくしか扱われていないけど気になったの。だからネット検索から始めて調べてみた。するとこういう伝承とかも少し知りたくなって、それで図書館で本を借りたというわけ」


 それだけのきっかけで渋そうな本を読む気になれるとは尊敬する。


「失踪事件ってどういうこと?」

「ここ数ヶ月の間に、都内で行方不明の人間が増えているっていう噂があるんだよ。でもはっきりと事件扱いはされてなくて真偽も怪しい部分もあるし、都市伝説の域を出ない話かな」

「行方不明っていうのは、家に帰らない人とかのこと?」


 春菜に質問をすると、ちょうど停車するタイミングだった。ドアが開いて、乗ってくる人達へ反射的に視線が向く……妙な感触がした。

 視界の右端で、俺の動作に反応して誰かが動いたような気がした。


「そうだよ。あと、行方不明になったのは登校・下校・出社・帰宅という移動中の人達ばかり。朝になったら部屋から消えていた、とかいう話はあまりない」


 春菜にはひとまず適当に相槌を打つ。

 露骨でない程度に右に首を動かし横目で覗うと、学ランの男子高校生が手前のサラリーマンを盾にするような位置にいた。

 気にし過ぎだろうか。

 そのまま相手を観察していると、人を挟んで姿を隠している時が多く、吊り広告や外の景色を眺めるフリをしつつこちらの方をたまに見てくる。

 まるで不自然にならないように取り繕い、俺と春菜の様子を窺っているかのようだった。


「性別や立場とか、他に共通点は無い。でも雑誌の記事やネットの断片的な情報を合わせると、一つ仮説ができたの」


 春菜は失踪事件について語り続ける。少し饒舌になっているのは、聞く姿勢がなっていない俺への当て付けだろう。今は雑談で盛り上がるのは後回しだ。


「ここまでの結論に辿り着いている人はいないんじゃないかな……失踪した人は都内でも、特にわたし達が今乗ってるこの山手線を普段から利用する人が多い」


 より首を傾けて、明らかに挙動不審な男子の動きをさらに追ってみる。ただ相手も俺の挙動を察したのか、警戒して覗いてくる頻度が減る。

 これ以上は牽制を続けても意味がない。真面目に話を聞いてないから春菜の機嫌も少し悪くなっている。だから仕方なく学ランの男子から目を離す。


 瞬きした後に他の乗客と目が合う――見間違い、と思いたかった。

 しかしそれは知っている顔で、数時間前に俺が睨みつけた相手、南野だった。


「移動中に行方不明、さらには普段から山手線を利用。つまり失踪事件は山手線の車両の中、あるいは下車した構内で起こっているんじゃないか、というのがわたしの仮説」

「そう、だよな」


 混雑している車内で互いに向き合っている春菜の顔を見る。最初は不貞腐れていたけど、俺の様子を察してか徐々に表情が締まっていく。


「確かに満員電車や大きい駅の中だったら、人一人消えても全然わからない。それと同じ理由で、誰かをストーキングしてたってバレやしないもんな」

「えっ、何言ってるの?」

「南野が俺達をつけてやがる、しかも一人じゃない。向こうのドアの近くにいる学ランの男子もこっちを見てた」


 春菜は状況を知ると驚きを隠せず、口を開けたまま琥珀色の瞳が大きく見開く。


「で、でもなんで南野先輩が?」


 南野ともう一人の男子から春菜を遮るように立ち位置を変える。今までとは逆、ドアに背を向ける春菜に対して俺が向かい合う形だ。


「そんなの決まってるじゃないか。さっき春菜を口説いてる途中で俺に邪魔されたから、その腹いせで嫌がらせしようって魂胆に決まってる」


 いつから跡をつけられていたのだろうか。

 俺達は買い物をして東京タワーにも行った。だから南野は仲間と密に連絡を取り、巧妙なやり方で俺達を狙っていたのかもしれない。校内で評判の悪い人間に反発したのだから、普段より注意して寄り道せず家に帰るべきだった。


「楓ちゃん、あのね……」


 春菜にブレザーの裾を摘まれて、危機に怯えるような小さい声で呼ばれる。

 さらに電車が建物の日陰に入り、横顔を照らしていたオレンジ色の陽光が消える。そのせいかで張り詰めた表情がより不安げに見えた。


「大丈夫。あいつが迫ってきたって、さっきみたいに俺が守るからさ」


 帰宅ラッシュ中の人が多い車内だと、二人いたところで威嚇する程度しかできないはず。特に怖がる必要もない。


「違うの」


 訴え掛けるように、摘んでいたブレザーの袖を強く揺らしてくる。


「あそこにいる他の高校の人、さっきからこっちを睨んでる」


 その意味を理解すると、春菜が僅かに視線を向ける方へ露骨に振り返ってしまう。

 やや遠い位置に、アイボリーのセーターを着た鋭い目つきの男子がこちらを見ていた。


「それにさっき電車に乗ってきた金髪の人も、つり革に掴まりながらたまにこっち見てる」


 セーターの男より近い位置に、頬がこけている金髪の男がいた。春菜に感づかれて慎重になっているのか、全くこちらを見てこない。

 それでも慌てる必要はない。周囲に人が大勢いるから思い切った行動はできないはず。


「南野の仲間かな?」

「そうかもしれない。違うといいけど」


 春菜も状況がわかった上で、気休めとして言ったのだろう。

 セーターと金髪の男は、注目されない程度に満員電車の人ゴミの間を抜け、遅々とした進みだが少しずつ近づいてくる。二人とは逆側にいるサラリーマンの後ろで隠れていた学ランの男もそうで、睨みを利かせながら同じ要領で少しずつ迫ってくる。


