二 君がため惜しからざりし(6)

「左大弁殿がそれをよしとするとおまえは思うのか? それにきちんと意味をわかっているように見えぬが。腹を痛めた子を、別の女の、子として手離すということだぞ。だとしても、左大弁殿の孫君の下流に立つことは免れぬであろう。それでよいのか? 最悪の場合、義孝殿にとっての劣った妻として、生涯人に侮られながらも夫の愛だけを支えにして生きていくことができるのか?」


 足元が、崩れていく。


 父の言う、無理、とはこういうことだったのだ。彼女は噛みしめた。どこを向いても塞がっていて、逃げ道がない。彼女の脆い世界は崩壊を始めたけれど、果たして、それは元からしっかりとした大地だったのだろうか。都合のよい幻想を現実と勘違いしていたのではないのだろうか。


 認識が揺れると、心を守っていた確信も揺らぎ始める。

 はじめから……? はじめから叶えられない願いだったというの?


 彼女は最後の抵抗として、虚しく「もし」と重ねた。

「もし、今、義孝様に保光様の娘御がおられなかったら……?」


 それは起きてしまった。今さら過去の事実を顧みても詮ないこと。わかっていても、彼女がすがるには架空の世界しか残されていなかった。


 もしも、順番が異なっていたら。


 時が入れ替わっていたなら。


 父はそれにも頭をうべなうことは、ない。

「伊尹殿という柱を失った義孝殿を支えられるほど、私も強くはないのだよ……。岳父となった左大弁殿は母君の兄上であられるうえに、そのご兄弟は従三位の右衛門督と中納言に就いておられる。一族総出で義孝殿を助けて行かれるだろう。一方、お前の父である私はどうだ……」


 受領として富を蓄えた惟正に必要な婿とは、摂関家の主流にいて影響力のある公達の子息……。後ろ盾があって、血筋の良い人間だ。彼はそこから外れてしまった、と正直に父は娘に伝えた。


「それでも、彼とともにというのなら、私はおまえと縁を切るほかない。だが」

 惟正は、そこで父親らしい苦悶の表情を見せた。


「おまえはたったひとりの娘なのだ……。ふたりの姉君を失い、世迷い言とも疑いつつも、男子の装束を着せてまで生きながらえさせた娘なのだ。この期になって、おまえを失いたくはない……。そこまでした娘につらい結婚をさせたくもない」

 どうか、と彼は懇願する。


「どうか聞き分けてくれ。この父を哀れだと思ってくれ」

 惟正はそっと袖で目元を拭う。京の貴族たちは大げさにすぐ涙する。田舎育ちの由子はそう内心呆れたものだったけれど、父が泣くのを見るのは母が亡くなって以来だった。


「父上……。ごめんなさい……」


 ああ……。


 彼女の胸を想い出が過ぎる。あどけない幼女だった日々、淡い初恋の日々。無くすことなど、考えもしなかったけれど。


 この恋は……。


 彼女は、「お気持ちをしっかり」と父を優しく案じた。


 どうやっても、どうやっても叶うことのない恋だったのだ。想いの生まれた、その瞬間から。

 子どもだった私は、そのことを知らなかった。いいえ、気づかないふりをしていた、


 やっと、彼女は理解した……。


「父上」

 彼女は寂しく微笑んだ。


「でも、今しばらくお時間をくださいね……」

 忘れるには、この恋は強すぎる……。


 一夜限りの夢だったとしても、もう少しの間は妻として彼を想っていたいから。


「せめて、その程度の我が儘はお許しください」

 彼女は力なく言い添えた。


 二月ふたつきを数える前に、彼女は父の二条第に帰っていった。

 おかげで、それまで叔母の家という障害に遮られていた文が再び彼女の許に舞い込むようになった。


 自らの意思ではないとはいっても、義孝は一夜の訪れになってしまったことをとても気に病んでいた。彼女をその場限りの浮かれのように扱いたくはなかったのだ。


 妻として礼儀を尽くしたい。

 その気持ちが一途に伝わるほどに、彼女は返事をすることができなくなる。察して、というのは身勝手だろうか。


 届いたはずなのに、返事が、来ない――。


 通じたはずの想いがまたもや正体の知れない暗雲に阻まれ出したことを知って、義孝は焦燥感にさいなまれた。愛を一度手にしてしまえば、失うことは想像するのも怖ろしい未来だ。


 そんな彼の上に、また七月がやって来る。


―― 忘れてもあるべきものをこの頃は月よよいたく人なすかせそ


 明月の光は清冽であり過ぎて、この夜を彼女とふたり漂いたくなる。つい、桃園の邸宅を後にして、二条の惟正邸に向かいたくなるところを彼はひたすらに押さえて、代わりに和歌を認める。


―― 君を忘れたままでいた方がよかったのだろうか。この頃は、毎晩のように月が君の許に誘い出そうとするんだ……。


 応えは、ない。

 彼女が受け取っていることを、彼は知っていた。自分がそうだったように、家族にこの恋を責められ、止められていることも。彼も一度は、それに屈してしまった。


 だけど。

 変わらない心で君を想うと、約束した。あの夜が明けようとしたとき、こんな朝をこれから何度でも迎えるのだと言い交わしたではないか。


 側にいられなくてもそれを思い出して欲しいと、彼は消息の手を止めなかった。文すら送らなくなったら、そのまま縁も消えてしまいそうで。そうでなくとも、ほんの些細な事象にすら、彼女を思い出してしまう。


 ある日、袖を通した狩衣は、彼女との逢瀬の夜に身につけていたものだった。

 その朝、雨に濡れた衣も明け方には乾き、彼女は初々しい手つきで彼の身支度を手伝うと、きゅっと袖の露先を縛って、「他のひとにはさせたくないわ」と呟いた。その寂しげな横顔が愛おしくて、彼はそのまま彼女を攫っていきたいほどだった。そのときと同じ衝動は、薄れずにずっと彼の裡に宿っている。


 しかし、その紐も古くなり、解けそうになっていた。


―― 我ならぬ人にはまなと結びおきし紐いつのまに打ち解けぬらん


 それほどの時間が過ぎようとしている。季節はとっくに夏を越え、間もなく冬の足音が聞こえることだろう。


―― 私以外にはさせないでと結んだ紐が解けている。君の心も、離れてしまったのだろうか……。


 返しのないのが、彼女の出した答えだよ。おまえのためだ、聞き分けた方がいい。

 事情を知った兄は、弟を思えばこそ、そう忠告した。そんな言葉で諦められるなら、とうにそうしている彼は、いいや、と頭を振って口を噤んだ。


 諦めない。

 今度は諦めない。


―― 命だに儚くもあらば世にあらばと思ふ君にやあらぬ


 父の一周忌を迎えて、人の儚さを改めて思いもした。自分だとて、いつ泡と消える身なのか知れないのだ。気持ちを押し殺して何になるというのだろう。


―― 頼りない命であっても、ありさえすればいい。本当にそれだけでいいと、君がそう私に思わせるのだよ。


 しかし、相変わらず文が返ることはなかった。父君が、そんなにも彼女を厳重に見張っているのだろうか? 惟正が容易には許さないことはわかっている。

 そう考えると、彼女が案じられて彼はつらかった。僅かに道時の妹を通じて周辺の些事は入ってくるのだけれど、それもごく限られた内容で、肝心なことを教えてはくれない。


 悶々とする義孝の許に、ある日、訪問者がやってきた。

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