二 君がため惜しからざりし(7)

 年の瀬も差し迫った午後のことである。家人に彼の名前を聞かされた義孝は、初めての訪問に驚きつつも敷地の境界まで行って棟門で応対した。


 彼は義孝を見付けると、ようと片手をあげて挨拶した。


 男は藤原道隆。兼家の長男で、義孝にとっては従兄に当たる。とはいっても、豪放磊落な性格をしたこの従兄は、どちらかと言えば兄の挙賢の方と仲がよい。義孝も一年ほどは左兵衛府で同じ職に就いていたから疎遠というわけではないのだが、無類の酒好きとあって宴でも彼とはなかなかに歩調が合わない。義孝に言わせれば、兄とこの従兄は似たもの同士なのだ。


「なんだい、急に」

 いや近くまで来たから、と彼は門の中をひょいと覗き込む。彼も九条の血筋に違わず、顔立ちの整った若者ではあるのだが、御曹司にしては型破りな性格のせいで、かなり割り引いて見られてもいる。


「今日は在宅だと蔵人頭挙賢に聞いてたし」

 そりゃあね、と彼は肩をそびやかして、札を顎で示す。


「酷い物忌みだからね。それでこうして籠もっているのに、君ときたら」

「あっ、俺、そういうの気にしない質だから大丈夫」

 こっちが気にするんだよ、と義孝はため息をついた。


「ちょっと待ってくれ」

 彼は数珠を袂から取り出すと、小声で法華経を唱えた。その姿に、さしもの道隆も眉を顰めて、すっと身を引く。


「なに、おまえ……。出家でもすんの」

「随分な言われようだな。たまたま父祖の供養のために写経をしていたところだったんだよ」


 写経とは、たまたま、しているものだろうか。道隆は首を傾げた。この従弟の抹香臭さときたら、煩悩にまみれた自分でも側にいたら成仏してしまいそうである。


「さ、読経したから中に入って構わないよ。わざわざ来たというのには、それなりの用があるのだろう?」

「え……。そんなものでいいのか?」


 人を避けてまで固く守っていたはずの物忌みなのに、と道隆は眉を顰めた。気にしないと請け合ったのに変なやつだ、と義孝も首を傾げる。道隆は、おずおずと数珠を指さして尋ねた。


「というか、その経って、そういう効果があるのか?」

 さあね、と彼は肩を竦めた。


「法華経だけど。所謂気休めだよ。やっておけば、気が楽になるっていう、ね」

「おまえ……。殊勝なのか、そうでないのか、わからないやつだな」

 それはお互い様だと笑って、彼は道隆を広廂に通す。畳の上にどっかと腰を下ろし、どんと、彼は持参した瓶を手前に置いた。それにちらりと目をやり、義孝は「私は、酒は飲まないよ」と告げた。酒には、本当に酷い目に遭わされた。


「知ってるさ」

 酒の出る席では、義孝は可能な限り杯を固辞している。まったく飲めないというのとは違うけれど、好きではないことはよく広まっていた。


「これは俺の分」

「ああ、そう」

 好きに振る舞う従兄を、彼は放っておくことにした。


「それで、何だい」

「別に。暇だったからな」

 道隆は杯を煽って、少し考え、いや、はっきり言おう、と彼を見つめた。


「近頃どうだ、おまえ」

 どうってと答えつつ、つい先日道隆とした会話を思い出す。何気ない雑談から、女性関係の話になってしまい、歯に衣着せない性格の道隆に「例の女、あれは一体どうなったんだ」とずばり切り込まれたのだ。


 個人的なことへあれこれ口だしされるのは好かないが、道隆があっけらかんとして尋ねるので、ついつい彼も「あちらの態度がなかなかに難しくてね」と正直に返答してしまった。


 そのときは、「ほう」とどう解釈したのか外からは判断つかない表情で、義孝の言葉を引き取った彼だったのだけれど、なにやら思うところがあったらしい。


「正直なところ、俺にはおまえのような益の少ない恋は全然わからんけどな」

 はっきり言われて、義孝は苦笑する。明朗快活で、容姿にも恵まれた道隆は、女人の受けもすこぶる良い。どこぞの後家の屋敷に転がり込んだだとか、父親の愛人と懇ろになっただとか、危うい恋の話も少なくない……。にもかかわらず、どういうわけか人に憎まれたり、嫌われたりするということがない。


 その辺は、同じ女好きとはいっても父親の兼家とは異なって、独特の人徳があるのだろう。

「一条の伯父上が薨じられてから、おまえ、仕事ではもちろん、女官や女房どもにも評判いいじゃないか。最近は、それになお磨きがかかって、内侍所でもおまえの話ばかり出てるぞ」