「まずいな」


 電車の中だから暴力沙汰にはならなくても、逃げ場のない車内で囲まれてしまえば身動きが取れなくなってしまう。

 そんな息苦しい状況が続く中で、俺のブレザーを握る手から微かな揺れが伝わってきた。

 僅かに振り向くだけで、後ろにいる春菜の足が震えていることに気づく。

 こんな経験をしたことなんて一度も無いだろう。

 俺も経験豊富ではないから、状況を打破する方法は思いつかない。もし一人か二人が相手ならどうにかなっても、狭い車内で四人組となると何も打つ手が無い。


「くそっ」


 切迫した状況に追い込まれたせいか、今まで体験した嫌な記憶が次々と湧き上がってくる。

 それは俺の思いを否定したり妙な病名で呼ぶ者達への抵抗、反骨心だ。

 あの医者に「結城さんには男性になりたい願望がある」と言われた。俺はそんなこと思っていないし、おかしな精神病なんかじゃない。それに両親やクラスメイトは女らしくしようと言ってくる。そんなものは無神経な言葉であって、余計なお世話だ。

 俺の思いを砕くように、周囲は制裁を与えてくる。

 この世界は枠に填まった人間しか肯定しない。他者とはほんの少しでも違う思考を持ち異端となった者を排除しようとする。それがとてつもなく不条理に思えてならない。


 俺の背中で脅えている大切な人を危険な目に遭わせたくはない。

 春菜にはずっと救われてきた。

 数年前に再会していなければ、俺はずっと孤独の闇の中で苦しみ続けて灰色の毎日を送っていた。そこから春菜は救い出してくれたのに、逆に今は守ってやれない。

 そんな自分の無力さが憎い。


 奴らは徐々にこちらへ迫りながら、俺と春菜を威圧してくる。なぜ関わらないでいてくれないのだろう。別に俺達はあんたらに何かしようだなんて思っていない。

 だから干渉せず、放っておいてくれ。

 俺はただ春菜といたいだけなんだ!


――今いる世界を捨て、別世界の住人にならないか?


 なんだろう。

 大きな囁きのような何かが頭の中に響いてきた。知らない誰かの、地の奥底から浮き上がってきたような重い声。


 他にも妙な感触がした。

 何かが揺れ動いているような違和感、その正体は俺の鞄の中。

 僅かに空いたファスナーの隙間から見えたのは図書館で拾った、白黒で勾玉模様のオブジェだった。

 今にも白と黒の境目が割れ、中から生き物が出てきそうな不気味な揺れ方をしていた。


 そんな妙な現象や物に翻弄されていると、急に両足が浮き――視界が飛んだ。

 よろけながらもバランスを保つ。ただ突然のことで何が起こったのかわからなかった。

 周囲の人達が叫びながらつり革や椅子にしがみつこうとしているのが見えて、車両が激しく揺れていることに気づく。


 地震か脱線事故だろうか。

 立て続けにさっきよりも大きな揺れが起きて、一瞬だけ全身が浮いたような気がした。

 その拍子にブレザーの裾を掴んでいた手が離れる。


「きゃっ」

「春菜!」


 離れていく春菜を引き寄せようと咄嗟に手を伸ばすけれど、虚しく空を切る。

 パニック状態で人ゴミの波が荒れ狂う車内で、隣のサラリーマンに押されて床に叩き付けられる。受身を取れたせいか痛みは軽く大したことはない。


 けれど視線の先いる春菜はドアの手すりに頭を打ち、力無く項垂れて気を失った。

 その光景を見て、車内の阿鼻叫喚とした煩さが嘘のようにどこか遠くへ吹き飛ぶ。間にいる人を掻き分けてすぐにでも春菜のそばに駆け寄りたかった。


 その時だった。

 視界が曲がり……いや、歪んでいるといった方が正しい。目に映るもの全てが波を打つように、ぐにゃりと視界の中心から捻れていく。

 人間はこの程度で視覚器官が壊れてしまうのだろうか。

 すると重苦しくて得体の知れない圧倒的な不快感が押し寄せてくる。まるで空間に全身を侵食されていくような錯覚さえ感じる。

 世界が崩壊して見える中で、気絶した春菜だけはなんとか捉えることができた。


「くそっ」


 視界は濁流を描いてより歪んでいく。

 俺は大切な人と離れたくない一心で片手を伸ばし、力無く投げ出された春菜の手を握った。

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