二 君がため惜しからざりし(5)

 そんな叔母の許で過ごすうち、塞いでいた由子も段々と気持ちを持ち直すことができた。近江は彼女に詳しく事情を尋ねようとはしなかったし、女房たちも女主人の姿勢に従った。そうやって表面上は心も静まった、ある月の夜、格子越しにぼんやりと外を眺めていると、近江がやってきて、静かに彼女の側に腰を下ろした。


 ふたりの女は、一言も発することなく長いこと夜気に浸っていたのだけれども、やがて、若い彼女の方がぽつりと零す。


「私は、どうしたらよいのでしょう」

 黙ってひとり悩んでいることは、叔母も悟っていた。けれど、説教などするつもりはない。できる自分でもないと彼女はわかっている。


「貴女は、とても賢くて、そして真面目なのねえ……」


 独り言のように、姉上もそうだったのかしら、と彼女は呟いてから、「私には、貴女の悩みはわからないのよ。ごめんなさい」と素直に本心を告げた。


「愛して、愛されるのなら、恋を限るのなんて愚かしいこと……」

 もちろん、それなりの殿方であれば、ね、と付け加えるのも忘れない。


「でも」

 真剣な面持ちになって、彼女は姪ではなく、月を臨んで言った。


「なるようにしか、ならないものよ……。どれほど悩み泣いたのだとしても」

 彼女にも、これだけは、と思い定めたことがあったのだろうか。


 由子は、ふとそう感じた。そんな話は、毫も聞いたことはなかったけれど。

 婉然と微笑む月下の美姫はたとえようもなく麗しく、さらにしたたかに見えた。


 叔母は監視していないとはいえ、父の命を受けた家人が文の出入りを細かく確認していたせいで、義孝とは連絡も取れないままに一月ほどが無為に過ぎていった。連れて来られたときの嵐のような悲哀の時期は過ぎ去り、彼女も漫然とした憂愁に全身を浸食されるような心持ちへと変化する。徒然なるままに時の流れを眺めている彼女の許に、ようやく惟正が来訪すると報せが届いた。


 逢瀬の翌日からこの日まで、父娘おやこはろくに言葉も交わしていない。叔母が気配りしたとは思えず、おそらくは古女房の差配だろうが、とにかく屋敷の主側の配慮によって表から離れた曹司に居を定め、決裂したふたりは久方の対面を果たした。


 また、私を責め立てて彼をそしるのだろう。由子はそう考え、間に几帳を立てて距離を取り、ふてくされた態度を隠そうともせずにいた。


 ところが、父は娘の前に腰を下ろすやいなや、開口一番「すまなかった」と謝ったので、彼女はすっかり驚愕してしまった。もっとも、その程度で心を開くほど、軽薄な想いではない。つんと取り澄ましたまま答えないでいると、惟正は構わず話を続けた。


「私はおまえの気持ちを敢えて考えようとはせずに、ただ傷つけたくない、つらいことから逃れさせたいと思って、ひたすらに駄目なものは駄目だと拒んでいた」

 そのことはすまなかったと思う。そう言う父は、真摯な姿勢に満ちていた。


「だから、きちんと話そうと考えている。おまえも、もう本当の意味で子どもとは言えないのだから」

 などと、父親に逢瀬の一夜を仄めかされると、さすがに彼女も恥ずかしくなった。隔てになっている薄絹のおかげで顔色は伝わらない。わからないのだから、と彼女は気を取り直した。


「父親として、おまえと義孝殿の結婚を許すことはどうしてもできない。諦めてくれ、というほかないのだ」

 その宣告は、落ち着いた声色であるがゆえに、圧倒的な絶望として彼女に降りかかった。「なぜです……」と彼女は震える指を押さえて、掠れた声で尋ねた。


「義孝殿の心を疑うわけではない。彼は真実よい若者だ。才もある……。だが、今は、まだ五位の少将でしかないのだ。しかも、後見も亡くなられた。左大弁殿の娘御とふたりもの妻を擁せるような、そんな立場にない」


 義孝と母方の親族でもある左大弁・保光との関係は、非常に強い。今後、内裏でもさまざまな助力を受けるはずだ…… となれば、どちらが重要な妻になるのが自然だろうか。暗に、父は娘が愛人扱いされてしまうだろう、と仄めかす。


 もっとも、力ある貴族の妾妻ならば、必ずしも不幸とは言えない。あるいは、もとより卑官の娘であれば、それは玉の輿ともいえるだろう。けれども、これから三位、参議を目指そうという惟正の娘としては、あまりにも不適切な結婚となる。彼女の身を貶めるような関係を、父として許すわけにはいかないのは当然のことである。


 そう述べてから、彼は言いにくそうに声を落とした。

「おまえは、義孝殿の寵愛を疑ってはいないのだろう? 私も、偽りとは言わない。だが、寵とは移りゆくものなのだ。今このときには、他の女の影に苦しみ、嫉妬を露わにする妾妻であっても、以前は一世一代の恋、と世間の憧れになった頃もあったものなのだよ……」


 ああ。だから、父上は私をここに置いたのね。


 彼女はようやく合点がいった。叔母を悪く言う人はあまり好きにはなれないのだけれど、兼家の妻のひとり、藤原倫寧の娘に対する評判の高さは知っている。彼女は容姿も優れて美しく、機知に富み、裁縫の腕は当代一とも言われ、父の官位がもっと高ければ、后がねとしての条件をすべて兼ね備えた女人だったのに、とまで言われた。若い時分は、その美貌と賢さで兼家を魅了し、ふたりは大恋愛の末結ばれたのだ……。


 それが。

 きりりと胸が痛む。


「義孝様はそのような、心の浅い方ではございません……」

 なんとかそう答えると、そうだろう、と惟正も頷いた。


 あの若者は生真面目だ。心を移さないで、由子ひとりを愛し続けることも充分あり得る。それがどういう結果を導くのか、まだ若い恋人たちは理解していない……。


「それゆえに、彼は苦しむことになるだろう。父上を失った義孝殿が、これから栄達の道を進めるのか、それとも零落していくのか、それはこの私にもわからないことなのだよ……。優れた貴公子が父の後ろ盾をなくして、時流から見捨てられることは決して珍しい話ではないのだ……」


 そう教える彼自身、同じ憂き目に遭っている。世間から忘れ去られるなら、まだよい。身を持ち崩しでもしたら。

 娘はどうなる。娘の生んだ、孫は。


「とはいえ、おまえが間違いなく一の人、嫡妻であれば、一族をあげて婿の出世を助けることもできる……。だが、義孝殿はすでに左大弁殿に婿取りされている。左大弁殿を押しのけて婿を奪うなど、できる話だと思うかね?」


 夫婦は、想い想われたすえに結ばれるもの。そう信じたい娘の恋心はいじらしい。けれども、実際には結婚は家と家の格、身分や立場の釣りあいが重要だ。お互いの家族や生まれた子どもたちを引き立て、出世の道を拓いていけるような、そんな相手でなくては。


 もう、義孝はそういう相手と縁を結んでいる。

 でも、と彼女は無駄なあがきを試みた。でも、あの方は約束してくださったのだ。


「子が生まれたら、ちゃんと嫡流としてくださるともおっしゃいました……」


 彼は首を振る。

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