一 露降る星合の空(5)
「そうですかな」
動じない風で惟正は黄苺を取り、ひとつ口に運んだけれど、後は止めておいた。義孝の観察通り、この朝は食べ過ぎである。昨夜の酒も響いている。
「仮初めにしても贈答歌なのですから、艶がなさすぎはしませんか」
それは、私は女人ではありませんからな、と二十五も年上の義兄は嘯く。
「私もいい年ですからね。色気のなさはご容赦願いたいものです」
彼は、少しむっとする。正直だな、と惟正は好ましく思った。道時がそうであるように、惟正も彼の
「拙かろうと、せいいっぱいのお返しですよ。お戻りになったら、どうぞお父君にでも笑い話としてでもお話しください」
そうでしょうか、と義孝は憮然として、次には懐紙をきゅっと折り出した。細く畳んで
「仮の宿りであろうと、すげなさすぎるお答えでは帰るに帰れないというもの……。他の歌人にも、ひとつ労を願いましょうか」
惟正は虚を突かれた。そもそも彼は歌人といえるほどの腕前ではないし、この贈答歌も義孝の我が儘を何とかやり過ごそうというだけ。礼儀としての返したのである。歌合ではないのだから、そう言われても。
どういう意味か考えあぐねているうちに、義孝はいずこからか取り出した白い花の枝に、枕紙とその返歌をとしっかりと結わえていた。それから小君をこまねいて、何事かを言いつける。
「これは、義孝殿。何をなさるおつもりですか」
すぐわかります、と彼は居ずまいを正した。どういうことだ、と問いかけ、腰を浮かせた父の脇を末息子が小走りに抜けていく。
「これ! 小君。待ちなさい」
止めるより早く、少年は花枝を両手に掲げるようにして姉の住む対に向かっていった。
しまった。
あれは橘ではないか。
今度は惟正が眉を顰める番だ。
いつのまに用意していたのだろう。夜のうちからとは思えない。露を含んだ花には、まだ力がある。家の者かお付きの誰かかは知らないが、朝の早いうちに差し入れしたのだろうけれど、どうも義孝には協力者が多くて結婚を許さない娘の父としてはやりづらくて敵わない。それとも、娘から送って……? いやいや、そこまで考えなしに浮かれ女のような真似はするまい、と彼は思いを巡らせた。
橘は、昔の恋人を指す。一条残る爽やかな香りを嗅ぎながら、惟正はしてやられたことに気づいた。これでは自分を忘れてはいないだろうねと、彼が娘に和歌を贈ったことになるではないか。腹のうちで、そんなことを画策していたとは。さきほどの表情、あれは見せかけだったのかと、惟正はすっかり脱力してしまった。
「どうされたのです、罪のない遊びではありませんか」
「本当に、貴方は見た目そのままの方ではありませんな」
「どういう意味です」
言葉の上は問い質す形ではあるが、気にする素振りもなく彼は肩を竦めた。
届けてしまったのなら、もう仕方ない。後は娘が妙な答えを導き出さなければいいが、と惟正は密かに案じた。夜明け前にはひどく落ち込んで、やっぱり尼になると山科に愚痴を零していたという。自暴自棄になったあげく家と自分の名前を落とすような、変な和歌を書きでもしたら。何しろ、どうにか姫君らしく育ったとはいっても、未だに幼い頃のやんちゃな性質を垣間見せる娘である。
いや、いっそのこと、その方がいいだろうかという気もした。つまらない返事をしたなら、きっと風流人で知られる義孝の興も削がれてしまうだろう。女人としては不名誉なことだが、いざこざを避けるためには気持ちごと冷めてくれた方が……。
ぐるぐると頭の中で出口を無くしてしまった懸念のために、彼の目も回りそうだった。大きくため息を漏らした惟正と、義孝の視線がふと出会う。「楽しみですね」と彼は微笑んだ。
その頃、弟によってもたらされた和歌を胸に抱いて、姫は微動だにできずにいた。せっかくの逢瀬が無駄になってしまって、もう義孝様は私などお見捨てになったかしらと心を痛めていたところだったのだ。こちらも寝不足と涙で真っ赤になった目を大きく開いて、彼女はよくよく和歌を読んだ。
「姉上なら何と返しますか、と義孝様が」
想いで応えるのならば、世に向けて高らかに歌い上げてしまって構わない。お慕いしているのは
それが何よりも嬉しかった。
けれど。
下手に品のない和歌を詠んだりしては、ますます父との仲はこじれてしまうだろう。躍る心を、無理やりに鎮める。彼女は彼を婿にしたいのであって、父と不仲にしたいのではない。彼女は硯を引き寄せ、「少し待ちなさい」と弟に告げた。
冷たく拒絶した父上の返歌を和らげて、義孝様に自分の心を受け取っていただくには。
そうね。
彼女は筆を取って短冊にすらすらと文字を連ねると、袖に乗せて弟に渡した。役目を仰せつかった少年は、恋の橋渡し役として恭しく和歌を預かると、来たときのように紙を掲げて正殿へと歩いていく。彼女は枕紙に頬寄せて彼の温もりが移るとよいと願いつつ、御簾の間から橘を手にして見送った。
あの向こうに、彼がいる。私の、あの人が。
「やあ、お帰り」
優しく自分を迎えた義孝の許へ短冊を渡そうとした小君は、その前にすっと父に奪い取られてしまった。
「まずは親の私が拝読しましょう」
ちらりと文字を捉え、まあ、これならばと一読したのち、彼は短冊を義孝に回した。
―― 語るともたが名はたたじながからぬ 心のほどや人に知られん
「慎ましくも考えの深いお返しですね」
それ以上詳しく話題にすることなく彼は短冊を懐にしまうと、小君を労って立ち上がる。主である惟正にも再度丁寧に礼を述べて、彼は二条の屋敷を後にした。終りには、拍子抜けするほどあっさり引き下がったな、とひとまず安堵した惟正ではあったけれども、新しい心配事も沸いて出る。このことを伊尹殿の耳に入れようかどうようか、まったく悩ましいことだと腕を組んで頭を悩ませ始めていた。
―― 人に言ったとしても誰の名が話題になるというのでしょう。貴方の気の短さが知られてしまうだけでございます。
帰る道すがら、彼は短冊を入れた胸を押さえ、ときには足を止めてこみ上げる想いを吐息にし、ずっと意味を考えていた。
私は問題ではない。貴方の不名誉になってしまう。
だから短慮は起こさないで、気持ちを長く持って、と彼女は言っている。
諦めないよ、と彼は
絶対に、君を諦めたりなんかしない。
とにもかくにも、どれほど彼が本気であるのか、少なくとも惟正には伝わったことだろう。場合によっては、伊尹も理解してくれるかもしれない。
どうしても拒絶するというのなら、駆け落ちしてしまっても構わない。
さすがに、それはいよいよの手段で、できれば採りたくはなかったけれど、必要なら彼は迷わない、と改めて決意した。
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