 内侍所? なぜ左兵衛佐の彼がそんなところに、と怪訝な顔で見返すと、彼は、あっ、と照れくさそうに、鬢を掻いた。


「ちょっと気になってる女が勤めてるんだよ……。まあ、それはいいんだ。とにかくな、そういう状況だから、何も面倒な女にこだわらなくっても……。あ」

 義孝が険しい表情になったことに気づいて、彼は「すまん、言い過ぎた」と即、頭を下げた。そういう彼だから憎めないのだ、と義孝は笑った。


「いや、君の言う通りだ。それでも、諦めきれないんだから、人の心は如何ともしがたいものさ……」

 他人事のように口にした従弟に、道隆は、ふん、と肯定とも否定とも付かない相槌を打って、「俺には理解できないな」と所感を述べた。


「そうだろうね。まあ、日々自分の無力さを感じて、こうして御仏に救いを求めているわけだ」

 それは道隆も信じなかった。さっきは供養と言ったくせに、と杯で彼の嘘を示した。彼の笑い声は憂いを払う五月の風のようだ。自然、義孝の笑みも増える。


「うちの親父殿のように強引な性格なら、違う目もあるだろうけどな。おまえは、そういう人間ではないしな」

 女人に関しては、決して父親のことを言えない彼なのだが、ちゃっかりと自分を棚に上げている様がどうにもおかしい。言うね、と答え、


「私は、自分を通すだけだよ」

 ふうん、本気なんだな、と道隆は呆れる反面、感心もした。そこでふと気まぐれが起きる。

「なあ、返事が来ないと言っていたよな」

 ああ、と義孝は頷く。それも悩みのひとつなのだ。無視はどうにも辛すぎる。


「俺が橋渡しをしてやろうか」

 予想外の申し出に、彼は目を丸くした。


「いや、それは有り難いけど……。でも、うまく行くかな」

 付き合いの長い自分がやって駄目なものを、仕事でもさほど接点のない道隆相手では、惟正が応じるだろうか。しかし、大丈夫さ、と道隆は胸を叩いて保証した。


「ここ何年か親父殿は土御門の方にいる、ある女を気に入っていてな。それがまあ、色っぽい佳い女らしいんだ。とにかく、その女というのが、右中将殿にとって義理の妹に当たるんだとか」


 ということは、藤原国章の娘、近江と言っただろうか。伊尹の前に藤原氏全体を取りまとめる氏長者だった実頼が囲っていたという召人愛人のひとりである。艶聞に疎い義孝も聞き及んでいた。


 道隆は、今は修理大夫しゅりのだいぶ殿か、と惟正の名前を訂正した。この年の七月後半、彼は嫡男の任官のために中将を辞している。もっとも、修理大夫や春宮亮、蔵人頭は兼任を続けているので、呼び名には事欠かない。


「世間ではすっかり二の伯父上が幅を利かせているが、この先どう転ぶか知れたもんじゃない。修理大夫殿は、親父殿とも親しくしているからな。そっちから突いてやれば返事のひとつくらいは礼儀としてさせるだろうよ」


「だが、君の立場はいいのか? 叔父上は変に口を挟んでくるのを好まれない方だろう」

 なんだよ、恋に惑っているわりに人が好いな、と自分を心配する義孝を笑い飛ばす。


「いいんだよ。俺には大した出世の目がないからな。おもしろおかしく生きる方が向いているんだ」

「すまない……。君にまで心を配ってもらって」

 思いがけない彼の厚意が嬉しくて、義孝は心から礼を述べた。すると、「そうでもないさ」と彼にしては珍しい色合いの表情を作ってみせる。


「女は好きだが、俺にはおまえのように思い定めた相手というのがいない……。いや、もしかしたらという女はいないではないんだが、それがなかなかややこしい相手でな」


 咎めるような目つきになっていたのか、道隆は「いや、不義などではないぞ」と笑った。とすると、内侍所に通いつめているらしいことから見て、美貌と才知で知られる高階の娘だろうと義孝は当りをつけた。妻のひとりならどうか知れないが、上古からの因縁浅からぬ高階の女では、嫡妻筋は難しいだろうと彼にもわかる。


 そうはいっても色好みの道隆ことだ。さほど切羽詰った話でもないだろう、とも感じた。

「とにかく、今のうちはまだ。おまえのような恋愛は、面倒臭いようにも、羨ましいようにも思える。所詮、そこらにいるのと同じ、女じゃないかともな」


 それに想い合うのはひとりではできない。だからこそ知りたいのだ。義孝には告げず、胸のうちで、ひとり呟く。


「見せてくれ、おまえたちの約束の先を」

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