二 君がため惜しからざりし(8)
結局持ち込んだ酒をひとりで空にして、深夜、上機嫌のうちに道隆は帰っていった。
いい加減な振る舞いも多い男ではあるが、義孝から文を預かった後はすぐに言葉通り実行に移してくれた。折よく宴があった。酒が入れば無理も通りやすい、そう道隆は踏んでいたし、もともと惟正も飲めない方ではない。
位階・役職では自分が上とはいえ、惟正はそう道隆を無碍には出来ない。内大臣である兼通よりも、目下は兼家の方と関係を深めている。彼と同席した場で嫡男から、「いや、人の恋路はちょっと大目に見てやってくださいよ」と悪びれなく言われては、冷たく断ることもできなかった。
「忘れるにも、相応の手順、お心返しが必要かと。何かと縁の深い相手です。修理大夫殿もそう思われませんか」
道隆はさらりと言ってのけたけれど、痛いところも突かれた。伊尹の死後、惟正が兼家に接近していることを恩知らずと謗る者もいないではなかった。案外周囲を見ている男だ、と密かに道隆を見直しつつ、まあ、返事くらいは……、と答えざるを得なかった。彼はしぶしぶながら、娘への文を受け取ってしまったのだ。
全く以て、道隆の主張は正論である。伊尹には猶子のように親しくしてもらったし、その息子なのだから、恋を諦めさせてやるのも義理の兄としての思いやりだろう。その点には二の句が告げられなかった。けれども、「この期に及んで娘の心が変わったら」「冷たく突き放しすぎて、義孝が悪い袋小路に入り込んだら」と想像すると、積極的に動くことにはためらいがあって、どうしても二の足を踏んでしまっていた。
―― いつまでの命と知らぬ世の中につらき嘆きのただならぬかな
念のためと、届いた文を確かめてみた惟正は、見たことをすぐに後悔した。十になる前から和歌の名手と皇親の方々に褒め称えられた義孝である。その彼が才のすべてでもって、我が娘を恋い慕い、切に求めている。ふたりの仲に反対している惟正であってさえ動揺せずにはいられないというのに、まだ大人ともいえない娘の身からしたら……、と気が気ではなかった。
―― どれほど先がある命ともわからないのに、君を想って嘆くつらさは伝えようもないほどだよ。
だが、受け取った由子は、もう動じなかった。お気の毒に、と呟いて、澱むことなく返事を書き表す。
―― 身をつみ長からぬ世を知る人はひとえに人を恨みさらなん
「お送りしてください」
渡された父の方は心配もあって、返しも中身を確認してみる。気がせいて、つい彼女の目の前でうっかり開こうとして、はっと手を止めた。しかし、彼女は「どうぞ」と何でもないことのように確認を勧める。惟真さは居心地の悪さを味わいながらも、その文字を追った。
「おまえ、これは……」
「これでおわかりくださるでしょう」
言い残して、彼女は義務を終えたように息をつき、「部屋に下がります」と奥へと姿を消した。
―― 私の心変わりを薄情といって責めないでくださいませ。そういう儚い世の中だと、貴方もよくご存じでございましょう。
そうだ。これでお終い。
ひとりになりたくて。ただ孤独を友にしたくて、彼女は帳台に逃げ込んだ。
返事をしないでいるうちは、疑っても、怪しんでも、彼は自分の想いを信じ続けるだろう。きっと、父上が邪魔をしているのだ、と。でも、こうして答えてしまえば。
だって、どうしようもないのだもの。
二度と父に涙を見せるまいと張った気持ちが緩んで、彼女の頬を大粒の涙が流れていく。
どうにもできない、私には。
何年前になるだろうか。妻を娶った彼を、裏切り者と責め立てた私は、なんて幼かったのだろう。
彼の決断を不誠実だと咎めることが、誰にできるだろうか。
どうしようもない、彼にだって。ただ、あの方は先に大人になろうとした。迫り来るさまざまのことを乗り越えるために、早く一人前になろうとしたのだ。
今なら、彼の決断がわかる。すべてを振り捨てて恋を選ぶなど、簡単にできることではない。父を捨て、兄弟を捨て、側仕えの者たちを裏切り、ただひとりの自分となって、心のままに生きるのは、とてもとても勇気のいること……。
私は、叔母上のように強くはない。
未来はないと分かっている恋なのに。それでも、敢えて掴み取るなんて。
彼女は、愛の名残の茵から天を仰ぐ。ただ、仰ぐ。
取るに足らない人の身では、そこに届くことはないだろう。彼への想いと同じように。
どれだけ強く焦がれても、愛しても。
彼女の瞳に、星は見えない。
こうして囲われて囚われているうちは。
けれど、この格子の屋根の築墻の……、父の庇護の外へと飛び出すこともできない。
あの人とともにと願った星合の空は。
「私には遠い場所だったのね……」
彼女は、長いことそれを知らずにいた。
ただ、夢を見ていた……。
やっと彼女は、そのことを知った。
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